ゆずり葉の死の列車
ぼんやりとした意識の中で誰かの声が響く
「笑いましょう」
楽しげで道化師のようなころころとした明るい笑い声
「貴方自身が”生きる”ため、にね」
”どういうことなんだ?”
そう聞こうとしたが、その声は反響する様にゆっくり消えていった。
どこか、知らない場所。
古臭い汽車が真っ暗な闇の中を切り裂く様に線路の上を滑走する
颯爽と一人の男が車内に入ってきた
わらわらとそこへ小さな子供達が笑顔で駆け寄ってきた。
「わぁ!ファントムだ!」
「おやおや、みんな今日も元気でしたか?」
「うん!ここに来てからすごく元気だよ!」
そうですか、とファントムと呼ばれた20代程の年齢の男性はゆっくりうなづいた。
真っ黒なスーツに身を包む彼は、まるで執事のようでもあった。
ここは、子供が死ぬ間際に訪れる「死の列車」
ミステリートレインと呼ばれている
「さあさ、皆様!そろそろ発車のお時間でございまーす」
ファントムは大袈裟に手を大きく上げると笑顔でこう言い放つ
「ご乗車ありがとうございます。お忘れ物ないように。
わたくしはこの列車の車掌を勤めるファントムと申しまぁす。
ようこそ!死の列車へ!」
ゆずり葉の死の列車
田中ヒカルは”心”がないと言われていた。
中学3年生、多感な時期なのに毎日目に力もなく同級生からも
「田中ってさ、笑わないね、いつも」
ロボットみたい、それとも人形?
鬱?虚無ってる?
同級生の美少女、佐藤アリスのことは少しだけ気にするぐらいの普通の中学生
”さっさと勉強しろ!この役立たずがっ!”
昨夜の傷がまだ痛む。どこが痛むだとかヒカルはもう考えない様にしていた。
ヒカルを叩くのは彼の父親だった、毎日、酒に酔うとヒカルをサンドバックの様に
何かと難癖をつけ殴りつけ蹴り罵倒した。
ヒカルは殴られるたび、蹴られるたび、罵倒されるたび”心”を亡くしていっていた。
もう心なんてずっと空っぽだ。
ヒカルは他人事の様にそう思っている。
「そういえばさ、佐藤さん。最近学校来てないね」
そんな声がクラスの女子から聞こえた
「足怪我したんだって。階段から落ちたみたいだよ」
「わー、かわいそー」
「佐藤さんもさ、愛嬌あるんだけど...こう誰とも喋らないって言うか」
女子達の口は止まらない
「分かる!不思議な子だよねぇ」
「そそ。あっ!帰りにさ、新しいスイーツの店とかいかない?」
「行く行く〜、インスタにあげたいし」
女たちの話題は風の様に早く過ぎ去る、ヒカルはまた何も考えずに日々を過ごす
クラスメイトにサッカーに誘われても、この子可愛いよなと旬のアイドル画像を見せられても、何も感じない。
成績も悪くない、清潔にしている、住む家もある。いたって普通。
ひとつだけ違うのは「親が厳しい」ことぐらい。
「田中ん家って羨ましいよな、お父さんもお母さんも良い親なんだろ?」
「そうかな、そんなこと考えたことないや」
ヒカルはオウム返しのようにクラスメートに言葉を返したが
(僕って、何かおかしいのかな?)
そう心の中にモヤのような”何か”が生まれた瞬間
死の列車、車掌ファントムは
「見つけた!」
と大声をあげた。
「田中!捕まえる!」
とそっとヒカルに手を伸ばし始めた。
「ねえっ!聞いた?佐藤さん、死の列車に連れ去られたみたいだよ!」
「まじ!?あれって都市伝説じゃなかったの?」
朝から女子達はまた五月蝿い、噂話がないと死んでしまう病なのかな?
