城南事件帳 2
とはいえ、朝子の方も、このままただ別れるのは後ろ髪引かれる思いだった。それはマッコイがいい男だったから、ではない。このカナダ人は、背丈は170センチ無かった。朝子はハイヒールを穿けば170センチを超える。この日も赤いピンヒールだったため、目線は男を見下ろす形だった。顔だって、ごくごくありふれた白人の顔で、見慣れないうちは、白人とみればみな、適度に鼻が高くて彫が深くて、映画俳優のひとりやふたりに似ているとのぼせ上がる日本人女も少なくない。が、令和の今である。コロナ前の2019年(令和元年)さらに、その前年2018年ともに、連続して訪日外国人旅行者数は3100万人を超えている。逆に、出国日本人数も2008万人である(出典:日本政府観光局JNTO)。銀座や秋葉原など盛り場をちょっと歩けば、よれよれのTシャツに薄汚れたジーンズのバックパッカーなどによくいそうなありふれた白人男の顔にすぎないことがわかる。
すぐに帰りたいという気持ちにならなかったのは、男が新聞社に勤めているからだった。朝子のアンテナが鋭く反応した。報道の世界に入るのも悪くないかも・・と。たしかに、滋賀県からモデルになるために上京した。東京の大学を選んだのもそのためだった。だけど、いま、ちょっと、道が塞がってしまった。まっすぐ進もうと思ったら、思わぬ悪路に入り込んでしまいった。それをひょっとしたら、軌道修正できるかもしれない。このガイジンと知り合ったのを奇禍として、言葉は悪いが、踏み台にしてでも、有名になりたい、いい男をゲットしたい、という己の野心を叶える道はまだ閉ざされていないんじゃないか。青の原色のドレスを身にまとって夜の街へと繰り出した朝子は、夢のセレブ生活へと突き抜けるため、猛烈なスピードで、おつむのなかの電卓を叩き始めた。朝子は下戸だったからこの時もソフトドリンクを口にするだけだった。が、それでも、金曜日に店に繰り出してきた客たちの人いきれに頭は半分酔っぱらっていた。が、これにより、一層加熱し、沸騰し、しまいにはイカれてしまうんじゃないか、でも、構わない、イカれるならいっそ空中分解したってかまやしない。どうせ一度切りの人生じゃないの、望むところよ。そんな自分を斜め上から俯瞰しつつにやりと笑う朝子だった。
「ねえ、マッコイさん」朝子は、小首をかしげ、瞳を輝かせ、唇を濡らして、「私、モデルやめて、ジャーナリストとして働くことはできませんか? 英語は結構得意なんです。いま、私の英語を聞いておわかりじゃありませんか?」 俄然、アクセルをふかし始めた。
これに対し、マッコイは、内心、面白くなかった。なんだ、さっきまで、映画や料理やファッションの話ばっかりだったのに、オレが編集者だと知るや、急に眼の色を変えてきやがった。色仕掛けで。が、白人は白人でとっさに考えを改めた。それなら好都合じゃないか。オレの経歴に興味持ったんだろ。それなら、さんざん、引っ張った挙句、いただくものいただいて、後はいままでの女同様、ポイ捨てすればいいだけじゃないか。腰かけで日本に来ているにすぎないいかにも狡猾な白人の思考であった。
「オーケー。君は美人だから、というと、日本ではいいかもしれないが、ジェンダーのうるさいカナダでは問題が生じるな。とにかく、やる気があるっていうんだったら、ウチでアシスタントとして働くって道もありうると思うよ。編集長にかけあってやってもいい」
「ほんと? うれしい。ぜひ、お願い。お願いします」そう言って、朝子は止まり木から飛び降りては目の前の男に抱きついた。心底、うれしかった。アダルトビデオ業界なんかに一秒たりとも所属していたくなかった。それどころか、ヨコハマ・トリビューンなら歴史もあるし聞こえもいい。英語は書けるほどではないにせよ、自分の容姿を生かして、広報でもなんでもできるはずだ。日本は、そうでなくたって、男尊女卑の社会。芸能界は露骨だ。マスコミも表向き男女平等を謳っているが、一たび裏に回れば見られたもんじゃないとも聞く。あたしの見た目ならきっと、偉いおじさんどもは放っておかないはず。ぜったい、檜舞台に踊り出られる。やってやるわ。
妄想の絶頂のなか、スマホが振動した。社長の谷渕からだった。これにより朝子は、いっぺんで現実へと引き戻されてしまった。
「いま、どこにいる? 撮影の段取りはすべて出来上がっているんだよ。あとは君だけだ。そうじゃないと、スタッフみんなに多大な迷惑がかかるんだ。わかるよね、朝子ちゃんなら」
谷渕はまだあきらめていなかった。朝子を『元モデル出身の新人AV女優』として売り出すことに。さんざんの手練手管で、谷渕は朝子の居場所を白状させた。
「朝子ちゃん、それなら、いまから、そっちに行くから待ってて」
朝子もそれまで数か月間、知らない仲ではなかった、金銭的にも肉体的にも世話になってきた谷渕が迎えにくるというのだから、黙って従わざるをえなかった。五反田の事務所から六本木は金曜夜の道ではあったが、15分程度で車で到着した。「わ」ナンバーの白いベンツだった。




