三題噺 『包丁』『牛乳』『触覚』
なぜだか最近、牛乳が飛ぶように売れているらしい。牛乳といえば、多くの人にとっては生活になくては困るものである一方、それを嫌う、もしくは飲めない子供が多いことが通説だ。
一時期は食育だのなんだのと言い、給食で牛乳を残す子はギルティーという政策を打ち出していたが、あれのせいなのだろうか。そんな風に考えていると、ニュース番組のコメンテーターが面白いことを言っていた。
「今回のね、牛乳ブームはね、ある一つのね、変わった牛乳が原因なんですね」
妙に腹が立つしゃべり方だが、それはさておき続きに耳を傾ける。
「現在品切れ状態が続いているんですけどね、今回は一つ持ってきてみましたよ」
そして画面に大きく映し出されたのは、一見普通の牛乳だった。しかし、パッケージをよく読むとなんとも変わった名前だった。
『リストカットに効く牛乳』
「なんじゃこりゃ……」
思わず口から言葉が零れてしまった。
「こちらの牛乳、実はある効能がありましてね、なんとね、人の触覚を一時的に失わせるんですよね」
コメンテーターの言葉を聞いて、驚きというより怒りが生まれた。なんでそんな危ないものが出回っているんだ!
「それは……商品としての安全性等の問題は大丈夫なんですか?」
同じことを思ったのだろう、古株アナウンサーが苦い顔で苦言を呈す。
「はい、この牛乳は一般には販売されていません。実はね、小さく特定医薬品指定のマークがありますね。病院でこの牛乳が必要とされた子、まぁリストカットを頻繁に起こす子ですね、彼らに秘密裏に飲ませるのですよね。リストカットっていうのはね、身体を傷つける痛みから生の実感を得るというものなんですけどね、これを飲むとそれが体感できない。研究によると、80%近い子がそれをきっかけに日常生活の中で生の実感を得ようとしてね、一般社会に戻るといわれてますね。なまじ生の実感を得続ける生活を続けているとね、最初は死ぬことが目的だった子が生の実感を目的にするんですよね。だから、彼らはむしろ前より生き生きと生活しているらしいですね」
コメンテーターに食い掛かるように古株アナウンサーがつっこむ。
「80%近くって……残りの20%はどうなんですか?」
「死にます」
あっさりと、名前を聞かれて答えたように、あっさりと言った。
「そんなの……」
「あなたの言いたいことはよくわかります。しかしね、リストカットをする子の親はね、それでもこの牛乳を求めるんですよね。何か、状況を動かす『きっかけ』が欲しくて。ただ貰うのには医者の推薦状が必要だった。でもね、世間を気にする親はそんなもの貰えない、貰いたくない。それで今回の騒ぎなんですよね」
「……どういうことでしょうか?」
別のコメンテーターが、黙り込んでしまった古株アナウンサーに変わり質問を投げかけた。
「はい、これが実用されたのは半年前からなんですがね、最初の4か月は大成功でした。でもここ2か月でこの牛乳の存在が徐々に広まっていきました。しかも都市伝説的にね。『触覚をなくす牛乳が工場の事故で紛れ込んだらしい』ってね」
そこまで話が進んだ頃、妻が帰ってきた。
「ただいま、ってこのニュース。ついに全国に知れ渡ったのね」
「お前、知ってたのか?」
「ええ、主婦の間ではもちきりよ。主にどこのスーパーなら牛乳が売り切れていないかで」
コメンテーターが、その都市伝説のおかげで、スーパーで牛乳の品切れが相次いでいる、と話していた。
「それで帰りがこんなに遅かったのか。『牛乳を買って帰るので遅くなります』ってメールが来たときは、新手の浮気かと思ったぞ」
「まぁ酷い、単純に遠出して牛乳買ってきたのよ。これがなくちゃミルクティーも朝食もおかしも作れないわ」
妻は肩を竦めた。その動作がかわいらしくて、思わずにやけてしまう。
「すまなかったよ、さっそくで悪いんだが牛乳をくれないか? テレビを見てたら飲みたくなっちゃったよ」
「もう! 大事に飲んでよね!」
そう言って、妻はコップにことことと牛乳を注いだ。
言われた通り、味わって飲んだが、美味いとも不味いとも言えない、ただの牛乳だった。
「この都市伝説、本当に怖いところはですね、もしかしたら本当かもしれない、というところがあることなんですね」
コメンテーターの声がやけに大きくリビングに響いた。
「え……?」
「……嘘……」
妻が後ろで声を震わしていた。
「工場で事故、もとい発注ミスがあったことが判明しましてね、それ以来製造は中止されているんですが……。回収も行ってはいますがね、まぁ2割ほど未回収らしいですね。でもご安心を。牛乳ですから、そんなに長期間の保存はできません。この騒ぎもすぐに収まるでしょう。賞味期限がやたら前の牛乳なんて、飲む人はいませんでしょうしね」
「……ほら、大丈夫だよ。日本全国で2割だし、すぐに収まるって。でもしばらくは牛乳を買うときは賞味期限に気を付けよう」
「そうね……」
妻の声はまだ震えている。
「大丈夫さ、この牛乳だって……」
机の上に置かれていた牛乳に手を伸ばし確認する。パックを掴むとき、何か違和感がしたが、気にせず蓋の賞味期限欄を見る。
「ほら……○月○日……って」
これは一か月前のものでは……?
その時、パックの下が赤く光ってるのが見えた。
「おい、この牛乳……」
そこで力が抜け、パックを落とした。床にはピンク色の池ができていた。
「うん、手に入れるのすごく大変だったんだよ?」
そこで気づいた。手首から真っ赤な血が流れていることに。それが床に落ち、牛乳と混じりピンク色になっていることに。
「おい! これって……」
振り返ると包丁を握った妻が笑顔で佇んでいた。
「最近、独り身の頃が懐かしくって。それを主婦の友達に愚痴ったらこれをくれたの。お金と自由が一気に手に入る魔法の牛乳だって」
「そんな……!? なんでだ! 味は普通の牛乳と変わらなかったぞ!」
「化学薬品をふんだんに使ってるからね、腐るのは普通の牛乳よりかなり遅いみたい。それに丁寧に保存されてたし」
「最近これを悪用したと思われる事件が相次いでいましてね、でもなかなか捕まえられなくてね。だってあくまで、リストカットや自殺の事故扱いされますからね」
妻がにやりとして、包丁を俺に握らせた。
コメンテーターの言葉が頭の中で響き渡り、俺は意識を失った。