「見たって!」
「だから何を?」
「知らないけど見たって!」
通り過ぎる声を聞き流すヒカル
翌日、ヒカルは朝の食卓でぼんやりとこう同席している父に告げた。
「ねえ、父さん。死の列車に連れ去られるってクラスメイトが言ってた」
「はぁ?バカも休み休み言え。そんな妄想信じるな、全く最近の中学生は馬鹿げてるな!」
イライラしげに父は新聞を叩きつける様に机に置き退室した。
残された食器を片付けながら呟くヒカル。
「はあ...なんか楽しくない」
深いため息
「僕、楽しく心から笑いたい」
その時、ポーッと大きな汽笛らしい音がヒカルの耳を貫く
周りを見ると真っ黒な蒸気煙を吐き出す汽車が見え、その中から一人の男性の姿が見えた
彼はまっすぐヒカルの方を見つめている
突然現れた不思議な光景に、腰を抜かし座り込んだヒカルをそっと立たせ男性はこう告げた
「ようこそ、そしてはじめまして。田中ヒカルくん、私はこの列車の車掌を勤めているファントムと申します」
うやうやしくヒカルの手をそっと取ると、優雅に頭を下げるファントム
「私の役目は『子供に夢を』見せに来ました」
ヒカルの両頬に手を添え、真っ直ぐな瞳で見つめてくるファントムの瞳には十字架模様が光っていた。
「さ、笑いましょう」
「ったく!っるせぇな!静かにしろ!ヒカル!」
遠くから父の声が聞こえた、どうやらファントムや汽車が見えているのはヒカルだけらしい。
「父さんには見えないんだ」
「ふふふ。どうですか?嬉しいでしょう?」
「え?何が?」
思わず生返事を返すヒカル
「こうやって死の列車に乗れるのが★」
”佐藤さんが死の列車に連れ去られたんだって...”
「お前だな!佐藤さんを連れ去ったのは!」
ヒカルは思わず大声を上げファンタムを牽制する
すると、んーとファントムは少し考える
「ああー!そういえば!」
手をポンと打った
「先日お越しになった田中くんと同じ年くらいの女の子のことでしょうか?」
ニコニコと微笑むファントム、だが笑みをもっと深めると
「しかし実に余裕のある男の子だ、自分の一大危機だと言うのにね」
話がころころと変わるファントムになるでついていけないヒカルに
「いやあ、何も感じないって不思議。さあ!笑いましょう!大声で!ほらあ!」
「笑えないよ、いや、一体、お前なに?」
ヒカルの問いに、ふわりとファントムは立ち上がると
「わたくしの名前はファントム。死の列車の車掌を勤めております」
続ける様に
「仕事は先ほども申し上げましたが『子供に夢を見せること』。田中くんも共に頑張っていきましょう、ねっ!」
はぁ?と訳が分からないヒカル。
しかし、それに気づいていないのかファントムは矢継ぎ早に言葉を畳みかけた。
「今は列車が人手不足なんですよぉ、ちょうど君ぐらいの子が欲しかったんです」
いや、だから!とヒカルはファントムに何か聞こうとするが、そっとそれを手で止めるファントム
「痛い人間を見てると気分が悪い!痛くないやつに変えたらサイコーにアゲアゲってやつです。若者言葉は難しいものですねぇ」
「痛くないやつに変える??はぁ?」
「つまりは...田中くんも列車に乗るんですよ」
ふふふっと、ヒカルの顔を覗き込みファントムは恍惚な表情を浮かべた
「わたくしが楽しくなる気分の為に、ね」
(絶対、やばい奴だ)
「何か質問ございますか?田中くん」
一呼吸置いて、ヒカルが負けじとファントムに質問をぶつけた。
こんな訳の分からない奴に、いくらなんでも連れて行かれるわけにはいかない。
「どうして列車に僕を?」
「”鬼”が来ますから」
「”鬼”?意味が分からない」
「私が気になったから」
「さっきの痛い奴って」
「痛いは、精神的にイタイ奴ではございませんよ」
ぜえぜえ、ヒカルは全く折れないファントムの真っ直ぐな答えに思わず勢いが弱まる
「いずれきっと田中くんにもお分かりいただけます。数え切れない程の子供達が乗車してますからね...みんな笑ってるんですよ。楽しげに、ね」
「人をさらっておいて?」
ヒカルの問いにファントムはふっと表情を初めて陰らせた。
「乗っている子供達は、みな”鬼”に殺される運命。そして田中くん、貴方も...。だから助かるために乗り込むのです」
ファントムは、瞬時に太陽の様な笑顔をヒカルに向け
