城南事件帳 2
「なんで、娘が、よりによって、そんなところで・・」
遺体の第一報を梅宮が来訪とともに知らせると、ホトケの結城真由子の母親・結城延子はぼうぜんと玄関内で立ち尽くした。あまりの突然の告知に、ことの重大さ悲しさを受け止められない、事実が早すぎて頭がついていけない、こんな時にちょっと不謹慎な物言いかもしれないが、一時期さんざん受験生を苦しめやがった表向き天才批評家兼作家その実銀座クラブで鼻の下を延ばしたホステスとのキス写真残存単なるすけべ帝国大学枠内で適当に蠢いた輩の手による「モーツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない」といったところだろうか。
ホトケの真由子はずっと実家暮らしで、大田区上池台1丁目の、環八(環状八号線)から一歩入った、「東京の良い住宅地」に生まれ育った。小池がそばで、教会も坂の上にあって、あまり大きくはないけれど、まるでケーキの上に乗っかっているデコレーション用のおうちのような瀟洒な西洋風のお屋敷で、何不自由ない生活を26年間送っていた。父と母と三人で。父の育った家だった。母・延子も文京区本郷の教育者の家庭で育ち、お嫁に来てからずっと小池を見下ろせる最高の環境で娘を育てた。娘は小学校から赤十字病院前の女子校に入れ、箱入りと言ってよかった。ピアノを習わせた。絵も習わせた。水泳も空手も護身術も総合格闘技も。良かれと思う習い事はなんでもさせた。もちろん、英会話も、中学校に上がる前から、要は、ネイティブに近い発音にするため、10歳になる前から、白人の講師の英語を耳に馴染ませた。手塩にかけた娘だったのだ。
「刑事さん、どうか信じてください。ウチの娘はけっして、あんな五反田なんかの、場末で途中下車するような子に育てた覚えはないんです。ましてや、逆さクラゲに出入りするような子に。どこの馬の骨かわからない男なんかとチンチンカモカモするような玉じゃないです。どうか、信じてください」
必死な母親の懇願に、小学6年生の子を持つ父親として、ほんとそうだな、と身につまされる思いがした。はずなのだが、そのいっぽうで、なんか、腑に落ちない。なんか、ひっかかる。なんでだろう・・自分の娘つかまえて、玉って言うかなあ。こんな高級住宅地にお住いの品も悪くない奥様が。それと、五反田なんか、ってのもなあ。口のきき方ってすごく重要なんだよね。管轄が地元ゆえ、ちょっと、もやっとした頭になってしまうが、まあ、いい。これも、刑事という職業上、しかたのないところ。娘が死んでいたのだから、そのことを現職の刑事が玄関口にやってきて直接告げられたのだから、とりみださないほうがどうかしている。これでいいのだ。梅宮はおのれに言い聞かせた。
「ところで、お母さん、娘さんの男性関係はいかがだったんでしょうか?」
「えっ? だから、人のはなし、聞いてなかったんですか?」若干、逆切れのご様子。額には青筋が浮かんでいた。「娘をふしだらに育ては覚えはない、と申し上げているんです」
「信じます。そうかもしれない。ですが、五反田のレンタルルームにいらした以上、ひょっとしたら、万が一って、可能性を我々プロは考えるんです」
「万が一もありません」目を三角にして口を真一文字に結んできっぱりと否定する母親。一分の反論も許さないといった剣幕だ。
「わかりました。ですが、あの場所は普通の場所ではないんです。良家の子女が近づく場所では。では、どういう人間が近づくのか。ご想像できますか?」
すると、普段なら日本橋の老舗デパートの常連さんという感じの余裕のある、ご主人が堅い会社にお勤めの専業主婦といった出で立ちの延子が、
「デリヘルですか、それとも、メンエスですか?」
ときたもんだ。
これには、質問をしたほうの梅宮がびっくりした。えっ、そんな言葉、知ってんの?
「・・まあ、そういった類に、万が一、バイトでもなさっていた可能性は否定できーー」
「万が一も、チンが一も、否定できますっ!」
おおっ! 一刀両断だな。言下に否定されたよ。まあ、わからなくはない。だけど、刑事としては食い下がる。
「実は、カメラには男と部屋に入る姿も記録されているんです。だから、最近、お付き合いされているという気配はありませんでしたか?」あくまで本職として、冷静に情報を引き出そうと努めた。しかし、母親の怒りは「わかりません」の一点張りだった。このまま続けても、母親の感情に火に油を注ぐだけで、ヒートアップのなにものでもない。どうやら、ほんとうに娘のことを知らないらしい。
娘が死亡した悲しみも、怒りも、すべてのはけ口が自分に向けられるだけだ、と危機感を覚えた梅宮は、話を切り上げる意味もあり、ホトケの部屋に上がらせてもらった。畳6畳ほどの小さな個室は女性特有のいい香りがした。妻のツヤ子の加齢臭とは大違いだな、やっぱりひとりもんの女の生活臭って、違うんだな、今日は役得だな、などとヘンな気持ちが頭のなかをかすめた。が、すぐと、いかんいかん、そんな、捜査に支障をきたすような妄想などしちゃいかん、と心を鬼にして、ふんどしを締めなおした。イテっ。
生まれてから実家暮らししかしたことがないためか、机の横の本棚には、小学校の頃の解凍社の偉人伝シリーズが英語のペーパーバックと一緒に並んでいた。
「ああ、懐かしい。偉人伝ですね」と仕事中にもかかわらず、相好を崩して梅宮が手に取ったのはベートーベンだった。「この『聴力を失いながらも、音楽への情熱を燃やし続け、数々の名曲を生み出した』ってくだり、子供ながらに泣いたなあ。ほんと、偉人の鏡のような人だもんなあ」
ひとしきり感動したかと思えば、その右隣には「野口英世」が。「ああ、これも、読んだなあ。母が買ってくれて。というより、無理やり押し付けられたようなもんだったんですけどね。小学校上がってからかあがる前だったかは覚えてないけど、たしかクリスマスプレゼントかなんかで、枕元に置いてあったんじゃじゃないかな。左手のやけどにもめげずってくだりの、ほんと、子供ながらに、偉いなあって、僕も将来は立派な医者になろうって、誓ったもんですよね」
脇で見守っていたホトケの母親は、はぁ~、となんと表現したらいいのかわからないような複雑な表情をしながら、それでも、相手が刑事さんゆえ、失礼があってはならないと気を使っているのがよくわかった。
「あっ、キュリー夫人だ。これもすごかった。言い方悪いけど、乙武さんの元祖ですよね。五体不満足って意味では。あっ、これは、石川豚木かあ」
「それは、啄木です」
「ああ、そうですよね。なにをした人でしたっけねえ。歌を作った人ですよね。漱石に教えた」
「それは、正岡子規です」
「あっ、そうでしたか・・」さすがに、捜査の場で童心に帰っている自分に違和感を覚えたのか、その辺りで、本棚に見切りをつけ、方向性を変えることに。