#58 黒翡翠
夏祭りが終わると、準備に掛けた時間が嘘のように、あっという間に何もかもが片付けられていった。
神社を訪れる人もまばらになって、お祭りの時の人の混雑が幻であったかのようだ。
あれだけ居たたくさんの人達は、どこに消えてしまったのだろうか?
いや、あれだけ居たたくさん人達は、一体どこから湧いて来たのか………。
もしかしたら、お祭りの時に居たたくさんの人の数の中には、人ではないヒトも混じっていたのかもしれない………
神社に訪れる人の数に、あまりにも落差があり、マリアは良からぬことまで想像してしまった。
しかし、神社は神聖な場所。
人ではないモノがそんなに容易く入って来ることは出来ないはず。
そう思うことで、マリアは良からぬ想像を振り払った。
日本では、8月いっぱいを夏休みにしている学校は少ないらしい。
しかも、夏休みにはたくさんの宿題があって、夏休みの終わりが近づくと、多くの子供達は残りの宿題に追われる日々を過ごすのだと、元暁が言っていた。
「神社を訪れる人が少なくなるのは、そのせいかもしれないね。」
元暁が、少し残念そうに微笑んで言った言葉も、マリアの良からぬ想像を打ち消してくれた。
元暁はマリアの良からぬ想像を打ち消した他に、釘も刺した。
「クリス君もマリアちゃんも、英語の宿題、頼まれても手伝っちゃダメだからね。」
ある日、部屋を訪ねて来た元暁が言った言葉。
中学生や高校生のいとこたちが、マリアとクリスを当てにして、夏休みの宿題を持ってくるのではないかと、月城家の大人達が心配しているという。
「宿題は自分の為にするもの。他の人にやってもらったのでは意味が無いんだから、きっぱりと断ってね。頼んだよ。」
念を押すように言って、元暁は去って行った。
マリアは———というと、聞かれても分からなかった時のことが心配だった。
英語を話すからと言って、英語の宿題が必ず分かるとは限らない。
日本語を話すからと言って、国語の問題が解けるとは限らないのと同じだ。
それでも、分かると思って聞きに来たのに、分からないとなったら、幻滅をされてしまうに違いない。
見た目だけの役立たずだと、思われてしまうかもしれない。
マリアにとっては、そちらの方が心配だった。
幸いにも、マリアにもクリスにも、宿題の手伝いを頼みに来たいとこはいなかった。
もしかしたら、追い払われて、マリア達の所まで、辿り着けなかったのかもしれない。
境内には元暁も新太も陽菜乃も居るし、マリアの傍には凪が居る。
宿題を持ったまま素知らぬ顔をして、マリア達に近づくのは困難だろう。
マリア達も、そろそろイギリスに戻らなければならない。
このままなら恥をかかずに帰国できそうだと、マリアは少し安心した。
「マリア、おばあちゃんが呼んでる。拝殿に来て欲しいって。」
明日が帰国という日の午後、朔乃がマリアを呼びに来た。
凪と一緒に、本殿の周りを箒で掃いていたマリアは、持っていた箒を凪に渡して、拝殿に向かった。
「おばあちゃん、マリアです。入ります。」
マリアが拝殿に入ると、琴音は本殿に向かって正座をしていた。
琴音の前には三方が置いてあり、三方には、マリアが日本に来て、すぐに琴音に預けた黒翡翠のネックレスが置いてあった。
マリアは、琴音の後ろの、本殿が見える位置に正座した。
「改めて守りの念を込めておきました。でも、余り強すぎると、悪魔と話をすることも出来なくなるので、程々に弱くしておきましたからね。」
琴音は、黒翡翠のネックレスが置いてある三方を、そっと持ち上げ、ゆっくりとマリアの前に置いた。
「凪との繋がりは変わりません。これが凪に居場所を教えます。」
「ありがとうございます。」
マリアは正座のまま深く一礼をして、黒翡翠のネックレスを手に取った。
黒石神社に居る時の琴音は、御弥之様に最も近い人。
絶対に礼を欠いてはいけない人であると、マリアはこの1ヶ月で理解した。
琴音を軽んじることは、御弥之様を軽んじることと同じだ。
本殿の清掃は、ずっと続けていたが、マリアの役目を、御弥之様が指し示してくれることはなかった。
それでも、今後にやるべきことは決まった。
B・Bと話し、契約を破棄する方法を探る。
それは、自分にしか出来ないことだと、マリアは思っていた。
きっと力をくれる。
B・Bから守ってくれる。
「よろしくね。」
呟くと、握りしめた手の中で、ほんのりと黒翡翠が熱を持ったような気がした。
「マリア、今後の為に弓を習いなさい。とりあえずは、アーチェリーでも構わない。次に会う時までに、弓の弾き方を覚えなさい。」
琴音が言った。
「この先、弓が必要になるっていうこと?」
マリアは聞いた。
弓もアーチェリーも、矢を放つもの。
言うなれば、武器だ。
武器が必要になるということ?
「すぐに必要になるという意味ではないわ。いずれ、必要になった時の為の保険のようなものよ。自分の身は自分で守れるというのは自信に繋がる。あなたには、いつでも背筋がピンと伸びている人であって欲しいの。」
琴音は、突然に祖母の顔になった。
孫娘を心配する祖母の顔。
自信なく背筋を丸めないで居て欲しいと、愛しい孫娘に願う———祖母の顔。
「B・Bと話すこと、あまり賛成していないパパとママが、なんて言うか分からないけど、なんとかしてみる。」
マリアは答えた。
琴音が、トールと朔乃に言うよりも先に、マリアに話すとは考えられなかった。
トールと朔乃が賛成しているのであれば、トールと朔乃も賛成していると、琴音は言うはず。
トールと朔乃が賛成していなくても、マリアには弓を覚えて欲しいと思うから、琴音はマリアに話したのだろう。
ならば、考えようと思った。
弓を習う方法を。
琴音は、無駄だと思うことを、勧めたりはしない。
「何か、方法を考えてみるね。」
マリアの答えに、琴音は嬉しそうに頷いていた。