「こう見えてもわたくし、実に慈悲深い車掌として世間様では通っております。要するに助けてあげましょうっていうお話です。乗りますか?乗りませんか?」
「急にそんなこと言われても」
迷うヒカルに、ファントムはこう付け加える、声色はどこか冷たかった。
「拒否すれば、貴方は死にます」
「僕を、殺すのか?」
「んー、そういうことも可能ですが意味ないので」
ファントムの背後にはいつの間にか、真っ黒な古臭い汽車が止まっていた。
「田中ヒカルくん、貴方はこの列車に乗り子供を助ける”列車の番人”になるのです」
ヒカルは驚きのあまり声を上げた
「番人だって!?」
「そうです、列車を襲う”鬼”をあれやこれやで、ばったばたと薙ぎ倒すのです。まるでヒーロー。実にカッコイーお仕事です」
シューっ!と汽車は蒸気を上げ扉が開く
「さ、中へ」
ファントムがヒカルを汽車へ導いた
「か、帰れるんだろうな」
「知りません」
一足、汽車に乗り込むとすぐ扉が閉まり発車した。
すると乗った余韻もよそにすぐ中で遊んでいた大勢の子供達がヒカルに駆け寄ってくる
皆、幼稚園生までぐらいの小さな子だらけだった。
「わーっ!あたらしいおにいちゃんだ!」
「おにいちゃんだ!あそぼーよー!」
子供達は人懐っこく笑顔だった
「遊ぶのはあと、先に先頭の車両へ」
ファントムに導かれ、ヒカルは狭い車内を歩いていく。
すると聞き覚えのある声が聞こえた
「あれ?田中くん?」
声の主は、死の列車に連れ去られたとクラスメイト達が騒いでいた佐藤アリスだった。
「佐藤さん!無事だったんだ!」
思わず駆け寄るヒカル、アリスは車椅子に乗りながら手を降る
「あ、こんにちは...ごめん、話すの初めてだから緊張しちゃった...」
そんな可憐なアリスに照れるヒカルを見て、二人だけの空間をそっと作るファントム。
「私も助けてもらったの、ファントムに」
「そ、そうだったんだ。悪い人...じゃないんだね」
そうね、とも言いたげにアリスはハニカミ笑いを浮かべた。
「でも、まさかこんなところで佐藤さんに出会えるなんて」
意中の佐藤アリスとの出会いにテンションが上がるヒカル
「ここはね、優しくてあったかいんだ」
アリスは手元から何か大切そうに何かを取り出した
「これ列車の厨房で作らせてもらったクッキー。汽車から出た灰で作った特別なものなの。よかったらどうぞ」
クッキーを一粒受け取ると、まだ暖かかった。
「これを食べると嫌なこと忘れられるの」
大丈夫と車椅子を操作するアリスの手押しハンドルを握るヒカル
「ありがとう。でもあと3日ほどすれば自分で歩ける様になるわ、列車の中でも少しなら歩けるの」
気丈な笑顔を浮かべるアリスにヒカルはそっとこう呟く
「強いね、佐藤さんは...」
「こことても素敵なところだから田中くんも3日ぐらいいるとすぐ馴れるわ。お薬も飲んでね...痛いのがなくなるから...」
通路に家族の絵が掛けられている、それをじっと見つめるアリス
「羨ましいな、私は親がいないから家族にとても憧れるの。ねぇ、田中くん、”家族”ってどんな感じ?」
ヒカルは返事に思わず詰まる
「僕の家庭はああいう幸せな家庭じゃないんだ」
「そう...聞いちゃってごめんね」
「いや、大丈夫」
微妙な空気を変えたのは、アリスだった
「この列車ね、今子供達が30人ぐらいいるの。入れ替わりも激しくて家に帰る子もいるわ」
窓から見える真っ暗な風景に目を移しながらアリスは言葉を続けた
「車両は20ぐらいあって、食堂、遊び場、寝台と色々設備が揃っているのよ、ファントムさんの気分で部屋の順番が変わることもあって面白いの」
「面白いかなあ...それ...」
悪戯好きの車掌に辟易しながらもヒカル
「私も食堂でお手伝いさせてもらうこともあるの、ぜひ食べてくれると嬉しいな」
いつしかヒカルは、目の前に振り返り笑顔で見つめるアリスの顔に見惚れ顔が赤くなった。
「同い年の友達が来てくれて、私嬉しい」
ヒカルは胸の高鳴りが彼女に伝わらないかドキドキしながら彼女を見つめていた。
「さてさて...そろそろ田中くんをお借りしますよ」
どうぞ、と微笑むアリスからヒカルの腕をそっと取り耳元で
「彼女には本当に助けられていますよ」
とささやくファントム
「それより...これを」
ヒカルの手に冷たく重い鉄の塊がぐっと手渡された。
それは小さな銃だった
