#02 悪魔との契約
「………。」
レイモンドは目を覚ました。
視界の全てが白一色になったところまでは覚えているが、その後のことは全く覚えていなかった。
気付けば自室のベッドで横になっていて、窓の外は明るくなっている。
まるで、全てが夢であったかのようだった。
「………っ!」
しかし、腕の痛みが現実であったことを教えてくれた。
誰が巻いたのか、切られたはずの腕には、しっかりと包帯が巻かれていた。
深くは無いが、浅くも無いはずだった傷。
包帯に血は滲んでいないことから、きちんとした手当がされているのだろうと判断した。
それよりも確認しなければならないことがある。
「ケ、ケリー……。」
レイモンドは急いで立ち上がろうとしたが、思うように体は動かなかった。
気持ちは急ぐのに、足取りは重く、ゆっくりとした速度で部屋を出て、ケリーの部屋へ向かった。
部屋を覗くと、イアンとマギー、妻のロザンナが、既に部屋の中に居て、3人は涙を流している。
まさか?———と思い、レイモンドは部屋に飛び込んだ。
「ケリーに何があった⁈ケリーがどうかしたのか⁈」
悪魔なんぞを呼び出したせいで、ケリーに災いがあったのではないかと思った。
「あなた…、ケリーが…、ケリーの熱が下がったの………。」
「きっと神様がケリーを守ってくれたのよ。ケリーの顔色を見て、お父さん。昨夜までが嘘のようだわ。」
「父さん、ケリーは良くなる。元気になるよ。父さん、早くこっちに来なよ。」
3人は感激の涙を流していた。
レイモンドの姿を見て、嬉しそうに声を掛けて、ケリーの傍へと促した。
「よかったわね、ケリー。」
「もう大丈夫よ、ケリー。」
「きっと元気になれるよ、ケリー。」
「………。」
レイモンドは言葉が出て来なかった。
“よかった”と、言ってしまってもいいのか、分からなかった。
これは現実だ。
おそらく、昨夜のことも、現実だ。
出掛けていた使用人が、医者を連れて戻って来た。
急に容態を回復させたケリーを診て、医者は驚きの声を上げた。
「奇跡だ‼これは奇跡ですぞ‼」
後は体力さえ付ければ、もう大丈夫だろう———との診断に、グレース家の者たちは、皆、大喜びだった。
レイモンドも、もちろん嬉しかった。
まだ元気になったとまでは言えない状態だったが、それでもケリーの笑顔を見ることが出来て、こんなにも嬉しいことはないと思った。
しかし、ケリーを救ったのは、神ではなく、悪魔だ。
そのことを、誰にも告げることは出来なくて、レイモンドの胸は痛かった。
以来、レイモンドは異常なほど信心深くなり、拝礼に行く回数が増えることは勿論、多額の寄付金も惜しまなかった。
そして、度々、夜中にうなされるようになった。
夢を見るのだ。
姿はぼんやりしているのに、レイモンドには、それが悪魔だと分かるのだ。
悪魔が何度も夢に出て、レイモンドに念を押す。
娘を差し出せ———と。
約束通り、孫息子を助けてやったのだから、娘を差し出せ———と。
《何年でも、何十年でも、何百年でも、ずっと繰り返すぞ。忘れるな。お前の血を継ぐ娘は、残らず全部、わたしがもらい受ける。必ず、だ。忘れるな———》
忘れるな————
「———なた、あなた、あなた‼」
ロザンナに起こされて目を覚ました。
悪夢を見た時は、いつもそうだった。
「また、うなされていたわ。大丈夫?ひどい汗よ。」
「あぁ…あぁ…。夢…か…。」
悪夢のせいで体調を崩すようになり、元気になったケリーと入れ替わるようにして、レイモンドは横になることが多くなった。
悪夢を見るので、眠りたくなのに、横になっていれば眠ってしまう。
眠ると悪夢を見て、更に具合が悪くなる。
そして、横になり、ますます具合は悪くなる。
この悪循環が続いて、レイモンドの具合は悪くなる一方だった。
「聞いてくれ。」
ある日、レイモンドは部屋に家族を集めた。
ケリーはまだ幼くて話の内容など分かるはずも無かったが、聞かせることすら嫌だったので、ケリーが寝付いた後に部屋へ集まるよう、言い付けた。
もう自分は長くないと、レイモンドは確信していた。
死ぬ前に、どうしても話しておかなければならなかった。
知らせておく必要があると思った。
ケリーを助ける為、悪魔と契約を交わしたこと。
契約の内容は、自分の血を受け継いだ娘を差し出すこと。
契約は永遠に続くかもしれないこと。
レイモンドの告白に、家族は絶句した。
「すまない…。わたしが浅はかだった………。」
悪夢にうなされることを知っていたロザンナは、全てを信じ、泣き崩れた。
イアンとマギーは、なぜそんなことを?———と、思ったものの、口にはしなかった。
ケリーを救いたい一心だったことは、聞かずとも分かり切っていたことだったからだ。
全てはケリーの為と思えば、マギーも泣き崩れるしかなかった。
マギーはロザンナを抱きしめた。
「すまない…。すまない…。」
レイモンドも、ただただ泣き続ける。
「母さん、マギー、泣かないで。父さんは浅はかだった。でも、そのお陰でケリーは助かったんだ。女の子は生まれないかもしれない。けど、僕たちにはケリーが居る。僕たちは、そのことを喜ぶべきなんだよ。」
イアンは、泣き崩れるロザンナとマギーを抱きしめ、励ました。
そして、2人と一緒にレイモンドの傍へ行き、膝を付いて目線を合わせた。
「ケリーが大人になったら話さなきゃね。たくさん子供を作りなさいって。男の子なら何人だって授かれるんだから。僕たちだって———ね?そうだよね?父さん。」
レイモンドの手を取り、イアンは微笑む。
「大丈夫だよ。誰も父さんを恨んだりしないよ。ケリーを助けてくれてありがとう。」
マギーもレイモンドの手を握り、笑みを作った。
ロザンナはレイモンドの頬を撫でた。
「心配しなくても大丈夫よ。きっと、もう悪夢は見ないわ。」
「ありがとう、お父さん。ケリーを助けてくれて。」
4人は、懺悔と感謝の涙を流した。
レイモンドが逝ったのは、それからひと月後のこと。
穏やかに、眠るような最後だった。
以来、『悪魔との契約』の話は、代々受け継がれていくことになる。
『悪魔との契約』により、レイモンド・グレースの血を継ぐ娘は全て悪魔に差し出される。
その後、グレース家では、本当に女の子には恵まれなかった。
稀に生まれたとしても、事故や病気で亡くなってしまい、3歳まで生きた女の子は1人も居なかった。
たくさんの子供を———と、望み続けていたが、流行り病や戦争などで失われることも多く、家系図の幅は、さほど広くはならなかった。
そして、時代は変わり、環境は変わり、考え方も少しずつ移り変わって………
グレース家に再び女の子が生まれた。
日本の神と縁のある娘と結ばれ、生まれた子だ。
その子は大きな怪我も病気も無く、無事に3歳を迎え、今も尚、元気に暮らしている。
果たして、悪魔との契約は—————?