一日目
一日目
昨日の夜から雨がパラパラと降り続いていた。神山はマンションの一番端の部屋で憂鬱に外の中途半端な雨を見つめていた。5月の下旬、久しぶりにパソコンから離れて、二泊三日の山梨の一人旅を計画していたのだ。しかし、先週の天気予報では確かに晴れと言っていったはずであるが、今週になって天気予報は僕の期待を裏切って、雨になっていた。もう少しで五時半になりかけている。そろそろ出かけなければ、乗る予定の中央の高速バスに遅れてしまうだろう。神山は自分のボストンバックを持って、自宅マンションを後にした。傘を差して、近くの駅へと向かった。そこから、電車に乗り、この時間でも人の多い大月駅へと着いた。意外と時間には余裕があって、すんなりと神山は予定のバスに乗った。しばらくするとバスの席にはあまり人はいなかったが、だるそうに運転手が乗ってきて、山梨県道志村へ出発した。窓の外の景色をぼうと見ていた。
神山の意識はいつの間にか一週間前の出来事に戻っていた。僕はある大学で文芸学科を専攻している。昔からの夢であった小説家になる第一歩を踏み出したのだ。作品を創作し、批評しあう授業があるが、そこで知り合った金沢という男がいた。彼の作品を読んだときに僕はとても驚いたのだ。僕と同じ年にしてこんなにも良い作品を作れる人が身近にいたことである。自分の世界が単純に変わるほどに衝撃を受けた。あまりにも自分の世界が小さく幼稚に見えてしまったのである。そこに価値観を得ることが出来なくなってしまった僕には大きなスランプとして何を描けばよいのか分からなくなってしまったのだ。でも、小学校から続けてきた文章を書くことは諦めたくないという気持ちとぐちゃぐちゃになっていた。数日後僕は渋谷の雑踏の中を歩いていた。赤信号が青信号になった途端、駅前のスクランブル交差点を信号待ちしていた人々が一斉に渡り始めて、人にぶつかられてぼんやりしていた僕は驚いて歩き始めた。いつもは活気しか感じないはずであるのに、無機質な雑踏の群れに追われて必死に抜け出したいという感情に襲われた。今の生活から逃げ出したいと考えた。少しの間だけでもゆっくり考える時間が欲しかったのだ。
窓の風景はだんだんと色を変え、ビルの多かったのが、民家や緑が目立ってきた。山梨に近づいているんだなあとしみじみと感じていた。一度僕はこの地を訪れている。出不精であまり旅行などに行かなかったが、中学生の時に自然学習で訪れて以来だった。何故だかあの時行きたいと感じたのはこの場所だったのだ。
山梨県の道志村は少々雲が残るものの晴れていた。初夏というよりも夏の気配さえ感じさせるほどであった。バスを降りるとすでに予約を取っていた民宿、藤見荘のおじさんがバス停の端っこの方でお客を待っていた。
「おはようございます。あなたが神山和也さんですか。既にご存じかとは思いますが、私は岩波学と申します。」
「おはようございます。ええ、そうです。よろしくお願いします。」
「いやいや、こちらこそよろしくお願いします。長旅お疲れ様です。荷物持ちますよ。」
「すみません。お願いします。」
民宿のおじさんは僕から荷物を受け取ると少し古めの黒い自動車のトランクに入れた。そして車のドアを開けた。
「お待たせしました。どうぞ乗ってください。」
「ああ、すみません。ありがとうございます。」
僕が乗り込んだ後、すぐにおじさんが運転席に乗り込み出発した。
景色は山々が取り囲む自然豊かな場所だった。民家も大分少なく、その周りには田んぼや畑が見えた。民宿の周りも似たような感じで、目の前には田んぼがあり、その奥にはそびえたつように大きな山が腰を据えていた。民宿はこじんまりとした外装でありながら、古い木材に独特の趣があった。玄関からおばさんが出てきた。
「おはようございます。長旅お疲れ様です。岩波の妻の陽子です。よろしくお願いします。」
「おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。神山和也です。」
「今、荷物を持っていきますよ。さあさあ、先にお入りになってください。」
一言言い残すと岩波のおじさんは車の方へ向かっていった。
「はい。すみません。」
岩波の奥さんは「こちらです。」と言うと中に案内してくれた。玄関はとても趣のある木の風格が漂っていた。そして、玄関のすぐそこには上に続く階段があり、さらに奥には浴室とトイレらしきものが見えた。
すぐにその後に岩波のおじさんがやってきて、僕の荷物を運んできてくれた。
「申し訳ないですから、僕が自分自身で部屋へ持って行きます。」
「そうかね。」
