幸運の女神はオシゴトがお好き
これは舞台俳優を目指す青年、篤人のすこし不思議な物語です。
400字詰め原稿用紙三十枚換算
「あー、もう。わっかんねーなー」
暮れ方の公園、今野篤人の悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。
一週間後に劇団のオーディションをひかえ、ひとり、練習を重ねていた。
オーディションは、歌とダンス、そして演技審査が行なわれる。そのうち、演技審査は受験者それぞれに課題が与えられていた。
「『あなたの願い事を三つかなえてさしあげましょう』。このセリフを楽しげに演じなさい」
これが篤人の課題だ。
ランプの魔神、食事のお礼をする旅人、猿の手、山姥を追い払うお札……。
セリフ自体はどこかで聞いたようなありふれたもので、いくらでもその役柄は浮かんでくる。……が、そのあとが問題だった。
「楽しげに」
どうにも、うまく表現できない。
悪魔の誘いを思わせていやらしく演じる……いや、逆に女神のごとく慈愛に満ちた笑みを浮かべてささやく。それとも、それとも……。
大学の演劇学科に在席していることもあって、演技にはそれなりの自信がある。しかし真面目で完璧主義な性格がわざわいした。
考えがまとまらない。クラクラ、めまいがしてきた。
その時だ。突然、キーンと高い音が鳴り響いて、消えた。篤人の感性をどこか刺激したのか、はたと思いついた。
(そうだ。恋人に語りかけるようにやってみよう。紳士が、舞踏会でご令嬢に声をかけるように。甘く、優しく、とろけさせるように)
もちろん舞踏会など、行ったこともない。プリンセス物のアニメ映画を思い浮かべ、イメージを膨らませた。
社交ダンスもどきの、でたらめなステップを踏む。
目をつむったまま、くるりと一回転。
そして、振り向きざまにあのセリフ、
「あなたの願い事を三つかなえてさしあげましょう、お嬢さん」
きまった! 自分の演技に酔いしれた次の瞬間、聞き覚えのない甲高い声が、耳をつんざいた。
「うわ! なに、いったい、どういうこと?」
(まずい、誰かが目の前にいる)
気恥ずかしさで、死んでしまいそうだ。
……が、意を決し、まぶたを開いた。
見た感じ、歳は一七~八才くらい。ぱっつん前髪で、ロングヘアの小柄な女性。そんな子が、目を丸くしてそこに立っている。
すこし怯えたように後ずさりして、
「……キミ、ひょっとして、妄想の誰かに恋しちゃうような、ちょっとヤバい人?」
確かにそう思われてもしかたがない。
なんせ、踊りながら、突然女性に声をかける変質者だ。
「いやいや、これは劇の練習で、事故で、俺は全然ヤバくない人で!」
「あはははは!」
必死さがツボにはまってしまったようで、腹を抱えて笑い出した。周囲を見回しながら、
「超ウケる! キミ、今、一人?」
「そうだけど、なんで?」
「ここで会ったのも何かのご縁。一緒にお茶でもしない?」
くつくつと笑いながら、上目遣いに篤人の顔をのぞき込んだ。
「俺、今、すごく忙しいんだけど」
「さっき、願い事、三つまでいいって言ったじゃない。その一つ目、今使います!」
「いや、だから、それは劇のセリフで」
「いいから、いいから」
ぐい、と強引に篤人の手を引いて、公園の外に連れ出した。
名前は「未来」といった。
二人が「喫茶キノ」の前に差し掛かると、「ここにしましょ」と足を止めた。
入口のドアを開けると、昭和レトロなドアベルが、カランコロンと鳴り響いた。
そこは篤人が行きつけの喫茶店で、マスターともすっかり顔なじみ。こだわりの、自家焙煎されたコーヒーが絶品だ。
夕食時とあって、残念にも、学生や仕事帰りのサラリーマンたちで満席だった。
「他の店に行こうか」
問うと、腕時計をちらりとながめ、
「ううん。私、ここがいい。きっと大丈夫。もうすこしだけ待ってみましょ」
そんな二人に気づいた店員の今日子が、慌てて声をかけてきた。ちょうど今、予約のキャンセルが入って、空席が出たらしい。
