第五話
「ここから、来てくれればいいのだけど。」
システルが扉を見上げ、小さくつぶやいた。
しばしの沈黙の後、彼女は意を決したように振り向く。
「始めるわよ」
右手から魔晶石を宙に浮かべ、両手で杖を構える。詠唱を始めると足元に魔法陣が浮かび、ゆっくりと回転を始めた。魔晶石は次第に輝きを増し、貨物室の重い扉が淡い碧光を帯びる。無数の光粒が彼女の周囲を旋回し、渦のように包み込んでいった。
そして――。
急に、空気がひやりと冷えた。その瞬間、ガラスが砕けるような音が響き、宙に浮いた魔晶石が粉々に砕け散った。扉は眩く輝き、次の瞬間には光を失い、渦も消えた。
システルは一歩退き、大きく息をつきながら扉を見上げた。
「できるだけ強力な魔法をかけたわ。扉はこれでいいでしょう」
そう言うと、そこから離れ、少し貨物室の奥へと移動する。杖で床に素早く魔法陣を描き、それを終えるたびに左手首のブレスレットが一瞬輝いた。遅延発動の魔法トラップを次々と仕掛けているようだ。
まさか、本気でここで“あれ”が入ってくるのを防ぐつもりなのか――そう考えた瞬間、船が大きく揺れ、停止した。
――しまった。
気を取られて周囲の探知を怠っていた。慌ててそれを行うと、外の“あれ”が船へ急接近しているのがわかった。
そして、いつの間にか外での戦闘は終わっていた。
――まさか、この船が止まるなんて考えてもいなかった。“あれ”がここまでやってくるのにあと数分もない。
視線を送ると、システルは僕の動揺を察したようだ。少し、考えた後言った。
「私、あの人たちに封印が終わったことを伝えてくるわ。アルは、すぐに逃げられるようにしていて」
そう言って周囲を見回し、指差した。
「あのコンテナの影に隠れてて」
指先の先は、僕たちがここに入ってきたときの船内の通路への扉の近く。貨物室のハッチがよく見える位置だ。
「そんなの、もういいよ! 今すぐ逃げよう!」
叫んだが、システルはすでに奥へ走り出していた。僕は、彼女の後ろ姿を目で追う。
彼女は走りながら何度か速度を緩め、肩から提げたマジックバッグから球状の物体を取り出しては、次々と床に転がしていった。それらはコンテナや物資の隙間へと入り込んでいく。見覚えのある形だった――以前、暴走して僕たちの家の庭に大穴を開けた、あの魔法具だ。
その意図を考える間もなく、背筋を凍らせる悪寒が走った。
“あれ”が、すぐ向こうにいる。ハッチの扉一枚隔てた場所に。
僕は言われた通り足音を殺し、コンテナの影へ移動した。息をひそめ、ハッチを見据える。
肉球が汗ばみ、心臓が早鐘を打つ。呼吸が自然と速くなる――だが、何も起こらない。
こっちを警戒して探っているのか。それとも、システルの封印が効いているのか。
耳を立て、音を逃さぬよう集中する。喉が急に渇き、唾を飲み込んだ瞬間、背後の気配に飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、息を切らせて戻ってきたシステルがスマホをポケットにしまいながらしゃがんでいた。
「ここから出よう」
「まだ、だめよ」
頭に、あの炎上した船の光景がよぎる。それが、僕の中で現実味を帯びてきた。
「でも、あの爆発した船と同じ魔法を使われたら、この貨物室は一瞬で吹き飛ぶよ」
「それは今はないと思うわ」
そう言って、彼女はあの傭兵たちが守る奥の物体に視線を向けた。
「あの何かわからないものがある限り、この船ごと吹き飛ばすようなことはしないはず。さっき、ちらりと見てきたけど、そんなに頑丈そうに見えなかったわ。防御魔法もかかってなかったし」
そして、にやりと笑い、嫌味っぽく言った。
「あんたのご主人様のイマイチな魔法でも壊せそうよ」
僕はそんな嫌味は無視して言った。
「でも、もし外の“あれ”の狙いがその物体じゃなかったら?」
「だったらとっくに吹き飛ばされてるわ。きっと“あれ”は全力の攻撃魔法は使えないはず…」
その時、ハッチの方から微かな音が響く。
“あれ”が動き出し、急速に魔力を収束させている――封印を破るつもりだ。
僕とシステルは、コンテナの影から固唾を呑んで、その様子を見守った。




