人魚飯
あるところに、腹を空かした一人の男がいた。
時刻は昼飯時。町の通りは、そこかしこにある飯屋のうまそうな匂いで溢れていた。
さて、何を食べたものか。男がしげしげと店先を覗き込むように通りを歩いていると、向かいから見知った顔がやってきた。
「よう、久しぶりだな。今から飯かい?」
気さくに声をかけてきたその人物は、男の古くからの友人だった。
「何が久しぶりだ。おととい会ったばかりじゃねえか」
「ああ、そうだっけか」
とぼけた声で言う友人に、男は呆れてしまった。
この友人、昔からこんな調子で飄々としており、つかみどころのない男だった。いつなんどきも、あっちをふらふらこっちをふらふら。大人になった今でも、何をしているのか、そもそも働いているのかさっぱりわからない。
決して悪い奴ではないのだが、ろくでもない奴なのもまた確かだ。
「相変わらずだなお前は。ところで、お前も飯がまだならどこかで一緒に食わねえか?」
「生憎今しがた済ませたところだ」
友人は自慢げに腹をポンと叩いて見せた。
「なんだ都合の悪い野郎だな。それじゃ、どこかいい店知ってるか?」
「いい店か……、そういや町はずれに新しい小料理屋ができたのは知ってるかい?」
「いや、初耳だな。うまいのか?」
「知らねえ」
「知らねえってお前、そこで今しがた食ってきたわけじゃねえのかよ」
「出来たことは知ってたんだがよ。俺が行ってきたのはすぐそこの飯屋だ」
友人がちょいと親指で、後ろを指す。
「でよ、そこで隣の席に座ってた連中が話してたんだが、その小料理屋ってのがな……」
彼はそこで言葉を区切ると、勿体ぶった表情で男に向かって小さく手招きをした。
「なんだよ急に」
「まあまあ、いいからいいから」
男は顔をしかめながらも、そっと耳を近付けた。
「その小料理屋ってのがな……町はずれにあるんだよ」
「それは今聞いたよ」
「ああ、すまねえ間違えた。その小料理屋ってのがな……人魚が食えるらしいんだ」
「は? 人魚?」
男は耳を疑った。
「ああ、人魚だ」
「人魚って、あの上半身が人間で下半身が魚の?」
「そう、その人魚だ」
「お前、とうとう頭がいかれちまったか。いつかはなると思ってはいたが、まさかこんなに早いとはなあ」
「違うっての。あくまで噂だ、うーわーさ」
友人は馬鹿にするなと言わんばかりに目で訴えた。
「噂って言ってもよ、そりゃ本当なのかよ? 人魚の素揚げでも出てくるのか?」
「知らねえ。だから噂なんだろ」
「ああ、それもそうだな」
「もし興味があるんなら場所教えてやるけど。どうする?」
友人の問いかけに、男は腕を組み首をかしげる。
「うーん……、まあ聞くだけならタダだしなあ」
「なんだタダで聞こうってのか」
「金とるのかよ」
「冗談だよ、冗談。その代わり、行ったら噂の真相は教えてくれよな」
男は友人に噂の小料理屋の場所を聞くと、別れを告げ歩き出した。
さて、友人の手前ああは言ったものの、その実男はかなり気になっていた。嘘か真か人魚が食えるという。無論信じてはいないが、万が一という可能性もある。
どのみちどこかで昼食を取ろうとしていたところなのだ。折角だから行ってみようではないか。
それに町はずれにできた小料理屋なんぞ、大して繁盛してはいないだろう。ここは一つ客として出向いてやろう。男は意気揚々と件の小料理屋へと向かっていった。
しばらく歩くと、男は町はずれへとたどり着いた。
友人の言っていた場所を探してみると、確かに一軒の小料理屋がそこにはあった。だが、どうも外観が古臭くていまいちだ。新しく出来たとは言っていたが、古い建物をそのまま使い、それらしく見せているだけだろう。
「なんだ所詮噂は噂か? いや、むしろこういうところだからこそか?」
男は疑うような目つきのまま、引き戸を開けて暖簾をくぐる。
しかし入るやいなや、男の細く尖らせた目が丸く見開かれた。外観同様、中も広いとは言えずみすぼらしい印象を受ける店だが、どういうわけか客の入りは満席に近い状態だった。
客なんて下手したら自分一人しかいないかもしれないと、たかをくくっていたものだからこれには男も驚いた。
席に着いた男は、店内の壁に掛けられたお品書きに目を向けた。見たところ人魚の文字が書いてあるわけでもなければ、そんな料理がある様子もない。
やはり人魚を食べられるなどと嘘であったのか。しかしこの繁盛ぶりには何か理由があるはずだ。
そうこうしているうちに、初老の男が注文を取りにきた。
「いらっしゃいませ。なんにしましょう」
ここで男は言葉に詰まった。
というのも、客が少なければ冷やかし気分で人魚の一つや二つ、堂々と頼んでみようと思っていたのだが、こうも周りに客が多いとそうはいかない。
ここで人魚なんて頼もうものなら、店中の客から冷たい視線を浴びる羽目になる。男は言いにくそうな表情で、小さく声を絞り出す。
「あー、そのー、あれだ。ここでは人魚を出していると聞いたのだが……」
「はあ、人魚でございますか?」
「ああ、人魚だ」
「人魚とは、あの上半身が人間で下半身が魚のあの人魚でございましょうか」
「そう、その人魚だ。ちょいと噂を小耳に挟んでな。それで、どうなんだ親父。あるのか? ないのか?」
「人魚……ああ、もしや。少々お待ちくださいませ」
初老の男はしばらく考え込んでいたが、やがて何か思いついた様子でそのまま奥へと引っ込んでいった。