「すごいね。未来ちゃんが言った通りだ」
「ふふっ。私こういう予感、よく当たるんだ」
鼻高々にそう返した。
篤人は、店内の男どもの視線が、未来に注がれていることに気づいた。
衝撃的な出会いと、彼女の強引さに当てられ、今の今まで意識していなかった。
整った顔立ち、パステルピンクのワンピースに白カーディガンとフェミニンに身を飾る彼女は、女優顔負けの魅力を放っている。
彼女はふり返って、
「どうしたの? ぼんやりして」
篤人の顔をのぞき込む。
「あ、いや。席取れてラッキーだったなって」
うっとりと、
「ほんと素敵なお店。レトロ感漂ってて、コーヒーの香ばしい香りも素敵」
指先で唇を押さえた。
棚には、ブリキ玩具、昭和レトロな小物が、所せましと並べられている。壁には古いハリウッド映画のポスターが貼られ、スピーカーから流れるメロディもまた、その映画音楽だ。
「こういう小物とか、好きなの?」
「うん、好き好き! こういうレトロな感じ大好き。全部素敵!」
レトロマニアなのだろうか? そうかと思うと、見たこともない、高価そうなスマートウォッチをつけていたりする。
面白い子だな。思わず頬が緩んだ。
しばらくして、食事と飲み物がテーブルに運ばれてきた。
ラテアートで描かれたチューリップに未来が歓喜すると、いっそう会話にも花が咲いた。
「ふうん、篤人君、二十一才なんだ。じゃあ私と三つ違いだね」
「そうなんだ」
「うん、十八才で専門学校生。春に東京に出てきたばかりだから、このあたりもまだよくわからなくてね。学校帰りにぷらぷらと散策してた」
「それで、あんな人気のない所にいたんだ」
「けど驚いたよ。突然踊りながら話かけるんだもの。東京ってみんなああやって女子に声かけるのかと、ちょっと都会、恐れた」
ごまかすように、篤人はコーヒーを一口すすった。
「来週、劇団のオーディションあるんだね」
「うん。けど俺、ちょっと自信ないんだよな。タイムマシンでもあれば、未来先取り、がっちり準備して、無事合格なんだけど」
おどけてそう言うと、未来は神妙な面持ちで、
「そんなに、都合良くいかないよ」
すこし表情を曇らせると、
「あ、ごめん! そういうことじゃなくて」
両手を合わせ、
「こういうことって、決まった運命になるように神様が仕向けていると思うの。だからちょっとくらい過去を変えても、未来は変わらないって思う。そういうの、昔の人は『予定調和』なんていったらしいけどね」
すこし考えて、篤人は、
「つまり、なにやっても運命は変わらないから、前向きにがんばれって言いたいんだよね」
「まあ、そんなもんかなあ。努力だよ、結局。けど多分、大丈夫だよ。さっきみたいので」
未来は、頬を緩ませた。
「ほんとにそう思う?」
けらけら、笑って、
「だって相当インパクトあったもん。オーディションとかって、ウケたもん勝ちなんじゃないの? 少なくとも私にはかなりウケた。『三つかなえますよ、セニョリ~タ~』って」
未来の笑顔を見ていると、くさくさしている自分が恥ずかしく思えてきた。
ふと気付いた。
(なんで俺、今、この子と一緒にお茶してるんだ? 周辺の男どもの視線を釘付けにしてしまうような子だぞ? これって実はすごいラッキーなのかも……)
「そんなことより!」
「え、ええっ? あのその、ごめんっ」
「はい? なんで謝るの? それより面接もあるんでしょ。その準備、必要ないの?」
篤人の返事を聞くことなく、
「じゃあ、私が面接の練習、手伝ってあげる」
強引に話を進めてしまう。
そんな未来の勢いに飲まれたのか、なすすべなく、首を縦に振ってしまった。
面接官になりきった未来は、鼻息荒く篤人に次々と質問を浴びせた。それは面接というより芸能レポーターの質問攻めに近い。
「では最後に……ズバリ聞きます。あなたに今、恋人はいますか?」
さすがに面接でそんな質問をされるわけがない。単なる未来の興味だろう。