「”魔銃”」
ファントムはそう呼称した。
「銃なんて、使ったことないんだけど」
「大丈夫です、この列車の一部で形作られた不思議な特殊銃です。君なら使いこなせるでしょう」
どこからその自信が...などヒカルは悪態を付きそうになったが
「大丈夫よ、乗り越えられる」
真剣な瞳でアリスがヒカルに訴える様に強い口調で言う
「乗り越える?なに...を?」
答えの代わりにヒカルの手をぐっと握るアリス
「貴方の現実の”鬼”を」
その時だった、遠くの車両から大きな物音が聞こえる
驚くヒカル、怯えた表情を浮かべるアリス、そして眉を潜め音の方向を見つめるファントム。
”鬼”がやってきた。
車内が、がたがたと大きく音を鳴らしながら走ってゆく
銃など持ったことがないヒカルは戸惑い、額にはびっしり汗が浮いている。
「来た」
ヒカルの前に立っていたファントムは
「構えて撃て」
と氷のような冷たい声で言い放った。
「わあああああ!鬼だ、鬼だよう!」
「た、助けて!お兄ちゃん!」
「鈴木くんが連れ去られちゃう!」
戸惑うヒカルの耳に、後ろに隠れ悲鳴を上げる幾人もの子供たちの声が響いてきた。
だが、ヒカルは鬼を前にして。
そのシルエットを目にしてデジャヴのような感覚を味わっていた。
あの人は身近にいる人じゃないか?
ついさっき会話を交わしたことじゃないか?
般若のような仮面を被っているが、あれは...あれは...
父さんじゃないのか?
「あれは鬼です」
ファントムはヒカルに諭すようにゆっくりと声を掛けた。
「撃つだけ、狙って撃つんです」
「う、撃つだけ?!」
ヒカルはゆらりゆらりと近づいてくる鬼と、キーッという汽車がブレーキ音を立てながら走る煩さに頭痛を感じながらも、ゆっくり銃口を向けた。
(嘘だろ、見間違えだ!)
ヒカルは覚悟を決め、一発、鬼に発砲する
ところが般若の角当たりを軽く当てただけで銃弾は外れてしまった。
「外した!?」
ファントムが焦ったように声を上げた
「逃げるつもりだ!」
早口でまくしたてると、鬼は窓を突き破り逃走。
それを見て放心状態でへたりこむヒカル
頭が真っ白なヒカルに、共にしゃがみこみファントムはこう言葉を続けた
「逃げましたねぇ、まだ車外に張り付いてる可能性が高い...急いで探さなければ...」
「...逃した」
ヒカルは自分の小さな手のひらを見つめながらファントムの言葉を反芻した。
張り詰めた雰囲気を緩めたのはアリスと彼女が抱きしめる男の子の姿だった。
「大丈夫よ、よくやったわ」
柔らかな彼女の声がヒカルの耳を通り抜けた。
「鈴木くんは無事よ」
先ほど連れていかれると言われていた子は無事だった。ヒカルは大切なものを守ることができたのだ。
だが同時にヒカルの頭には先程の「鬼」のシルエットが離れない。
あれは、確かに父さんだった
僕の、現実の鬼って...。
そんなヒカルの気持ちを見透かすように、アリスが声を掛けてくれた。
「鬼はやっつけないと」
口調はとても柔らかだが、確固な気持ちが奥底に感じられた。
「乗り越えて...」
「そうだね...」
とヒカルはそんな優しい言葉を聞くたびに、自分がとても大切なことを忘れているような気がした。ぼんやりと思い出すかのように。
ヒカルの前にすっと出されたのはアリスが出してきたお菓子の数々
「ね、見て。これは痛くなくなる飴、そしてこれは嫌なことを忘れるクッキー、これは...」
「ねえ、鈴木さん」
ヒカルは彼女の言葉を遮るように口を開いた
「この列車を出るとどうなるの?」
アリスは言葉を詰まらせる、そして綺麗な瞳から一筋の涙を流した。
「知りたい」
ヒカルの言葉の意志の強さに観念したのか、アリスはそっと言葉を返した
「どうして?」
「きっと...僕がいなくなって、心配しているはずだから」
わかってる。本当は何か違う...だけど...。
ヒカルの頭はもう様々な感情で渦巻いていたが、言葉だけが矢継ぎ早に紡がれる
「帰らなきゃと思って。でも他の子はどうして降りないのかなと知りたくなったんだ」
「田中くんは優しいのね、でもお父さんに殴られたりもしたでしょ?」
「きっと悪いと思っているはずだよ、そう思いたい」
そこに冷たい一言をアリスは刺すように笑顔で告げてきた。
「忘れているなら、帰らなくてもいいんじゃない?」
僕はなにか、忘れている?