それからしばらく経ち、男の目の前に料理の乗った盆が置かれる。
「おい、親父これはなんだ?」
「はい、カレイの煮つけでございます」
「それは見れば分かる。俺は先ほど人魚と注文し、お前はそれに納得していたではないか。なのになぜカレイの煮つけが出てくる」
「ええ、そのことなのですがお客様、海の中でカレイの姿を見たことがありますでしょうか」
「いや、ないな」
「カレイという魚は海の中では、海底の砂に潜りその身を常に隠しております。そのことから転じて、私どもの故郷ではカレイのことを、隠れるに魚と書いて隠魚と呼ぶのでございます」
「い、隠魚?」
「はい。そのため当店では隠魚の煮つけと呼んでおりまして、それを勘違いなされたのではないかと」
なんだそれは、と男は肩の力が抜けてしまった。
人魚だと思ったものが、蓋を開けてみたら単なる聞き間違いでただのカレイだったとは。やはり、噂なんて全くあてにならないものだ。
男は残念がりながらも、折角運ばれてきたカレイの煮つけを一口食べた。するとどうだろう、なかなかに美味しいではないか。どうやら外観や内装よりも味で勝負する店だったらしい。これならばこの客入りも納得できる。
人魚の件は仕方ない。元々そこまで期待もしていなかった。それ以上にいい店を見つけたと、カレイを食べ終わった男は上機嫌で店を後にした。
数日後の昼飯時、町の通りを歩いていた男は再び友人と出会った。
「やい、この野郎。なにが人魚だ、でたらめ抜かしやがって」
開口一番、男は友人に詰め寄った。
「なんだ、その様子だと噂は違ったってことか」
「おう、人魚じゃなくて隠魚、つまりはカレイのことだってよまったく」
「人魚と隠魚。はーん、確かに似てるなー」
「似てるなー、じゃねえよ。お前が間違えたのか噂してた奴が間違えたのか知らねえが人騒がせだぜ。これで飯がまずかったらお前をぶん殴ってたかもしれねえ」
ふんっ、と男が鼻を鳴らす。
「殴られてねえってことは、飯はうまかったんだな」
「おう、そこは俺が保障してやる。機会があったらお前も行ってみな」
「そうだな、今度行かせてもらうとしよう。それじゃ、詫び代わりってわけじゃないが、いいこと教えてやるよ」
友人はそう言うと、猫背になりながら小さく手招きをする。
「おいおい、またかよ。もう人魚は腹いっぱいだぞ」
「まあ聞けって。裏通りにある小さな煙草屋があるだろ? あの向かいに小さな蕎麦屋があるんだ」
「ああ、それなら知ってるぜ。ありゃ店構えがよくねえな、一度も入ったことがねえよ」
男は顔をしかめると、右手を顔の前で振った。
「だろ、俺もそう思う。だけどな、あそこの蕎麦の具にはなんと……」
「なんと……?」
「なんと……龍の肉が使われてるらしいんだ」
「龍だと?」
「ああ、龍だ」
「お前、本当にそれを信じてるのか?」
男がため息混じりに言う。
「そんな顔すんなよ。信じるも何も所詮噂だろ。それに、実際に足を運んでみたからこそ、この間の小料理屋もうまいことが分かったんだろ?」
「ふうむ、それは一理あるな」
男はあごに手を当てながら考えると、
「よし、それならもう一度試してみようじゃないか。そこの蕎麦屋なら場所も知ってるし、ちょっくら行ってくるか」
「このたびは真にありがとうございます」
長屋の一室。玄関先で、一人の初老の男が深々と頭を下げる。件の人魚騒動のあった小料理屋の男だ。
「そこまでかしこまられても困る。こっちも仕事だからな」
友人は初老の男の顔を上げさせると、話を切り出した。
「それで、さっそくだが効果のほどはどうだった?」
「ええ、今月だけでも客足は三倍以上に増えました。そのうちのほとんどのお客様が、初めての来店時には人魚をご注文されていきました」
「それは良かった。互いにな」
友人がにやりと口元を緩める。
「はい。そうしますと、こちらが今月の分となっております。お納めください」
「確かに」
友人は初老の男から金を受け取ると、嬉しそうに懐へとしまった。
「それでは私はこれで失礼いたします」
「ご足労いただいてすまなかったな。これからの客足にも期待していてくれ」
初老の男性が去ると、友人は満足気に横になった。
「いやあ、しかしよい仕事を思い付いたものだ。噂を流すだけで金が舞い込むとはな。俺のおかげで来た客だとすぐに分かるもんだから、噂の効果も把握できる。実に我ながら冴えているな」
懐から金を取り出し、にやつきながら眺めだす。
「さて、あの寿司屋はどうなったかな? あれは寿司の名前もなかなかのもんだと思うが……。うまく定着すれば――」
「おーい。ここにいるのかー」
男の声が聞こえると同時に引き戸が開く。
友人は慌てて金を懐にしまうと、跳ね起きて男のほうを向いた。
「なんだなんだ、こんな真昼間から寝腐りやがって」
「こんな天気のいい日にこそ、横になるのが贅沢ってもんよ。それよりどうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもあるか。龍の肉を使ってるって蕎麦屋。ありゃただのアナゴじゃねえか。まだ人魚とカレイの方がトンチがきいてらあ」
「なんだ、また嘘だったってことか。こうなっちゃ仕方ねえ、とっておきを教えてやるよ」
「とっておき?」
「ああ最近できた寿司屋なんだがな……」
友人は勿体ぶるように間を置くと、
「その寿司屋では……なんと河童が食えるらしい」