ちょうどのタイミングで、からくり時計が鳴りだした。鐘は七回打たれ、その音に会話は遮られた。
「え、うそ。もうそんな時間?」
はたと何かに気づいた未来は、腕時計に目をやると、急いで帰り支度をはじめた。
「ごめんね、定期連絡……じゃなくて、寮の門限、早いの」
コーヒー代をテーブルに置いて、「楽しかったよ」と笑顔を残し、髪をなびかせて早足で店を出て行ってしまった。
テーブルに取り残され、残ったコーヒーを一人寂しくすすっていると、未来のカップを片付けに今日子があらわれた。
「足の速い子ですね。もう見えなくなっちゃいましたよ」
口元をほころばせて、
「『舞台オーディション、私も応援しに行きます』って」
篤人に聞こえる程度の小声で伝えた。
「ちゃんと伝えましたよ。よかったですね」
返す言葉もなくポカンとする篤人。
今日子は微笑ましそうに見つめていた。
オーディションの日が訪れた。
劇団の舞台ホールでの一次審査。与えられた課題に従って、歌やダンス、演技の実技審査が行なわれ、面接試験はその後だ。
ともかく、まずはこの実技審査を通らなければ話にならない。
「あーつーと君!」
オーディションの待合室に向かうと、誰かが篤人を呼び止めた。
「おはよ。今日も一人?」
もちろん、それは未来だ。
「そりゃ子供じゃないしさ。けど、本当に来ちゃったんだ」
「二つ目の願い事、今日も使いまーす」
苦笑いで、
「ていうか、受験者以外は、オーディション会場に入ってきちゃ、まずいだろ」
周囲の目を気にする篤人。
「そうでもなかったよ。受験者の家族です、姉ですって言ったら、すんなり通してくれた」
この日の未来は、白シャツに黒パンツとシックなカジュアル系で、実年齢より大人びて見えた。そこに持ち前の押しの強さが加われば、係員も信じてしまうかもしれない。
「迷惑だった?」
かぶりを振って答えた。迷惑だなんてとんでもない。
待合室。篤人が静かに順番を待っていると、
「ねえ、篤人君。聞いたことある?」
未来が話しかけてきた。
「幸運の女神には、前髪しかないんだって。私みたいに、後ろ髪が長くないのかな」
後ろ髪を左右両手でつかみ、耳横にツインテをつくった。そんな未来にみとれて、言葉を失っていると、いたずらな笑顔を浮かべて未来は続けた。
「あはは、冗談、冗談。ホントはね、チャンスは、やってきたその時に捕まえなきゃいけない、ってことみたい。ほら、通り過ぎちゃったら髪の毛、もうつかめないでしょ」
ふうん、と相槌を打つと、未来は、
「きっと今日がそうなんだよ。絶対逃しちゃいけない。是が非でも捕まえないとね」
と、胸もとで、両手をぎゅっと握りしめた。
そのとき、スピーカーから呼び出し音が鳴った。ドアが開き、案内役の係員が現れた。
「それでは受験者の皆様、実技審査です」
同室の受験者が、一斉に立ち上がった。
未来から、
「がんばってね」
と告げられ、心地よい高揚感に包まれて、会場へ向かった。
並べられたパイプ椅子に座って、篤人が順番を待っていると、どういうわけか、未来もまた遅れて会場に入ってきた。
「はあい、篤人君」
どうやら係員に無理を言って、オーディション見学を許してもらったらしい。
「写真撮影はダメ、って言われたけど」
篤人の隣の席に、どすん、と腰を下ろすと、
「けどやったね、特等席!」
無垢な笑みを浮かべた。
オーディション本番が始まった。
受験者は、番号順に舞台に呼び出される。篤人の受験票には「三」と書かれていた。
前の受験者二人はすでに劇団経験があったようで、歌やダンスはもちろん、演技の表現力もかなりのものだった。
(さすがに、上手いな)
とたんに、篤人の心に焦りと不安がこみ上げてきた。
そんな様子に気づいたか、にんまり笑って、
「大丈夫。慌てず落ち着いて練習してきたことをしっかりやれば、必ず合格するって。前にも言ったでしょ。私、こういう予感、すごくよく当たるんだから」
篤人の鼻先を、つんと指でふれた。
篤人の名前が呼ばれた。