混乱するヒカルにそっとアリスは
「ゆずり葉の話、って知ってる?」
ヒカルが首を降ると
「親は子に与える。だから親から沢山もらいなさいっていう話」
ヒカルを真っ直ぐ見つめるアリスの澄んだ瞳から目が離せない。
「私たちは親から何ももらえないかもしれない、でも、もしかしたら...」
彼女の綺麗な唇が静かに動いた
「親からもらえなくても、与える側になったらきっと幸せよ。きっと、そうだといいけど...」
はにかみながら、少し寂しげにアリスは笑った。
ヒカルは改めてアリスには実の親がいないことを思い出した。
表情でそれが伝わったのか、アリスはポンと両手を打ち明るい声を上げる
「そうか、私には親がいないけど田中くんには家族がいるものね。私と田中くんは違うじゃない?だってお父さんがいるもの」
「...」
彼女はは言葉を続ける
「田中くんの立場になって考えないと...」
深く深呼吸してアリスはこう告げた
「もし...帰りたいなら車掌さんにお願いするといいよ」
ヒカルは先程の皆の恐怖を思い出した
「で!でも!俺がいなくなって、また鬼が来たら!」
「うん...寂しいけど、キミの方が大事」
アリスはまた目尻に涙を溜めながら、ゆっくり言い聞かせるように
「友達だもの」
彼女の本音は「行って欲しくない」
痛いほどそんな気持ちがヒカルには伝わったが「少し考えるよ」とヒカルはアリスに告げた。
内心、ヒカルは
(ありがとう、佐藤さん)
と彼女に深く感謝をしていたのだった。
”車掌室”
ファントムはそこにいた。
決意を固めたヒカルは彼に下車したいと気持ちを告げると、彼の表情はみるみる曇っていった。
「何ですって。列車から降りて、父と話したい?」
「ファントムごめん、家に帰りたい、列車を降りたい。数時間だけどありがとう」
じっとヒカルの顔を見つめていたファントムだったが、ふっとため息をつき表情を緩めた。
「いいえ、礼には及びません」
その言葉を機に、急ブレーキが汽車にかかり二人の身体が大きく揺らぐ。
ガタン...シューッ!
蒸気を上げ、静かに「死の列車」が動きを止めた。
「列車を止めました...田中くん、あなたの健闘を祈ります」
ファントムはこう告げ、出口までヒカルを送った。列車の窓からはアリスや子供たちの顔も見えた。
父との現実に、勝てるでしょうか?彼は...。
ファントムは杞憂な思いだと知りながらも、そう考えずにはいられなかった。
ヒカルは列車を降りると大きく手を伸ばす。
すると”現実”が、容赦無く襲いかかってきた。
「友達なんて作ってなんの役に立つんだ?!」
「無駄だ!」
「お前はわかってない、何もできない」
「だから普通にしていろ!」
「なんとか言ったらどうなんだ!」
頭の中に聞き覚えのある罵倒、叫び声が響いてきた。
ヒカルは頭を必死で守りながら、言葉の矢から守ろうと身体を丸める。
「これは...僕の記憶?」
痛み、悲しみ、絶望。
全て帰ってきた、全て戻ってきた。
ひび割れた部屋の姿見には、傷ついて血を流しているヒカル自身の姿が見えた。
そしてヒカルを乱暴に掴んでいるのは”鬼”だった。
父さんから首を締められ殺されそうになっていた彼を助けたのが「死の列車」だったのだ。
還っては、いけなかった
列車から降りてはいけなかった
そこに、僕は、存在できないから。
ヒカルは今際の苦しみの中で考えていた。
戻ったら、今よりも素敵な未来が待っているなんて...。
そんなことを期待していた、待っていた。
自分は守られていたじゃないか、あの列車に。
いつかは愛されるって思ってたんだ。
「きっと悪いと思っているはずだよ、そう思いたい」
愛情に依存していたのは、何より自分自身だった。
戻ったって、この手のひらには何も残っていないことに。
「す...けてよ」
誰か助けてよ。
でも、誰もいない
滲み出した声も、きっともう誰にも聞こえない。
「田中!私は銃をキミに託した!私は選んだんだ!」
何も残らなかったヒカルの手のひらに戻ってきたのは、一丁の魔銃だった。
「乗り越えて、前に進め!!!」
ファントムの叫びが聞こえたような気がした。
「撃てぇ!」
ヒカルは父に首を締められながら、薄れゆく意識の中で撃鉄を起こし人差し指に残りの力を全て込めた。
自分の、生み出したものを越えていけ...!
