#01 始まりの夜
17世紀後半、イングランド。
ロンドン西部・ユンデール地区・マニュリスタには、狩人以外は誰も入らない広い森がある。
危険な獣が多く居るので、昼間でさえも迷子になれば、無事に戻って来るのは難しい森だった。
日の暮れた夜に入る者など、まず居ない。
しかし、その日は真夜中であるにも関わらず、森の中には人影があった。
1人は、ここマニュリスタの領主、レイモンド・グレース。
他の5人は、全員が丈の長い黒いマントを着ていて、目深にフードを被っている為、男か女かさえも分からなかった。
足元には、幾つもの正円と幾つもの三角形。
絵のような文字のようなものが幾つも描かれていて、円と三角形の角が触れる6か所には、火のついた蝋燭が立っている。
黒マントの5人は、円の外側に均等な距離を保って立っており、全員がぶつぶつと何かを呟いていた。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
しばらくの間、異様な雰囲気の中、不気味な呟き声だけが聞こえていたが、円の中心部分から煙のような霧のようなものが立ち上り始めると、何かが這いずるような音が聞こえた。
煙のような濃い霧の中に、何かが姿を現したようだった。
何かの影が動いている。
ヒトの姿にも見えるし、獣の姿にも見えた。
レイモンドの周りにも薄い霧が広がり始め、はっきりとその姿を見ることは出来なかったが、鋭い爪のあるヒトでは無い手だけが、濃い霧の中から何かを求めるように現れ出て来た。
すると、黒マントの5人のうち3人が素早く動き、レイモンドの傍に駆け寄った。
無言のまま3人はレイモンドを押さえ、腕を取り、袖を捲り上げ、取り出したナイフで躊躇う事無く、切りつける。
「な、な、何を⁉うわぁぁぁぁぁぁぁ‼」
レイモンドが喚こうが騒ごうが全く取り合わず、流れ出た血を搾り取るようにしてグラスに注ぐと、急ぎ円まで戻り、差し出されているヒトではない手にグラスを渡した。
ヒトでは無い手はグラスを持つと、すぐに濃い霧の中へと消えていった。
レイモンドは、あまりの出来事に、腰を抜かした。
黒マント達の手が離れると、そのままその場に尻もちを付く。
手も足も震え、立ち上がることは出来そうもなかった。
孫息子のケリーが原因不明の難病にかかり、助ける術がなかった。
医者はお手上げで、神に祈り続けたが、回復の兆しは全く見えなかった。
たった1人の息子に、やっと授かった子供だった。
何とかしてやりたくても、どうすることも出来なくて、日に日に弱っていくケリーを、ただ見守ることしか出来なかった。
もう限界だった。
嘆く息子夫婦を見ているのも辛かった。
医者も神も助けてくれない。
ならば、悪魔に頼むしかない。
そう思い、密かに捜し歩いて、ようやく探し当てた旅人に大金を払い、他国の黒魔術団を紹介してもらった。
悪魔を呼び出して、ケリーを助けてもらうのだ。
それなりの覚悟はあった。
この身を危険に晒すことぐらいは平気だと思ったし、命を差し出せと言われれば、それでもいいとすら思っていた。
しかし、実際に体験すれば驚きの連続で、怯えもする。
何の説明も無しに行われていれば、尚更だった。
おそらくは、あの霧の中に悪魔は現れているのだろう。
自分の血は、悪魔が飲んだのだろうか?
そのことの意味が分からないレイモンドは、恐ろしさのあまり、腰を抜かした。
切られた腕の痛みも感じなかった。
《レイモンド・グレース………。そなたの望み叶えてやろう。ただし、それには契約が必要だ。》
濃い霧の中から声がした。
低くて禍々しい声だった。
再び濃い霧の中からヒトでは無い手が出て来た。
その手には羊皮紙が握られていた。
黒マントの1人が、それを受け取り、レイモンドの所まで持ってくる。
レイモンドは受け取った羊皮紙を広げる———と、それは契約書のようだった。
所々は読めぬ文字で書かれているが、内容的には、『望みをかなえる代わりに、生贄を差し出せ』と、書いてある。
レイモンドに、誰かを生贄になど、出来るはずもない。
「い、生贄は、わたしだ。わたしの、い、命をくれてやる!」
勇気を振り絞り、レイモンドは叫んだ。
しかし、悪魔は承諾しなかった。
《おいぼれの命など要らぬ。幼子の命をよこせ。そうだな………、“お前の血を継ぐ娘”をもらうとしよう。》
「む、娘………?」
レイモンドは考えた。
レイモンドには娘は居ない。
イアンという息子が居るだけで、イアンの妻、マギーとレイモンドに血の繋がりはない。
イアンとマギーの間の子供は、ケリーだけ。
今後、女の子が生まれるという保証はない。
ならば、悪魔とその契約を交わしたところで、生贄になる者は居ない、ということになる。
居ないのだから、契約を破ったことにはならないはずだ。
「いい………。そ、それでいい………。」
レイモンドは、悪魔を出し抜くつもりで、悪魔が出した条件を了承した。
すると、レイモンドが広げていた羊皮紙に、新たな文字が現れた。
それは、レイモンドにも読める文字だった。
『私、レイモンド・グレースは、【“私の血を継ぐ娘”を生贄として差し出す】ことを、ここに約束する。』
《サインを。》
声と共に、黒マントの1人が動き、羽ペンの先をレイモンドの、未だ流れている腕の血に浸してから、レイモンドに持たせた。
「本当に、ケリーを助けてくれるんだな?本当だな?」
レイモンドは、何度も何度も確認した。
《もちろんだとも。安心してサインをするがいい。》
濃い霧の向こうで、悪魔が笑っているような気がした。
顔など見えないのに、黒マント達もフードの中で笑っているような気がした。
「………」
それでも。レイモンドはサインをするしかなかった。
今更、引き返すことなど出来はしないのだと、覚悟を決めた。
震える手で、なんとか自分の名を記す。
「………っ!」
途端、レイモンドの辺りにあった霧が急に濃くなった。
辺り一面の霧が濃くなり、居たはずの黒マント達の姿は、濃い霧の中に紛れて見えなくなった。
そして、レイモンドの視界全てが白一色になったところで、レイモンドの意識は途絶えてしまった。
始まりました。
至らぬところもあるかと思いますが、広い心でお読みください。
よろしくお願いします。