雨あがりの子猫は嬉しげに微笑んで
本編の前日談にあたる短編小説です。
まだ本編を読まれていない方は先に本編をご一読して頂くことをお勧めしますが、本編に差し支えるネタバレはありませんのでこちらからを先に読んで頂いてもオッケーです。
ただ、本編終盤で明かされる内容に触れているので、物語の伏線などをしっかり汲み取った上で読み進めたいという方はページ下部から本編「雨上がりの子猫は愛おしげに微笑んで」をご一読ください。
「ここは何処なんだろう?どうしよう。困ったな。」
ふと思い付きの好奇心から家の外に飛び出してみたは良いものの、私はどうやらすっかり道に迷ってしまったようだ。
見覚えのある物なんて何一つ無い。それも当然、なんせ私は生まれてこのかたご主人の家から外に出たことが無かったんだから。物心ついた頃から私は一人の女性の下で一緒に暮らしている。
そう、私は所謂飼い猫だ。
私がご主人の家に来たのはいつのことだっただろうか。
うろ覚えだけれど、頭の上からはとても鋭い陽の光が差し込んでいてジリジリと虫の鳴く声に囲まれていたっけか。どうしてかは忘れてしまったけれど、私は小さな箱の中に居た気がする。始めは周りに兄妹達が居たのだけれど、徐々にその数は減っていき、いずれ私一人だけになった。
どうして私一人だけがここに居るのか。
兄妹達は何処へ連れて行かれてしまったのか。
お母さんは何処へ行ってしまったのか。
何も分からなかった。
ただ、そこがとても怖くて力無くか細い鳴き声を上げていたところを白いワンピースを纏った一人の女性が訪れ、とても温かい手で私を包み込んで、今の寝床へと招き入れてくれた。そして彼女は「私はみつき、よろしくね」と言うと、温かいミルクを差し出してくれた。
それが凄く、嬉しかった。
昔の思い出はそれだけ。
今はみつきと一緒に暮らし、毎日寝床でゴロゴロしてはみつきの帰りを待つ日々だ。
何一つ不満は無かった。みつきはそれはもう大層私を可愛がってくれて、遊んでくれて、おいしいご飯を与えてくれた。
でもそんな日常の中で一際私の興味を引く物が現れたのだ。
「リア、行ってきます」
みつきはいつものようにそう言うと、扉を開けて出掛けていった。
その日はとても晴れ渡っていて、片手にベージュのカバンを提げて手を降るみつきの姿を見送ると、いつものように日向ぼっこでもしようと私は窓辺の床でゴロンと寝転がる。ひんやりとしたフローリングの上で心地の良い日差しを浴びて早速うとうとしてきたところで、私の耳にチュンチュンと何やら変わった音が聞こえてきた。
ふと顔を上げてその音の聞こえる方向、窓の外を眺めると、塀の上に何やら小さな鳥がちょこちょこと動いている。そしてまた一つ「チュンチュン」と声を上げた。
私は動く小鳥に一気に興味をそそられ、しばらくそれを見つめていた。
するともう一匹小鳥がパタパタと音を立てて空から落ちてきたのだ。私は咄嗟に姿勢を低くして身構える。空から落ちてきた方は同じく塀の上に着地すると、2匹で身を寄せ合ってまたチュンチュンと鳴き始めた。
もはや私の視界にはその動く2匹の動物の姿しか写っていなかった。
好奇心とは凄いもので、見知らぬ物への恐怖なんか吹き飛ばして私は何とかそれらを捕まえる事ができないかと考えることに夢中でいた。
一歩、また一歩と歩み寄り、もっと近づこうとする。そーっと、気づかれないように。そしてまた大きな一歩を踏み出した時。
「あ痛ッ!」
ゴツッと鈍い音を立てて気づけば私は透明な窓に顔面をぶつけていた。その音に気づいたのか、塀の上の2匹の小鳥はパタパタとまた空高くへと飛んで行ってしまった。
「あぁ!行っちゃった……」
すかさず窓に顔を押しつけてその2匹の行く末を追ったが、あっという間に見えなくなってしまい私はがっくりと肩を降ろす。
とその時、ふんわりと吹き抜けるそよ風が私の髭を燻ぶった。何だろうと思いその風の吹いてきた方を見てみると、大きなこの窓がほんの僅かに開いていたのだ。私はその隙間にそっと顔を近づけて髭を当ててみた。
「うぅ、ちょっと狭いかも」
辛うじて鼻先が外に出てはいるものの、窓枠と戸当りが「ここから先へは通さん」と言わんばかりに私の頬っぺたをぐにゅっと押し潰す。それでももう私を止められるものは居ないのだ。ここから外に出て向こうに飛んでいった小鳥を捕まえなければならないのだから。
何処からとも無く湧いてくる本能に身を委ね、狭い隙間にぐぐぐっと顔を押し込める。
