第二話
「子供がホームから落ちた!」
鋭い叫び声が空気を切り裂いた。
反射的に声の方を向くと、数人の大人がホームの端に立ち尽くし、母親らしき女性が泣き叫びながら線路へ駆け出そうとするのを、周囲の人々が必死に押し留めていた。
電車の先頭車両はすでにホーム中央に差し掛かっている。人の転落を検知した自動運行システムが急ブレーキをかけ、金属が軋むような音がホーム中に響き渡る。しかし、その巨大な鉄の塊は、容易には止まらない。
「間に合わない——」
その瞬間、俺の右手は無意識にポケットへ動いていた。指先に触れる冷たい硬さ。それを握り締めると、滑らかな表面に汗がにじむ。一瞬の躊躇——それを振り払い、俺は一つの魔法を発動させた。手の中でそれが砕ける感触とともに、身体が重くなるような感覚が押し寄せ、周囲の時間が止まった。
魔法を使う者だけが目にする、空虚な世界。風も、人の声も、電車の軋む音さえも消え去り、静寂が支配する中で、一つだけ異質な存在を見つけ、俺は目を見張った。
背を向けて立ち身動き一つしない人々の中、一人の女性が不意にこちらを振り向く。その顔を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。見覚えのある、懐かしい顔——。
息を呑む俺に向かって、彼女が何かを言いかけた。しかしその瞬間、再び時計の針が動き出し、魔法が発動する。まばゆい光が視界を埋め尽くし、思わず目を閉じる。そして、目を開けた時には、彼女の姿はどこにもなかった。
混乱する間もなく、電車の前方に光の球体が現れた。それは眩い輝きを放ちながら膨張し、蜘蛛の巣のような網状の光を形作る。ホームとホームの間を繋ぐその網が迫る電車を絡め取ろうとするが、魔物の足止めを想定して作られたこの魔法は、鉄の塊にはあまりに非力だった。
光の網は徐々に押し込まれ、純白の輝きが揺らぎながら赤く変わり始め、限界が近づく。俺はさっきの光景を必死に頭の隅に押しやり、魔法に意識を集中させる。右手の指輪から光が溢れ、ポケット越しでもその輝きがはっきり見えた。
減速しつつも子供に迫る電車。緊張が張り詰めたホームに小さな悲鳴が漏れる中、俺は息を吸い込み、さらに強く念じた。網が一瞬だけ白く輝き、わずかに電車を引き戻したように見えた。そして、最後に一度だけ大きな金属音を轟かせ、電車はついに停止した。同時に魔法の網は赤い閃光を放ち、粉々に砕け散って消滅した。
ホーム全体が安堵の吐息に包まれる。誰かが俺の肩を軽く叩き、笑顔を向けてきた。それに軽くうなずきつつ、俺の視線は彼女を探して宙を彷徨う。さっきの光景が、壊れたフィルムのように何度も頭の中で再生される。
あれは、幻だったのか?
今まで、魔法の発動中に人はおろか、物すら動いたのを見たことがない。しかも、彼女は——。
突然、現実に引き戻される。線路に降りようとする母親を、周囲の人々が懸命に押し留めていた。駅員が慌ただしく電話をかけ、誰かが線路に降りて子供の状態を確認しているらしい。
「医者かヒーラーはいないか!」という声が上がる。
電車が止まっている位置からして、子供が轢かれた可能性は低い。だが、落下の際に大怪我をしているかもしれない。不安げに顔を見合わせる群衆の中、何人かが俺をちらりと見た。だが、俺が治せるのは軽い怪我程度だ。
その時、一人の女性がためらいがちに手を挙げた。
「私、ドルイドです。もしかしたらお役に立てるかもしれません」
その言葉に群衆が道を開け、彼女は誰かの手を借りながら慎重に線路へと降りていった。
やがて、緑色の光が数度瞬き、薄暗くなったホームを柔らかく照らす。そして光が消えた直後、子供の泣き声が響き渡った。
その瞬間、ホーム全体が歓声と拍手に包まれる。
俺はその光景をただ見守った。胸の奥に鈍く重い響きを感じ、それを振り払おうとしても、あの瞬間の記憶だけは消える気配はなかった。