第一話
私は走る。
全力で走る。
古びた石垣に囲まれた、車がやっと通れる細い道を駆け抜ける。
道端には木々が立ち並び、枝葉の陰が地面にまだら模様を描いていた。
ゆっくりと時間が流れる休日の午後。
その模様を踏みしめる私の足音が、周囲に響き渡る。
午前中に止んだ雨が至るところに水たまりを残し、春の柔らかい日差しがキラキラと水面に反射する。
靴音に揺れる水の鏡は私の影を淡く映し、その奥ではゆったりと雲が流れていく。
ふと空を仰ぐと、一羽の鳥が真っ白な雲を背に羽ばたいていた。
その影が私の頬をそっと撫で、優美な軌跡が心を淡く引き寄せる。
心が透きとおるほどの静寂に包まれ、凪いだ時間の感覚が、静かに押し寄せてきた。
まるで自分がこの世界を飛び出し、大空を駆けている、そんな錯覚にとらわれた瞬間、あたり一面に小鳥たちのさえずりが広がった。
ふいに湧いたその声に、私は驚いた。けれど、彼らのリズミカルな歌声は、足取りをどこまでも軽くしてくれる。そして、胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。
雨上がりの澄んだ空気が鼻をくすぐり、心をふわりと軽くする。
笑いがこみ上げてくる。
陽気な気分がどんどん膨らみ、歌い出したくなった。
でも—— 慌てて口をつぐんだ。
前に歌いながら走っていて、変な虫が口に飛び込んできたことを思い出したからだ。
その時、影が肩をかすめ、青碧色に輝く鳥が疾風のように飛び去っていく。その先には、日光に照らされて舞う小さな虫の集団。
その光景に、私は声にならない悲鳴をあげた。
顔をしかめ、大きく迂回する。……と今度は目の前に、道いっぱいの大きな水たまり。
さっきここを通ったときは慎重に道の端を歩いた。
でも——今度は違う。
勢いをつけ、一気に跳ぶ。
「えいっ!」
体が宙に浮く。一瞬の浮遊感。
そして、なんとかギリギリ飛び越えられた。
着地成功——と思った瞬間、地面がぬかるんでいて足が沈む。
バランスを崩し、思わず腕を振り回す。
「うわっ。危ない」
どうにか踏みとどまり、ほっと息をつく。
再び走り出そうとしたそのとき、ママの言葉を思い出した。
『雨上がりの道は泥が跳ねるから、走っちゃダメよ』
私は走るのをやめ、歩き出した。
でも、もう遅い。
ここまで全力で走ってきた。
きっと私のワンピースの背中には、泥がびっしりついているに決まってる。
遠くに視線を送ると、スタンドの上の白い郵便受けが見える。
家はもうすぐそこだ。
もういいや。
私は再び走り出す。
郵便受けがどんどん近づいてくる。
このまま一気にラストスパート——
勢い余って、フクロウの形をしたそれを通り過ぎそうになり、あわててUターン。
家の入口にある白いアーチをくぐろうとしたとき、慌てて頭を横に傾けた。
思い出した。
出かけるとき、大嫌いな蜘蛛が巣を張っていて、危なく顔を突っ込みそうになったんだっけ。
巣のあったあたりを注意深く見ながら、慎重にアーチをくぐる。
……が、あれ? ない。
蜘蛛の巣がなくなってる。
不思議に思いながらも、庭の石畳を駆け抜け、玄関の扉を勢いよく開けた。
靴を蹴飛ばすように脱ぎ、短い廊下を駆け抜ける。
そして、リビングに飛び込むと、まるで世紀の大ニュースのように声を張り上げた。
「ダイスおじいさんのところの羊が、また逃げたって! 今度は三頭も。村の人たちが山に——」
そこまで言ったところで、キッチンに立つママの表情を見て、私は思わず言葉を飲み込んだ。




