#92 トールとバーナードの約束
出発の日がやって来た。
マリアと凪は、トールが運転する車で3時間以上も掛けて、バーナード宅へ向かうことになった。
大きな狐の姿になった凪の背中に乗って向かった方が遥かに早く着くのだが、初めて伺うお宅に親が顔を出さないのは可笑しいし、バーナードとその妻・クレアがどんな人なのか分からないので、凪と一緒とは言え、マリアは1人で向かう提案をしなかった。
そして、それは正解だった。
朔乃は、バーナード宅へ持って行く手土産を、たくさん用意していた。
マリアには、何日かかるか分からないのだから、出来ることは何度でも手伝いなさいと言い、凪には、くれぐれもマリアから目を離さないで欲しいと、頼んだ。
学園には、朔乃が連絡をして、二週間の休みの許可をもらっている。
急遽、病で倒れた母親に代わり、子供の世話をしてくれる人を探していた親戚の家に、社会勉強とボランティアを兼ねて、マリアが行くことになった———というのが、朔乃が学園に伝えた休みの理由だった。
マリアは、後日、そのレポートを提出することを条件に、休みの許可をもらった。
休みの許可をもらえたことは嬉しいが、レポートの提出を考えると、気が重かった。
途中、何度か車を止めて休憩した。
日帰りで帰る予定のトールは、休憩中もずっと落ち着かない様子だった。
マリアと凪だけを残して帰る決断をしていたはずなのに、いざとなったら迷いが出て来てしまったようだ。
夜までには自宅に戻らなければならないと思う気持ちと、二、三日は一緒に居て様子を見たい気持ちがせめぎ合っているのだと、マリアにも分かった。
バーナード宅に近づくほど、トールは無口になっていった。
「ようこそ!遠い所から来ていただいてありがとうございます!」
バーナードは家の外に出て居て、マリア達の到着をずっと待っていた様子だった。
車の種類とナンバーを、トールは事前に教えていたので、トールの車を見つけると、バーナードは両手を大きく振って合図を送った。
ご近所の目は、あまり気にしていないようだった。
「こんにちは。初めまして、バーナードさん。トールです。」
「こちらこそ、初めまして。バーナードです。わたしの願いを叶えてくれて、本当にありがとうございます。」
車を降りて挨拶をしたトールの元へ、バーナードは走るように近づいて握手を求めた。
そして、次に降りたマリアを見て、目を輝かせた。
「彼女がマリアさんですか?あいさつしてもいいですか?」
「えぇ。勿論です。マリアと、マリアと一緒にお世話になります、凪です。」
「初めまして。マリアです。よろしくお願いします。」
「凪です。」
熱烈な歓迎のあいさつを恐れ、マリアに握手を求めたバーナードに、すぐさま凪は手を伸ばす。
バーナードはマリアとの握手を軽く済ませて、凪の握手に応えざるを得なかった。
「凪君とマリアさんに使ってもらう部屋へ、まずは案内しますね。」
家の中へとマリア達を案内したバーナードは、マリアと凪が持っている大きなスーツケースと大きなバックを気遣って言った。
「わたしと凪は、ジェシカちゃんと同じ部屋がいいです。」
透かさずマリアは言った。
別の部屋に案内されてからでは、言い出し辛くなると思った。
ジェシカと一緒の部屋でなくては、守ることは出来ない。
出来ることなら、四六時中一緒に居たいくらいだった。
「ありがとうございます。」
バーナードは、マリアの考えを察し、感謝した。
ジェシカの部屋は2階だった。
階段を上がる途中で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
力強く泣いている声ではなく、弱々しくぐずっているような泣き声だった。
「寝る前はいつもなんですよ。」
バーナードは苦笑した。
ジェシカの部屋は、2階の南側にあり、日当たりが良さそうな場所だった。
しかし、部屋の中はカーテンがしっかりと閉められていて、日の光は全く入って来ない状態になっていた。
薄暗い部屋の中に、赤ちゃんを抱いた女の人が、ゆらゆらと揺れている。
「クレア、マリアさんが来てくれたよ。」
バーナードが声を掛けると、クレアは顔を上げ、ゆっくりと振り向いた。
「助けてくれるの?本当に、この子を助けてくれるの?」
呟くようにクレアは言う。
クレアの顔は、疲れていて、目が窪んでいるように見えた。
薄暗い部屋の中で、青白い顔のクレアは、まるで幽霊のようだと、マリアは思う。
「………っ‼ご、ごめん。」
怖くなって後ろに下がると、後ろに居た凪にぶつかってしまった。
凪は、大きなバックを持ったまま、マリアの手にあったスーツケースのハンドルも持って、ジェシカの部屋の中へ更に入った。
「絶対に助けますとは言えません。ですが、助けたいと思って、わたし達は来ました。」
荷物を置きながら、淡々と話す凪を見詰め、クレアもバーナードも驚いていた。
絶対に助けます———と、言ってくれるものと思っていたのかもしれない。
