#44 御弥之様
「ずいぶんと暑そうだな。」
「………?」
日本の暑さに滅入っていたマリアは、声を聞いた。
じりじりと照り付ける日差しに目を細め、空を見上げたマリアの瞳に、昨夜、ルイーザの家から戻った後、全く姿を見せなかった凪の姿が映った。
黒石神社でしか着ない、白い袴姿。
どこか厳かで神聖な佇まいに、いつも見ていた凪とは違う印象を受ける。
やはり神使なのだと、マリアは改めて思った。
「凪はずいぶんと涼し気ね。」
恨めし気なマリアの言葉に、凪は鼻で笑い、持っていた扇子でマリアに風を送る。
涼しい風を顔に受け、マリアは気持ち良くて目を閉じた。
「グレース家と繋がっている祠へ案内しよう。ついて来るといい。」
「………?」
凪の言葉を聞いて、マリアは薄く目を開け、凪を見ると、マリアの目の前には、マリアの靴。
凪は、ちゃっかりマリアの靴を持って来ていて、当たり前のように、マリアに靴を差し出していた。
「どうした。早くしろ。」
「あ、うん。わかった。」
マリアは、その靴を受け取り、促されるまま靴を履いて、さっさと歩き出した凪の後ろを追いかけた。
祠は本殿の後ろにあった。
立ち入り禁止の柵で仕切られている森の中の、広く開けた場所。
そこには、しめ縄が貼られた巨木が一本あり、その巨木の根元の傍に、グレース家の裏庭にある祠とそっくりな祠が、ひっそりと存在していた。
「祠の札から聞こえる声は、本殿に御座す御弥之様が琴音に聞かせている。」
「御弥之様?御弥之様が、黒石神社の神様?凪が仕えている神様なの?」
黒石神社の神様の話を、マリアは初めて聞いた。
琴音も月城家の人達も、漠然とした神様の存在を話すだけで、神様の名前まで口に出したことはなかった。
初めて聞く黒石神社の神様の話に、マリアは強い関心を持った。
凪は、昔を思い出すように、マリアに話した。
「そう、わたしは御弥之様の神使だ。御弥之様は争いを嫌い、生きるモノ全てが心穏やかに過ごすことを望んでいた。しかし、生きるモノは、全て、争うことを止めなかった。生きる為であったり、政の為であったりもした。争いが繰り返された末、心を痛めた御弥之様は御隠れになり、現世の姿を失くしてしまわれた。以来、わたしは御弥之様にお会いすることは出来なくなり、黒石神社の宮司に仕えるようになった。」
「御弥之様は、人や生き物が嫌いになってしまったの?」
「そうではない。争いを止めることが出来ないご自身に、絶望されてしまったのだ。生きるモノ全てが争うモノだと、諦めることが出来なかったのだ。お優しい方だから、傷付き合う姿を、見ていることが出来なかったのだろう。だから、尊力を奇才として宮司に授け、遠くから見守ることにしたのだ。」
「今も見守っている?」
「あぁ、本殿に御座し、我らこの世に生きる全てのモノを見守ってくださっている。」
凪は愛しげに本殿を見た。
マリアは不思議に思って聞いた。
「なんで急に御弥之様の話を、わたしに聞かせることにしたの?」
「明日から、わたしと一緒に本殿の清掃を任されたと聞いた。本殿に入るからには、御弥之様のことを知っておく必要がある。いいか?これだけは絶対に忘れるな。」
凪の真剣な目が、マリアを捉えた。
「本殿は神が御座す場所。例え、現世の姿をお失くしになっても、ご神体より此方の世をご覧になっていらっしゃる。だから、神の御前であることを決して忘れず、失礼が無いよう、心して行動するように。わかったな?」
「………はい。」
これは、凪からの忠告で、警告だ。
失礼があったらどうなるのか、マリアは考えるのも恐ろしい。
神の御前であることを忘れず、失礼が無いよう心して、どう掃除をしたらいいのだろうか?
幾分、先ほどよりも涼しく感じるのは、日陰に居ることだけが理由ではない気がした。
ヒトの姿の凪にあったのは、この日はこれが最後だった。
昼食の時も、夕食の時も、凪は姿を見せなかった。
誰も凪の話を口にしない。
毎年、月城家では、こうだったかもしれない。
グレース家に凪が現れた当初も、同じだった気がした。
ヒトの姿ではない凪の姿が見えるのは、グレース家ではマリアだけで、月城家では琴音だけ。
見えないのだから、話題にすることはないのだろう。
しかし、ここ最近のマリアは、凪と一緒に居ないことの方が少なかったので、近くに居るのに姿が見えないこの状況に、違和感があって落ち着かない。
落ち着かないが、マリアから凪の話をする勇気はなかった。
夕食の後、こっそり家を出て、昼間に案内してもらった祠に向かった。
グレース家では、裏庭の祠の近くに、いつも凪は居た。
少し距離はあるが、きっと祠の近くに凪は居ると、マリアは思った。
凪に案内された通りの道順を辿って、神社に向かった。
本殿の裏手に出ると、思った通り、凪は居た。
柵の中の広い場所で、大きな狐の姿の凪は、丸くなって寛いでいた。
「どうかしたのか?」
凪はマリアの気配に、すぐに気付いた。
瞑っていた目の片方をわずかに開けて、マリアの姿を確認する。
マリアは、柵の中で横たわる凪の身体に抱きついた。
「どうもしない。」
凪のふわふわした感触は、何処に居ても変わらない。
いつもと変わらない凪の毛に包まって、ようやくマリアの心は安らいだ。
「やっぱり安心する…。」
「……なにかあったのか?」
不思議に思った様子で、凪は聞いた。
マリアは凪の毛に顔の半分を埋めながら、凪を見た。
「何も…。でも、毎日、こうしていたから、一日でもこうしないと、なんか変な感じがして…。でも、もう大丈夫。凪の毛皮、気持ちいい。」
「……わたしはマリアの毛布ではないぞ。」
「毛布だなんて思っていないよ。凪は凪でしょ?どこに居ても、凪が凪のままで良かった。」
「………。」
凪は複雑そうだったが、もう何も言わなかった。
マリアは、安心して気が緩んだことと、夜になり過ごしやすい気温になったことが重なり、誘われるがまま眠りに落ちた。
長旅の疲れや、1人で月城家に来た緊張もあったに違いない。
「スー……スー……」
「………やれやれ。」
マリアが寝てしまったことに気付いた凪は、しばらくはそのままにしてマリアを寝かせて居たが、このままにしておく訳にもいかず、ヒトの姿になってマリアを抱え、マリアをマリアに用意された部屋へと運ぶことにした。
「まったく…、どこが毛布だなんて思っていないだ……」
ぼやく顔が、嬉しそうであったことを、凪は知らない。
マリアを見る目が愛しげであることも、凪は気付いていない。
「なかなか、良い傾向だね。」
密かに様子を見ていた琴音が、嬉しそうに呟いていたことも、凪は気付いていなかった。