お、開いた。
大きな窓は以外にもスルスルと私に道を譲り、そのまま体を捩って私は外の世界に飛び出すことに成功した。さぁ、さっきの小鳥達は何処へいったのやら、早くしなくては完全に見失ってしまう。
みつきと共に暮らすこの寝床は高い塀に囲まれていて、何処か塀の外へ出られる場所は無いかと壁沿いにとことこと歩き進める。
すると、途中で途切れた塀の先に鉄格子の扉があり、その下側に通れそうな隙間があるではないか。
私は小走りでそこに駆け寄ると、姿勢を低くし腹這いになってその門を潜った。
それから無我夢中で小鳥たちを探してはみたものの、彼らはいずれも高い棒の上に繋げられた黒く太い糸の上でチュンチュンと楽しげに会話をしているようで、これではとてもじゃないが捕まえることができない。「おーい」と声を掛けてはみたものの、聞こえていないのか何処かまた遠くへと飛んで行ってしまった。
それに、目の前の事に気を取られすぎていて今自分が何処にいるのかがさっぱり分からない。
それでも私は少し先の地面でぴょんぴょんと跳ねる緑色の小さな虫を見つけると、その下へと駆け寄った。
「おーいみつきー。どこにいるのー」
私は懸命に声を上げてみつきを探す。
みつきも外に出て行ったのだから、きっと近くにいるはずだ。
何よりそろそろ落ち着きを取り戻してきてこの世界が怖くなってきてしまった。
歩いても歩いても先の見えない道に目眩を覚えたり、
自分より一回り大きい容姿のよく似た動物へ声を掛けてみれば爪をたてて顔を叩かれそうになったり、
ぴょんぴょんと跳ねる虫は挨拶をしようと思ったら突然鼻先にぶつかって驚かせてきたり。
一体私が何をしたと言うのだ。寝床の外の世界は私を受け入れてはくれないと言うのか。
そんな世界にぷいっと不貞腐れたフリをしてみるものの、本当は少し淋しい気持ちが込み上げているということを私は無視できずにいた。
暫く歩き続けてはみたが、大きな建物が延々と連なるばかりで代わり映えのしない景色が続いている。自分の寝床を探そうにも、そもそも私は寝床の外観を見たことがない。だが、きっと一度見れば周りの音や匂いでそこだと分かるはずなのだ。それこそ今頃みつきは私を探してくれているかもしれない。そうだ。きっとそうに違いない!ともなれば、歩き続けているよりも何処かで待っていた方がいいだろう。初めて外を歩く私からしたらこれだけ長いこと歩き続けるのは相当に堪える。丁度良いところに軒下の影が落ちた良い休憩場があるではないか。
私はそこへとことこと歩を進めると、日陰に腰を落とし一息ついた。
「みつきー。ここだよー」
私は精一杯声を上げてみつきを呼んだ。近くを通りすがったらすぐにここだと気づいてくれるように。
「みつきー」
「……」
「おーい。どこにいるのー」
「……」
「リアはここだよー!」
「……」
「みーつーきー!」
「……うるせぇなぁ」
私はふと声のした後方へと目を向けた。軒裏と藪の影が重なって物や姿の形がボヤけてはっきりとしない小道の奥、そこをじっと見つめていると、やがてその声の主であろう影の足元が映り、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「さっきからわーわー喚きやがってよぉ……。オレ"ら"の昼寝を邪魔する命知らずはどこのどいつだ……」
やがてその声の主は影溜りの奥から顔を出し、両目をキリッとつり上げて眉元をぐっと下げたドスの効いた目つきで私を睨んだ。私と似たような容姿だが、私よりも一回り、いや二回り以上大きな図体をしている。灰色の毛並みは所々が跳ねたり抜け落ちていたりでぼさついており、誰かに飼われているようではなさそうだ。
「あなたは、野良猫さんですか?」
私は相手の機嫌を伺うことも無く、唐突な質問を投げつける。その灰猫は私の言葉に一瞬脚を止めるも、またすぐに歩き出す。
「んなこたどうだっていいんだよ。おめぇ見ねぇ顔だな?その毛並み、飼い猫か……」
「えぇっと、そうなんですけど、外に出てみたら少し道に迷ってしまいまして」
私はえへへっと舌を出して照れ隠しをして見せる。それから、「外ってすごく広いんですね」とか「お陽さまは眩しいですね」とか「良かったら私の寝床を探してもらえませんか?」なんて言葉を並べて、最後に「みつきにお願いすればきっとご飯ももらますよ!」と言い切る直前、灰猫が私の言葉を遮った。
「お前、少し黙れよ」
――えっ……?