僕はおじさんから自分の荷物を受け取った。岩波の妻、岩波のおばさんは「こちらがあなたの部屋ですよ」と言って、玄関で靴を脱いで、階段を先に上がっていった。僕も靴を脱いでついて行ってみると二階には複数の部屋があって、一番階段から遠い部屋に案内された。部屋は一人で過ごすにはやや大きいくらいの畳の部屋だった。机やテレビなどもあり、ゆったりとできそうだ。
「じゃあね、また食事の用意ができたらお呼びしますからね。」
「はい。お願いします。」
まず、荷物を適当な場所に置くと畳の上に座って、テレビを見始めたが、途中で見飽きて、消してしまった。僕は何となく窓を開けて、景色を見て、すぐに物思いに耽り始めた。外の景色はのどかだった。さっき来るときに見た少し雲の残る青い空と、大きなそびえ立つ緑の山と田んぼが見えた。あ、鳥が飛んでいった。田んぼで農作業をする人が見えた。それに静かで風の音がひゅーと聞こえるだけだった。大分前に忘れていたような気がする。いつも日常に縛られて、こんなにも自由であったことを忘れてしまっていた。考えなければ、何かしなければ、どこかへ行かなければ、時間とともに何かが追っかけてくるようで、疲れてしまっていたのだ。僕は少し出かけてこようと思い散歩に出ることにして、下に降りてくると階段の右側の部屋から出てきたおばさんと鉢合わせして、出かけることを伝えて玄関から出た。
昼過ぎに僕は戻ってきていた。少しその辺りを散歩してきただけだったのだが、お腹が空いていて、昼ご飯は何だろうと他愛もないことを考えで帰ってきた。玄関に入ると左側の障子が開いていて、宴会でもできそうな大きな座敷があった。そこに一人の男性がいた。男性は一眼レフのカメラを何やら調整していた。そのとき階段下すぐの玄関から見て右側の部屋からおばさんが出てきた。そして私を見ると微笑んだ。
「食事の用意、できていますよ。今日は山菜そばなんですが、上で食べますか。それとも、座敷で食べますか。」
「えっと、座敷で食べても良いですかね。広くて開放感がある。」
「ええ、良いですよ。今もって来ますから、座敷の方で待っていただけますか。」
「はい。」
おばさんは再び右側の部屋に入っていった。多分あそこは厨房があるのだろう。僕は言われた通りに先に座敷に入っていった。さっきの男性が次にカメラを磨いていた。よほど大事なものなのだろうか。男性はTシャツとジーンズという格好で我が物顔で居座っている。他にも泊まっている人がいたのかと勝手に理解し、その斜め向かいに座った。そうしてやっと気がついた様子で、男性がこちらの方を向いた。見ると僕よりも数歳上に見えた。
「おや、気がつかなくてすまなかった。こんにちは。お客さんですか。」
「そうです。」
「ゆっくりしていってください。ここは何にも無いところですけど、自然は豊かですから。」
「はい。山々がきれいですね。」
「そうだね。落ち着く場所だよ。すまないが、そろそろ用事があって、行かなければならないので、では。」
「はい、さよなら。」
男性は急いだ様子で座敷を出て、玄関から外へ出て行った。僕はおかしいなと思ったまま言う機会を失ってそのまま会話を流してしまった。
そこに山菜そばを持ったおばさんがやってきた。
「お待たせしました。山菜そばです。山菜はここのを使用してるんです。新鮮ですよ。」
「おいしそうですね。」
山菜そばからは湯気が立っていて、新鮮な様々な山菜と手打ちそばが入っていた。
「さっきまでここに男性、私の息子なんですけど、いませんでしたか。」
「ああ、さっきの方、岩波さんの息子さんだったんですか。他に泊まっている方かと思ってました。道理でおかしいと思った。ここにいましたよ。けど、何か急用だったみたいで、カメラもって外に出て行きましたよ。」
「はあ、一足遅かった。息子の慎二っていうんですが、買い物でも頼もうかと思ったんですけど。久しぶりに帰ってきたと思ったら、また写真ばかり。すみませんね。愚痴を言ってしまって。」
「カメラマンか何かやっていらっしゃるんですか。」
「ええ、アマチュアのカメラマンよ。風景写真が大好きで、よく山にも撮りに行ってるわ。」
「カメラマンですか。すごいですね。」
「いえいえ、そんなことないわ。まだアマチュアですし。まだまだよ。それにしても、ありがとう。食事が冷めてしまうから、私はそろそろ戻りますね。」
「はい。すみません。いただきます。」
山菜そばは温かった。具だくさんで、味は意外とあっさりしていた。手打ちそばは白くてのどごしがよくおいしかった。あっという間に食べ終えてしまった。
これからどうしようと考えて本でも読もうかと部屋に戻っていった。




