第八話
ここから校舎までは少し距離があるけど、午後の授業は教室で行われるから、今から早歩きすれば十分に間に合うだろう。
僕は一つ小さく伸びをすると、すたすたと緩やかな坂道を下り始めた。
そのときだった。
さっ――と、黒い影が僕のすぐ脇をかすめていった。数歩先でくるりと振り返ったその姿に、思わず足を止める。
制服のスカートがふわりと広がり、それに遅れて、腰まで届く長い黒髪が、昼下がりの光に揺れながら宙を舞った。まるで舞台のスポットライトを浴びて踊っているような光景だ。
システルは、腕を後ろで組みながら挑発的に笑うと、腰をかがめて僕を覗き込んでくる。目が合った。
その瞳は、年相応の無邪気さと、魔女としてのどこか妖しげな色が混じっていて、太陽の光を反射してキラキラと宝石のように輝いていた。
思わず、ぺたんとその場に座り込んでしまった僕は、しばし彼女の姿に見とれてしまった。
でも、すぐに気づく。
――校舎まで、競争しよう。
彼女の視線がそう語っていた。
「……よし、受けて立とう」
僕は背筋を伸ばし、地面を蹴ろうとした――その瞬間。
ひときわ鮮やかな白い影が、風のように僕の横をすり抜けていった。
ニケだ。
さっきまで蝶を追いかけて遊んでいたはずなのに、いつの間に。あっという間に林の奥へと姿を消していった。
昨夜、僕たちが地獄のような課題と格闘していた最中、のんきに布団の上で寝息を立てていたっけ。そりゃ足取りも軽いはずだ。
システルはニケの消えていった方向を数秒だけ見つめ、それからふっと僕のほうを振り返った。再び目が合う。
今度は「追いかけよう」――そんな笑みだった。
僕は無言でうなずき、一歩を踏み出した。……が、すぐに足を止めた。
システルの背後。林の切れ間から見える空に、点々と黒い影が浮かんでいる。
鳥……ではない。もっと大きくて、静かに浮かぶあれは――船だ。次光船、次光船の船団だ。
そういえば最近、ニュースで言っていた。別の次層世界で大きな災害が起きて、こちらの世界からも支援の船が出る、と。
きっとあれが、そうなんだろう。
「……」
見上げていた僕に、システルも気づいたのか、同じように空を仰ぐ。
「うわっ、あっ、あっ!」
急に声を上げた彼女が、ふらりとよろけた。
「え?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。でも、次の瞬間に思い出した。
――ニケの姿がすぐに見えなくなった理由。そうだ。この先は長くて急な石段。学校の中庭へ続く近道。
「ちょっ、まっ――きゃああっ!」
システルの叫び声が木々のあいだからこだましていく。姿を追って駆け出した僕が、石段の上までたどり着いたとき――目に飛び込んできたのは。
転がっていた。
いや、正確には――まるで操り人形の糸が切れたように、ぐにゃぐにゃと不自然な姿勢のまま、石段を駆け下りていくシステルの姿だった。
スカートが風で翻り、腕が空を掻き、足がバタつく。
「やばっ! ちょ、待ってってば、きゃあっ!」
その声に、僕も必死で駆け下りる。一段一段を跳ね飛ぶようにして追いかけて――あと少し、手を伸ばせば届く距離だ。
でも、そのとき。
「ふふっ……あははっ!」
聞こえてきたのは、悲鳴ではなく――笑い声だった。
まさか、と思って彼女に並ぶ。
木漏れ日が差す中、システルは笑っていた。髪をなびかせ、頬を紅潮させて、心から楽しいとでもいうように。
まるで、転がっていることさえ、遊びの一つに変えてしまうような。
呆れながらも、僕は笑ってしまった。
本当に、どうしようもない。けれど――やっぱりこの魔女は、どこまでも眩しい。