殆ど無意識で反射的に体が動いた。自分の身を守るための本能が働いた。研ぎ澄まされた鋭利な爪を伸ばし私の頬を掠めた灰猫の手から逃れるために。
私は一歩二歩と大きく飛び退き、姿勢を低くして咄嗟に身構えた。掠めた爪が切り落とした細い毛が目の前をヒラヒラと落ちていく。
「飼い猫様がそんなに偉いかよ。オレらのことをよく知りもしねぇで、黙って聞いてりゃうだうだとよぉ。おめぇみてぇな世間知らずのガキはこの世界じゃどうなるか知ってるか?」
灰猫は徐々に私との距離を詰めてくる。早く、早く逃げないと。私の中の危険信号がピークに達したのを感じ取ると、踵を返しその場から走り去ろうと脚を伸ばす。だが私はその場から逃げることが出来なかった。振り返るとそこには灰猫よりも少しばかり小さいが灰猫によく似た猫たちが2匹、私の退路を塞いでいた。
「なぁ、オレらは腹が減ってるんだよ。この世界じゃオレら野良猫なんて毎日毎日住処を転々としては食い扶持を繋ぐので精一杯だ」
「お前には分かる訳ねぇよなぁ?」と言葉を続けて灰猫はじりじりと滲み寄る。3匹の野良猫に囲まれ、なんとか背を向けないようにと視線を泳がせながら藪を背にするように後退りをする。
「え、えぇっと……お腹が空いてるなら、みつきがご飯をくれるから、一緒に私の寝床に……」
「いいや、もうお前でいいよ」
「え……」
そして次の一息を付く間も無く、灰猫を取り巻く2匹の猫が私の首を目掛けて飛び掛った。
「おかあさーん!猫さんがたくさんいるよー!」
ほぼそれと同時に、みつきよりも背丈のずっと小さい人の子が私たちの前に現れ、灰猫たちもそれに気づき人声のする方へと目を向ける。
次の瞬間、私は駆け出した。今しか無いと言わんばかりに、灰猫たちが目を逸らしている隙を見計らって人の子の足元目掛け一目散に走った。
「逃げやがった!ボケっとするな追うぞ!」
それを見た灰猫はすかさず両脇に控えるあっけらかんとした表情の猫たちに喝を入れ追い掛けてくる。
私は人の子の前で細かくステップを踏み足の間をわざと通って見せて、人の子はそれに驚くと「うわぁ!」っと声を上げてはばたつかせた足を絡ませて通りへの道を塞ぐようにその場に尻餅を付いた。
「くそっ!邪魔だ!」
人の子は灰猫の放つ「シャー!」っという無粋な威嚇を見ると、その姿に怯え頭を抱えてその場に蹲る。灰猫は小さく舌打ちをすると、人の子を飛び越えて通りに出た。
「ごめんね……」
私は走り続けながら後方を振り返り、蹲る人の子を見た。そしてそれを飛び越えて追ってくる灰猫と、少し遅れて後を追う取り巻きの2匹の姿を確認するとまた正面へと振り返りただただ走り続けた。
何処に逃げれば良いのかも分からずにとにかく道すがら曲がり角をくねくねと走り、私がやっと通れそうな程の細い柵の隙間を抜けて何とか振り切ろうと試みる。小柄な私に対して体の大きな三匹の猫は狭すぎる通路は通れないはずだ。そこからしばらく走って後方を振り返る。
何とか逃げ切ることに成功しただろうか。猫たちの姿が見当たらない事を確認すると、私は安堵して脚を止めた。
しかし私が息を一つ付いたその時、野良なだけあってここら一帯の裏道の構造を把握しているのか、振り切ったと思った途端突拍子もない方向から灰猫が現れ私目掛けて爪を振り下ろした。
図体の大きさからは想像も出来ない機敏さで迫り来る灰猫の姿をこの目に捉えると、地面を思い切り踏み締めて飛び退いた。
反応が遅れてしまった。灰猫の伸ばす鉤爪は逃さんとばかりに飛び退く私の後脚の膝下を僅かに抉った。
私は飛び退いた勢いのまま体勢を崩して地面に転がる。ふと脚元へと目をやると、右脚膝関節の外側からやや下辺りに灰猫の残した爪痕が私にズキズキと鋭い痛みを与えている。
初めて感じるこの痛み。この焦り。恐怖。
怖い……。
灰猫は徐々に私に歩み寄る。
ここから逃げなくちゃ……。
そして自身の爪先をペロリと舐めると、立ち上がろうとする私の傷口を踏みつける。
「痛いッ!」
「もう諦めろや。飼い猫さんよぉ」
ぎらりと尖った八重歯をわざとらしく見せつけながらそう言うと、灰猫はゆっくりと私の首根っこへと歯先を伸ばす。
怖い怖い怖い嫌だ嫌だ嫌だ……。