舞台の上、審査員の指示に従い、課題曲に合わせて歌とダンスを披露した。
この一週間、課題はみっちり練習してきた。
未来も見ている手前、絶対失敗なんかできない。覚悟を決めた篤人は、普段以上の実力を発揮でき、審査員の評価も上々だった。
続いて、次は演技審査。
例のセリフの課題だ。
結局これまで篤人は、あのセリフを上手く言えていない。どんな場面を演じても、うわっ面だけになってしまう。そんな中途半端な演技では、審査員から高評価は得られないだろう。
ふと、会場の未来の姿が目に入った。
早鐘のように心臓が鳴り始め、その時、篤人は、自分の気持ちに気づいてしまった。
自分には、自分の演技を見てもらいたい人がいる。このセリフを、もう一度あの人に捧げるつもりで演技をしよう。
公園で出会ったあの日から、今までに伝えたかったことを、このセリフに込めよう。
「あなたの願い事を、三つかなえてさしあげましょう」
ありがとう、未来ちゃん!
「あなたの笑顔が見たい。ただそれだけが私の望みなのです」
未来への感謝と、ほのかな恋心を乗せてセリフを言い放った。
それはこれまでの篤人にはなかった、渾身の、最高の演技だった。
「ブ、ブラボー!」
審査員の一人が、席を立って手を打った。
他の審査員もそれに続いた。
「あなたの演技にはどことなく色気があって素敵だわ。若いのにたいしたものね」
最後に、最高審査員の劇団長から、絶賛の言葉を受けて、篤人の演技審査は終わった。
面接を終え、待合室へと戻ると、パイプ椅子に座って、未来が一人たたずんでいた。
気づいて、
「お疲れさま、篤人君」
「ずっと待っててくれたの?」
うん、と目を細めて、うなずいた。
「すごかったよ、最後の演技。なんかこう、私も火照ってきちゃった。あつあつ」
手のひらを、両頬に当てた。
「未来ちゃんの、君のために演技したんだ」
落ち着いた話し方だった。
「え?」
「未来ちゃん、本当に俺、君に感謝してるよ。君のおかげですごく元気づけられたんだ」
篤人の真剣なまなざしを見て、その心の内を悟ったか、未来は声もなくうつむいた。
「だから……」
「だめ」
「何が?」
「だめなの!」
未来は、目を潤ませながら立ち上がった。
「俺じゃ、俺じゃだめってこと?」
「そんなわけない! だめなのは篤人君じゃなくて私のほうなの。それじゃ運命が、歴史が、変わっちゃう。篤人君が篤人君でいられなくなるの!」
大粒の涙を、ぼろぼろとこぼしはじめた。泣き顔を見られたくないのか、床に顔を向けた。そんな未来の様子に驚いて、
「どうしたの? 落ち着いて。なに言ってるのか、全然わからないよ」
肩を小さく振るわせて、未来は何も語ろうとしない。
振るえる肩を、篤人はそっと抱きしめた。
未来は一瞬身体を震わせたが、身を任せるように、篤人の胸にゆっくりと顔を埋めた。
しばらくして、落ち着きを取り戻した未来は、何かを決意した面持ちで顔を上げた。
「私、これからもずっと篤人君のこと、応援してるよ。だってこの時代で私がファン第一号だもの。このオーディションで合格して、すごい舞台俳優になってね」
篤人の腕を振りほどくと、「さよなら」とだけ言い残して、ふり返ることもなく、待合室から飛び出していった。
一瞬の間をおいて、篤人も未来を追う。
目の錯覚だろうか。
それとも幻覚でも見ているのだろうか。
キーンと耳鳴りのような高い音が鳴ったかと思うと、未来の周囲の景色が、水をこぼした水彩画のようににじみ始めた。そして未来は、そのにじみに溶けていくように、跡形もなく消え去ってしまった。
閉店間際の喫茶キノのカウンター。
「……俺、悪い夢でも見てたのかなあ」
マスターに愚痴をこぼす、悩める若者がいた。もちろん篤人だ。
「疲れてたんですよ、篤人さん。きっとまた会えますって」
そう篤人を優しく励ますのは、店員の今日子だった。
「普段はウチでは出さないんだけどね」
マスターが、店の奥からウィスキーのボトルを持ち出した。
