三日目
食事を終えて、藤見荘の前に七時二三分頃出てきた。今日はなるべく動きやすい格好に変えてきた。Tシャツに長ズボンと予備で持ってきたリュックサックという出で立ちで出てきた。そこに岩波のおじさんが出てきた。
「早いですね。おはよう。」
「おはよう。今日は良く晴れましたね。」
緑の山が朝の光を浴びて、濃く映っている。田んぼの水は光を反射してきらきら輝いていた。田んぼの苗は今からが伸び盛りだろう。
「そうだ。お弁当とお水です。家内から渡してくれと頼まれまして。」
「あ、すみません。ありがとうございます。」
七時三〇分に岩波さんがのんびりやってきた。
「早いですね。おはよう。」
岩波さんはおじさんと同じ反応をしていた。
「おはよう。さすが親子ですね。真っ先に同じ反応してましたよ。」
笑いながら僕は答えた。
「はは。こういうこともあるもんですね。」
おじさんと岩波さんは笑った。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。」
おじさんを先頭に山へ向かっていった。徒歩で数十分その山があって、軽いハイキングコースになっていた。最初は木がまばらに生えた緩やかな斜面だったが、登って行くうちに斜面が急になって、木々も密集し、道も狭くなってきた。その上、何の種類かは分からないが笹が覆ってきていて道にも少しずつ飛び出してきていた。それを長い棒を拾った岩波のおじさんが払って先に速いペースで進んでいった。その後を岩波さん、僕がついて行った。
頂上に辿り着いた時、すでに多くの人々がいた。どうやら中学生が自然体験や何か学校の旅行の企画で来たようだった。中学生の集団の中に混じってその先生らしき人物がそのとき「集合だ、みんな集まって」と言うと、この言葉を聞いた生徒たちが集まってきた。そして、その一団が集合して、山を下りていくと一気に頂上はもぬけの殻になった。頂上からは連なる山々と他の山の天辺には湖が見えた。
「ちょっと茶屋の小豆さんに挨拶して来るよ。大分ご無沙汰だったから。」
おじさんはそのまま茶屋の方へ行ってしまった。
「さっきのは中学生の一団だったね。」
急に岩波さんが口を開いて、話し始めた。
「そうだね。みんな楽しそうだった。僕もここに最初登った時はそうだった。」
「ん。以前にこの山に来たことがあったのかい。」
「そうだよ、この山もだけど山梨の道志村に初めて来たのが中学生の時だったんだ。あの時に泊まった宿も藤見荘だった。」
「そうだったんだ。でもその頃っていうと俺はちょうど東京の叔父の家にいたんだ。俺が知らないはずだよ。どうしてまた来たいって思ったんだ。」
「何て言えばいいんだろう。あの頃が何となく楽しかったのと懐かしかったのを思い出して、つまり心の故郷って言わせるような何かがあったのかもしれないな。」
「そうか。」と岩波さんはぼんやり言って、山と向こうに見える湖の写真を撮り始めた。
数分の間があった。岩波慎二さんはしばらくして写真を取るのを止めて言った。
「実はここにコンテスト用の写真を何枚か撮りに来たんだ。」
「コンテストって写真コンテストですか。」
「そうだよ。今度こそは良い賞を取って、写真集を出すのが夢なんだ。といっても何十回も応募してるけど、毎回ほとんど落ちてたり、良いときは佳作だな。」
「何十回もですか。」
「うん。何か上手くいかなくてね。毎回毎回上手いカメラマンが出て来るし、やっぱり才能ある人はすぐにアマチュアからプロに転向してさらに活躍している人もいるし。それ見てると俺も頑張らなきゃなと思うんだ。おふくろとか親父にはいい加減まともな職に就けなんて言われてるけどな。」
「すごいですね。僕には無理だな。僕は文芸学科に所属している大学生なんですが、本当は小説家になりたいんだけど、それも今できるかどうか怪しいんだ。」
「どうしてそう思うんだ。」
「他人の価値観や作品に出会って、それが良い作品だって思ってしまって、一気に自分の才能の無さを感じた。それだけだよ。」
「確かに、才能ある人はいるな、俺も正直うらやましいよ。でも、自分に与えられたものが不足してできているようには思わない。誰よりもこのカメラマンが好きでやり続けているから。誰かに劣ってるとか、誰かと競争してるとか感じてる暇がないんだな。」
「僕もそれぐらい思えるくらいになりたいよ。才能があったら、良かったって思うけど。僕はまだ好きでやっていることを捨てる覚悟はないな。それぐらいだったら、挫折してもいいから、まだ小説を書き続ける覚悟をしたい。」
「俺も挫折し過ぎているほどだけど、諦める気はないな。」
しばらく僕は景色を眺めていた。隣で慎二さんが写真を撮っている。そのときおじさんがやってきた。
「小豆さんは元気だったよ。待たせてすまなかったね。そろそろお昼を食べましょうか。」
少し古びたベンチに座るとそれぞれ鞄の中からお弁当と飲み物を出して食べ始めた。
「あの後で小豆さんっていう方の茶屋に寄っても良いですか。」
僕は何となくそう尋ねていた。
「うん。後で案内しますよ。そこのお茶屋さんは団子がおいしいです。きな粉も良いですけどね、小豆さんが作る小豆餡の団子は最高ですから。冗談じゃなくて本当です。」
おじさんは笑いながら答えた。