トールも部屋に入り、荷物を置いて、言った。
「バーナードさん、クレアさん。今回、マリアを連れて来たのは、マリア自身がジェシカちゃんを助けたいと思い、行動することを決めたからです。だからこそ、わたしも、妻の朔乃も、協力することにしました。ですが、マリアを置いて行くにあたり、バーナードさんとクレアさんには、約束して欲しいことがあります。」
「……なんでしょう。」
突然にマリアの父親として話し出したトールに、バーナードは戸惑いながら聞いた。
「マリアが……、もしもマリアが、ジェシカちゃんを助けることが出来なかったとしても、絶対にマリアを責めないで欲しい……。約束してください。」
「いや……いやいや……、彼女自身、生きているのだから、助かる方法があるのでしょう?それをジェシカにもしてくれればいいだけです。もしもの約束なんて、やめてください。ご自分のお嬢さん、マリアさんだけが助かればいいと、思っていらっしゃるわけではないのでしょう?」
トールは至って真面目な話をしているのだが、バーナードには悪い冗談のようにしか聞こえなかったらしい。
「もちろんです。そんな風に思っていたなら、娘をここに連れて来ていません。」
「だったら助けてください。もしもの話なんてしないでください。」
「そういう訳にはいきません。約束してもらわなければ、わたしは彼女を置いていくことが出来ない。」
「連れて帰るということですか?約束しなければ連れて帰ると?あなたはわたし達に希望だけを見せて取り上げるのですか?初めから助けるつもりなどなかったのですか?」
バーナードは、話しているうちに感情が高ぶり、怒りを露わにした。
「あなたは、マリアさんが行くと言ったから、ただ連れていけばいいと思っただけなんだ。マリアさんを連れて来さえすれば、自分の出来ることはしたと、後で幾らでも言えるのだから。ジェシカを助けるつもりなど、最初から無かったんだ!」
「そんなことない‼」
マリアは叫んだ。
「助けたいと思うからここに来たの!そんな酷いこと言わないで!」
「だったら、ジェシカを助けてくれ!助けると言ってくれ!……助けて欲しいんだ。本当に……助けてもらいたいんだ……。」
バーナードは力なく膝を付いた。
ジェシカの泣き声は、いつの間にか大きくなっていた。
バーナードもクレアも泣いていた。
「………。」
トールは言葉選びに考えあぐねた。
バーナードにしてみれば、マリアは実際に助かっているのだから、助ける方法はあるに違いないと考える。
助ける方法など無い———と言われたら、隠していると思ってしまうのだろう。
知っているのに教えるつもりはないのだと理解したなら、怒りで頭の中が真っ白になっても仕方がないのかもしれない。
では、どう言えば分かってもらえるのだろうか?
「バーナードさん、聞いてください。」
トールは、出来るだけ落ち着いた声で、ゆっくりと言った。
「うっ…ううっ……。」
涙で声を詰まらせたバーナードが自分を見たのを確認してから、トールは続けた。
「わたしは何もしていないんです。わたしには何の力も無い。それは本当なんです。それに、マリアはまだ完全に助かったという訳ではありません。今でも命を奪われる危険はあるんです。ただ、マリアには悪魔を視認する能力があって、会話をしたこともあるそうです。その能力がマリアを生き永らえさせている可能性はあります。今回、マリアはジェシカちゃんの傍に居て、悪魔やその使い魔が接近するのを阻止すると言っています。ただし、それは目の前に現れたら——の話で、その場合、マリアが連れ去られる可能性もあります。それに、実際に現れずに連れ去る方法も、悪魔にはあるかもしれない。だから、絶対に阻止すると言い切ることが出来ないのです。そして、今まで一度も会ったことのない、あなたの娘、ジェシカちゃんを、マリアが救おうとしているのは、マリアの正義であり、マリアの良心です。だからこそ、わたしはあなたの正義と良心に問いかけたい。もしも、マリアがジェシカちゃんを救えなかったら、あなたはマリアを責めますか?」
バーナードは、マリアの能力に驚き、両目を大きく見開いた。
だが、今も尚、命の危険に晒されていて、それでもジェシカを助けようとしてくれることに、感謝をせずにはいられなかった。
涙が流れた。
自分の娘が命の危険も顧みずに、親戚とはいえ、今まで一度も会ったことの無い人の娘を助けようとしている。
そんな娘の身を案じるのは、親として当然の事。
ジェシカのことを思うあまり、トールも親であることを忘れてしまった。
「責めません。絶対に責めません。すみません…、トールさん。随分と酷いことを言ってしまった…。許してください。」
「いいんです。わかってもらえたなら、それで。」
跪き、泣き崩れるバーナードに、トールは手を差し伸べた。
バーナードは、差し伸ばされたトールの手に、縋りついて泣いた。
泣き続けるジェシカを抱き締めながら、クレアも静かに泣いていた。