「辛いと思うけど、これも人生だし、始まりでもあるんだよ。まあ、今日の所は、これですこし気持ちを紛らわすんだね」
少し濃い目の水割りを篤人にふるまい、映画音楽のレコードに針を下ろした。
「ローマの休日」
それがどんな物語か、篤人は知らない。
切なく流れるバイオリンの音色は、傷ついた彼の心を癒してくれた。
ところ変わって、ここは「文化管理局」と書かれた看板を掲げる建物の一室。入口のドアには「局長室」と記されている。
一人の女性が、デスクで「今野篤人に関する報告書」と書かれた書類に目を通している。
よほど、頭を悩ませる内容なのだろう。一枚めくるたびにため息を漏らし、いらつきを隠せない様子だ。
ドアベルが鳴った。来客のようだ。
「向後局長、時任管理官が来たようです」
「そう、中に入れて」
向後の指示で、秘書の小和田が、一人の女性を室内に招き入れた。
「時任未来、参りました」
それは未来だった。
背まで伸びていた髪はショートに切りそろえられ、グレーのビジネススーツの胸には「文化管理局」のバッジが輝いている。
時は二十六世紀。
半世紀前に生じた太陽の異常活動が、莫大な電磁波を放出させた。電磁波は地球上の多くの貴重な電子データを消失させた。
その復旧のために設立された組織こそ、未来の在席する文化管理局だった。
未来は、重たい足取りで向後のもとに歩み進むと、静かに一礼した。
「報告書、読みましたよ。あなたとしたことが、とんだ失敗をしてしまったわね」
「……はい」
「あなた、自分の任務を覚えている?」
「はい。私たち文化管理局の使命は、失われた人類の文化データの補完です。そして今回、私に与えられた任務は、二十一世紀を代表する舞台俳優、今野篤人のデータ補完でした」
「正確には、彼に最も影響した人物について調査確認すること、だったわね。ほとんど記録に残されていない謎の人物」
向後は報告書の初めの数ページを見返しながら、そう言い加えた。
「はい。残されていた彼のデータから、その人物との初めての出会い、二人の交流を深めることになる喫茶店、そして舞台俳優として飛躍する初舞台の場所と時間とを、特定することに成功しました」
軽くうなずくと、向後は報告書をさらに数ページめくった。
「そしてその三ポイントに、このウェアラブル・タイムマシンで時間移動して、その人物が現れるのを待つ計画でした」
未来が腕時計を操作すると、小型モニターからデータが浮かび上がった。
「しかしあなたは、そのチャンスを逃した」
「いえ、現れなかったんです、その方が」
未来が発言し終えるのを待ってから、向後は報告書の最終ページを開き、
「そうかもしれないわね」
と続け、語気強く、
「ですが問題なのはそこではなく、今野篤人があなたに恋愛感情を抱いてしまったことのほう。これはゆゆしき問題です」
報告書を静かに机に置いた。
「あなたは事の重大さがわかっていますか? 今、彼の心の中にいるのは、彼の時代から五世紀もあとに生きている『時任未来』、あなたなんです。これでは、彼は舞台俳優として大成できないだけでなく、彼の人生そのものが壊れてしまう可能性もあるのですよ」
「責任は……重々感じております。いかなる処分でも受ける覚悟をしてまいりました」
未来は、うつむいたまま床を見つめた。
向後は静かに答えた。
「私があなたに命じることはただ一つ。過去に戻って、あなたが彼を正しい未来に導きなさい。定期報告も不要。目的を完了するまで、この時代に帰ってくることは許しません」
「本当に……それが私への処分なのですか?」
眉を上げて、問うようなまなざしを向後に向けた。
「あなたがそれを不服に思うのなら、中央管理局に申し出なさい。それならまた違った処分がでるでしょうね」
「私、行きます。彼のもとに行かせて下さい」
興奮気味に、ほんのり顔を赤らめてそう答えると、未来は足早に部屋を出て行った。
「向後局長」
「何かしら、小和田君」
「すこし、厳しすぎませんでしょうか」
