城南事件帳 2
なんで、モデルが帰ってしまったことで、プラザ合意までさかのぼらなければいけないかは、混迷した本人である羽生刑事自身理解が追い付いていないが、せっかく、釣ったかな、と思った魚が逃げてしまったことだけは事実のようであった。
翌日、大崎署に出勤すると、刑事課はやけに殺気立っていた。
「どうしたんですか?」羽生はちんちくりんの茶髪頭、恵三四郎係長にたずねる。すると、恵係長は、
「あっ、羽生君か。ホトケさんがあがってたんだよ、大崎署管内のレンタルルームで。若い女性の遺体が」
「レンタルルームって、管内ってことは、五反田ですよね」
「そうだ。現場は、西五反田一丁目の『レンタルルーム スリープ』だ。臨場してくれるか、すぐにでも」
「はい、もちろんです」
そのころ、先輩で相棒の梅宮文太刑事は、といえば、すでに9時をすぎているのだが、どうやらまだそのこと自体、お分かりでない様子で、
「あ~、疲れたなあ。昨夜は本当に疲れたよ」布団のなかで寝ぼけまなこで夫がおはようの挨拶をすると、
「ええ、昨日は、あなた、なかなかいいお勤めでしたことですよ」床に布団を並べて寝ている妻のツヤ子も、まだ布団のなかから起き上がるそぶりもみせず、寝そべったまま、しかし、しっかり夫の「功績」を褒め称える。
「そろそろ、起きて、飯にするか。ぐっすり寝たから仕事もはかどるだろう」と天井そばの時計を見ると、時計の針はすでに9時を10分ほど過ぎていた。
「まずいっ!」
「まったく、部下の羽生が臨場するというのに、上司である梅宮はまた遅刻かっ」
恵係長は、だれもいなくなった刑事課で、椅子に座って、机の前で腕組みしながら、一人カリカリしていた。先日、五反田有楽街の北の端のラブホで財務官僚が死んでいた時だって、梅宮は遅れてきた。あいつは、事件があるっていうと、必ず遅れる。ここぞっていうときに、いない。逆に言えば、アイツの奥さんがヤルっていう夜は不吉な事件が起きる前兆ってことじゃないのか。そういう、仮説を立ててみた。それなら、アイツの奥さんに、逆にストップを掛ければ、こっちの仕事を減らせるかもしれない、ってことにはならないだろうか。恵係長は、いたってまじめにこういうことを思考する人間だった。風が吹けば桶屋が儲かる。それなら風を吹かせばいいんだ、という荒唐無稽な発想なのである。だから、人にばかにされるのだが、それも、わかってるんだかわかっていないんだか、よくわからない。どういう経緯で係長になったのかも不明で、姑息な性格の男ゆえ、きっとその時の上司や署長クラスに袖の下でも渡したんだろう、と刑事連中の間ではもっぱらの噂である。なにせ、恵係長の実家は、北日本のとある半島に拠点を持つ、江戸時代からの伝統工芸品を作る家元らしく、どうしたもんか、お金だけはあるらしい。昔っから、バカにお金を持たせるとロクなことなどない、と言われるが、その典型だ。スーツ、靴、時計、かばんなどは、日本橋の老舗デパートに奥さんと出向いて買い揃えた高級品ばかりで、まるで歩くデパートと言ってもいい。しかし、肝心なのは、中身だ。どうみても、抜けたつらで、背も低く、読むものといえば、いまだに少年漫画ばかり。小説などは読んだためしがない。したがって、朝礼の訓示などはつまらないことこの上ない。紋切型で、どこか、それこそ、ネットで切り張りしたような陳腐な文章が口をついてでてくるだけ。ほんと、バカの見本だ。現代日本のバカを体現させたら、係長を置いて他に存在しない、と断言していい。それほどに、品格、知性に欠けた警察官だった。