#100 決戦のはじまり
「あらあら、ずいぶんと大人しいのね、ジェシカ。」
初めて抱っこされたにも関わらず、ジェシカは凪の腕の中で大人しくしていた。
時々、凪の顔に手を伸ばし、何かを話し掛けている。
マリアがジェシカを初めて抱っこした時も、そうだった。
マリアは、アルフで経験を積んでいたし、遠いとはいえ親戚なので、違和感がなかったのだろうと思っていたのだが、凪にも、となると、ジェシカは人見知りをしない子なのかもしれない。
それとも、神使だから?
神様に仕える凪に、安心できる何かを感じ取っているのだろうか。
「ジェシカちゃんに嫌われなくて、良かったね、凪。」
ぎこちなくジェシカを抱っこしている凪を見ながら、マリアは言った。
「………。」
凪は、複雑そうな表情をしていた。
凪にしてみれば、人間の赤ん坊を抱くことなど、初めての経験で、どう扱っていいのかわからなかった。
人間の赤ん坊を抱くことが、当たり前のように自然に出来る日など、来ないような気がした。
落としたら大変。
潰したら大変。
力加減が分からなくて、気が気ではない。
こんな状態でB・B達と話など出来るのだろうか?
マリアとB・B達との会話が頭に入って来るのだろうか?
凪にとっては、ジェシカが泣かなかったこと以外すべてが、不安でしかなかった。
「こればっかりは慣れだと思うわよ。」
力加減が分からないと悩む凪に、マリアは言った。
実際、慣れる以外に解決策はないと、マリアは思っていた。
それから凪は、一日に何度かジェシカを抱かせてもらえるように、クレアに頼んだ。
「その時に、安定する抱き方のコツなど、あったら教えて欲しいのですが……。」
「もちろん!教えてあげるわ。凪さん、きっと良いパパになるわよ。」
涼し気な美しい青年からの申し出に、クレアは嬉しそうな笑みを浮かべて快諾した。
そして、ジェシカの母直々の指導を受けられることで、凪の不安は少しだけ和らいだ。
「ジェシカは面食いなのかもしれないな。」
帰宅したバーナードは、凪の腕の中でご機嫌な様子のジェシカを見て、笑った。
順調だった。
間もなく最初に決めていた二週間にはなってしまうが、延長の許可はもらっているし、凪のぎこちない抱き方でもジェシカは泣かないと分かった。
後は、B・Bと使い魔達と分かり合う為に、何を話し、何を聞くかを、考えておくだけだ。
B・Bの中に、まだ残っている良心の存在を確かめたい。
天使だった頃に望んでも叶わなかったことが、もしも今、叶うとなったら、契約を破棄にしてくれるだろうか?
『君はいつもお願いばかりだ。』
ヴィゼが言っていた。
与えてもらうだけでは、彼らと分かり合うことは出来ないのかもしれない。
こちらからも何かを与えなければならない。
B・Bの望んだこととは何だったのだろう。
叶えることは出来るだろうか?
B・Bが使えていた神様が認めてくれなかった望み。
それをマリアが叶えようとするのは、無謀なことだろうか。
それでも……
「他に方法が思いつかないのよねぇ……。」
マリアも悩んでいた。
「………。」
突然だった。
何の前触れもなく、突然にB・B達は動きだした。
マリアは、今、自分は夢を見ていて、ここはジェシカの夢の中だと直感した。
真っ白な空間
壁も床も天井も真っ白で、何もない部屋の中に、マリアは居た。
ドアらしき物は見当たらない。
♪~
「………?」
わずかに聞こえる巫女神楽の他に、オルゴールのような音が聞こえた。
巫女神楽よりは近いが、マリアが居る場所からは遠いと感じた。
そこにジェシカは居るのかもしれないと、マリアは思った。
「すぅー……はぁー……」
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから、音が聞こえる方へ歩き出した。
凪、ここに来て。
凪、ここに来て。
凪、ここに来て。
心の中では、何度も凪を呼んでいた。
マリアが居た白い部屋は、白い壁に閉ざされている部屋ではなかった。
近付くまで分からなかったが、白い壁は途切れていて、奥は曲がれるようになっていた。
曲がると廊下のようになっていて、そこも白一色で、細長い真っ白な部屋のように見えた。
だが、きっとどこかに曲がれる場所はあるのだろう。
マリアは、音に誘われるまま、歩き続けた。
凪、ここに来て。
凪、ここに来て。
凪、ここに来て。
心の中で呪文のように繰り返しながら……。
「………っ!」
凪は飛び起きた。
ずっと触れていたマリアの気配が、スッと消えたのを感じた。
「………。」
マリアを見ると、マリアは眠っていた。
「………。」
ジェシカを見ると、ジェシカも眠っていた。
蚊取り線香はついている。
巫女神楽の曲も流れている。
「マリア……。」
凪は、マリアのベッドに近づき、膝を付いた。
マリアの手を握り、額を付ける。
「マリア、わたしを呼んでくれ。頼む、わたしを呼んでくれ。お願いだ、わたしを呼んでくれ。マリア、マリア、マリア。」
凪は、祈るように呟き続けた。