「なぜそう思うの?」
「このくらいの変化でしたら、予定調和されて、大きな問題にはならないと思いますが」
向後が言い渡した処分は極めて厳しく、流罪にも等しい。小和田が異議を申し立てるのも当然だ。
「たしかに、その可能性も高いでしょうね」
「ではなぜ?」
「むしろ行かせないほうが、困ることになるわよ」
「どういうことでしょう?」
小和田のあっけにとられた表情を見ると、向後は口元を緩めて、
「あなた、彼女がこの任務を受けてどんな様子だったか、知らないでしょう。文化管理局きっての期待の新人。仕事の虫で恋も恋愛もほど遠かった彼女が、今野篤人の舞台動画を見る時はうっとりため息まじり。好みのタイプの女性やら服装やら調べては二十一世紀ファッションのデータをあさったり、もう完全に恋する乙女よ。『推し活』なんていうらしいわ、あの時代では」
「それにしましても」
不満げに小和田が食い下がると、一呼吸おいて向後は答えた。
「さっき彼女は『ターゲットの人物は現れなかった』って言っていたけど、とんでもない。ちゃんと現れていたのよ。それもかなり強烈に。ここまで言えば、さすがにあなたでもわかるわよね」
理解したように、小和田は、
「すべてが運命に織り込み済み、ということですね」
気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「極めつけは、報告書の最終ページに書かれていた彼女のセリフよね。あの子、全然気付いてないんだから」
向後は頬を緩ませた。
オーディションを終えて、三年が経った。
篤人は無事オーディションに合格。入団を果たすことができた。
その後、劇団の若手ホープとしてぐんぐん知名度、実力ともに高めていき、そしてとうとう主演俳優、しかも主役の座を担うことができた。
異例の出世だ。
何度、舞台俳優なんて辞めてしまおう、と考えたか。しかし、そのたびに未来の「応援してるよ」というひと言が心に響いて、留めさせてくれた。
未来の存在がなければ、篤人はここまでこられなかったろう。
そして今日がその初公演。
気力も体力も十分に満ちていたが、どこか心が満たされないでいた。
自分の演技、成長した自分を、本当に見てもらいたい人がいないからだと、篤人自身わかっていた。
「篤人さん」
開演直前、劇団員の直井が、控え室のドアを叩いた。
「ああ。とっくに準備はできてるよ」
急かされるのを嫌う篤人は、ぶっきらぼうにそう返した。
「いえ、そうでなくて。篤人さんに面会したいっていう人が、来ておりまして」
「ファンの子? もう開演直前だってのに、困ったね。悪いけど、丁重にお断りしておいてもらえないかな」
篤人は襟元を正した。
「はい。もちろんそのように申し上げたのですが、まったく聞く耳もたずで、『せっかくファン第一号が会いにきてあげたんだから早く会わせなさい』って。ともかく強引で、今もすぐそこまで!」
「え?」
その時、篤人の胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。消そうとして、とうとう消すことができなかったあの感情。
そして次の瞬間、直井を押しのけてそこに現れたのは、もちろん……。
「はあい。お久しぶりね、篤人君!」
「未来ちゃん!」
「三つ目の願い事、まだ、使えますか?」
「そんなの、当たり前だろ!」
かけよって、両手で未来を包み込んだ。
「きゃっ」
「もう俺は絶対にこの手を放さない。もし放してしまったら、二度と君を捕まえられない。君こそが俺の幸運の女神なんだから!」
「篤人君!」
三年の空白の時間を埋めるかのように、二人はずっと抱きしめ合っていた。
のちに篤人が記した自叙伝の後書きに、こう書かれている。
「私の第一番目のファンのあなたがいなければ、私は舞台俳優としてここまでこられませんでした。私にとっての最大の幸運は、あなたに出会えたことです。運命の神様に乾杯」
そして時を超えた「推し活」に乾杯。