ヒカルは目の前の鬼に真っ直ぐと照準を向け、今度は迷いなく引き金をひく!
僕ね、愛してくれるんじゃないかと思って父さんを愛してたよ。
でも、出来上がったものを与えられなかっただけなんだ
これからは、僕が創っていく。
般若の鬼の面がぱっくりと綺麗に割れ、朽ちていった。
空から、雨が降ってきた。
ぽつぽつと降り注ぐ雨はいつしか豪雨となって、倒れた鬼とヒカル、そして側にいたファントムを濡らしていった。
「ねえ、ファントム。魔銃で撃たれるとどうなるの?」
「死にます」
えっ?と少し驚いたヒカルに、ファントムは”ふふ”と力なく笑いこう付け足した。
「または不思議なことが起こって、更生する可能性があります」
ファントムはいつの間にか後ろに控えていた汽車へ、ヒカルを誘導すると乗り込む。
互いにずぶ濡れのまま、少し離れた客席に腰掛けた。
「しばらく家族で住むのは無理でしょう」
身体を丸めるように頭を抱え何も言わないヒカル
「だが彼は生きています。希望はあります」
ヒカルの背中合わせの席からアリスの声が聞こえた
「人は残酷な真実を知ってしまった時、なんて言葉を掛けていいか分からないわ...」
客席は静寂に包まれ、冷たい雨が列車の鉄を打つ音だけが耳に響いていた。
「田中くん」
静かなファントムの声が聞こえた。
「乗り越えて、己を越えましょう」
ヒカルが顔を上げると、ファントムが彼を見つめ微笑んでいる顔が目に入った。
「子供を愛せない親もいることも事実です。だが後から愛せるようになる親もいるのです。ね、期待して待とうじゃありませんか」
柔らかく包むようなファントムの言葉がヒカルを抱きしめた。
「そんなところで躓かないで、どうにかなるものです。例えばさっきみたいに...」
ヒカルはその言葉を聞いて、初めて微笑んだ。
そうだ、昨日まではまるでつまらなかった”心”がない日々。
この人は全てわかった上で、助けてくれたのかもしれない。
ファントムって、すごい人なのかもしれない
「ありがとう、ファントム」
そんなヒカルを見て、満足げに車掌ファントムは”さあ、仕事です”と席を立ち車掌室へと戻っていった。
これからも死ぬ前に突然現れる謎の「死の列車」を安全に走らせるため。
「ミステリートレイン」と呼ばれる、汽車の鼓動を止めないために。
数刻後、食堂車でアリスとヒカルは向かい合い話をしていた。
「田中くん」
ふふっとアリスは笑顔を見せた
「笑ってるね」
ヒカルは走りゆく列車の窓から自分の姿を見つめた。
その表情は明るい、今まではずっと表情なんてない人生を歩んでいた。
「今、嬉しいんだ」
今、幸せ。
そう思えることが、たとえ普通の幸せではなくても
後ろ指を差され馬鹿にされるようなものであったとしても。
優秀、とは言えない。
でも”死の列車”は、ヒカル本人が欲しかった居場所。
そんな二人の姿を見てファントムは満足げに微笑んだ
「あー、よい気分ですね」
今宵も列車は走っていく
子供に夢を魅せるため
そして、夢を現実にするため。
ヒカルがファントムと共に「列車の番人」として、摩訶不思議な色々な出来事に巻き込まれていくことになるのだが...それはまた別の話だ。
END
この度はお読みくださりありがとうございました。
小説にしてくださったあめっこ様もありがとうございました。
こちらの原作は https://rookie.shonenjump.com/series/X1vJnKZDU80 になります。