助けてみつき……。
痛みと恐怖に怯えぐっと閉じた瞼を僅かに開け詰め寄る灰猫の牙を瞳に映した時、この身に迫る死への恐怖がドクンと私の心臓を叩いた。
気が付けば、振り抜かれたか弱く武器としては心許ない私の爪先が灰猫の目元からやや下を掠めていた。
「あっ……」思わず息が漏れた。
灰猫はまさか反撃されるとは思っていなかったようで、私の攻撃をその身に受けて脚元の傷口を押さえ付ける力を緩めた。身を守るための咄嗟の行動とは言えこの手で相手を傷付けたことに一瞬の動揺を覚えつつも、ごめんなさい……と心の中で囁いて僅かにできた隙を逃すまいと私は覆う灰猫の体をするりと抜けて一目散に走り去った。
「覚えとけよ。絶対に逃がさねぇからな……」
大きな建物が身を寄せ合い、徐々に狭くなってきた陽の届かない薄暗い道を通り抜け、更に小道の奥、曲がり角を曲がった先へ駆け込む。
小道を曲がった行く先、狭いスペースを高いブロック塀が塞ぎ、その前にはゴミ袋が積まれている。そこは行き止まりだった。
私は何とか身を隠そうとゴミ袋と壁の間にできた僅かな隙間へと入り込んで息を潜めた。
それから灰猫たちが姿を現すことは無かった。逃げ切ることができたのか。もう追ってくることは無いだろうか。
しかしあの時も安堵に息を付いた瞬間に襲われた。そのトラウマが脳裏を過ぎると、私は狭い隙間の更に奥へと身を縮めた。
あれからどれほど時間が経っただろうか。陽が沈みかけた頃に私はどうやら眠ってしまったようで、気が付けばまた空が明るくなっている。しかし日差しが届くことはなく、空には部屋の隅っこに溜まった埃のような薄暗い雲が覆い、ポツポツと雨を降り注いでいた。
もうここから一歩も動くことができない。
怖くて脚が動かない。
寝床に帰りたい。
みつきに会いたい……。
打ちひしがれたようにじっと目を落とすと、そんな思いが頭を過った。
その時、ポツポツと降る雨の中に何者かの影が浮かんだ。その影は小道からこのゴミ置き場へと近寄ってくる。まさか灰猫たちが追ってきたのか、居場所がばれてしまったんじゃ。私は息を殺し、ゴミの隙間からその影の姿を追った。
その影はゴミ置き場の前で立ち止まると、まるで品定めをするかのように山積みになったゴミを見渡す。
さっきの灰猫じゃ……ない?そこにいたのは一匹の猫だった。しかし、私を追っていた灰猫たちとは違い、その身は白と黒の毛並みに包まれている。ドスの効いた鋭い目つきは無く、悲しげな面持ちの中にあるその瞳の奥にはどこか柔らかな温もりが感じ取れた。悪い猫ではない。私はそう悟った。
しかしその猫はこのゴミ置き場に用は無かったのか、踵を返して立ち去ろうとする。
何故か私はその後ろ姿が小さくなっていくのがとても寂しく感じた。彼なら私を、孤独な私を助けてくれるかもしれない。私の中の危険信号は彼には何も反応を示さない。恐怖は感じなかった。
「あなたは誰……?」
彼が振り向いた。とてもか弱く、掠れたような私の細い声に気づき、彼はまたゴミ山の近くへと歩み寄る。
「あなたは私を傷付けたりしない……?」
彼は私の居るゴミ袋と壁の間の狭い隙間を覗き込んだ。暗闇の中からでも彼の瞳はしっかりと見て取れた。あぁ、やっぱり彼ならば。
不思議と、私をこの場に縛り付けていた恐怖が音もなく消え去り、傷の痛む後脚にゆっくりと力を入れると私は彼の前に姿を現した。
そして私は彼と出逢った。
雨を降り注いでいた空の雲間からは、温かい陽の光が差し込み始めていた。
小さい頃に道端のダンボールの中に捨てられている子猫を見つけたことがあります。
当時僕は小学生でしたので持ち帰って世話をするということが出来ませんでしたが、
家からヨーグルトカップに入れた牛乳を持ってきてその子猫のそばに置いてやりました。
今思えば、子猫は生まれたてで目も空いていなかったのでカップの牛乳を飲むことは出来なかったかもしれません。次の日またそこに訪れれると子猫は既に居なくなっていて、牛乳だけが残っていました。
素敵な飼い主さんに拾われていたら嬉しいな……。
僕の家の猫も元野良ですが、当時はちっこくて可愛かったのにぐーたら生活を送ってすっかりデブ猫になってしまいました笑