11. 悲劇の手触り
仄暗い雪道を抜けると、そこには見たことのない風景がひろがっていた。
まばたきを忘れた義眼のような水銀灯の列がどこまでも続いていて、青白く冷たい光がぼんやりと雪道を照らしている。たばこの自動販売機と抹茶色の公衆電話機、それに民家の窓から漏れる暖かみのある蜜柑色の光が、冬の夜らしい情景を生みだしている。
「冬乃ちゃん」
「はい」
「なにか考えごと?」
「考えごとってわけでは・・・ ないんですけど・・・」
「ぼくでよければ話をきくよ」
「なんていうか・・・」
「成瀬さんの眼を見ていると・・・」
「時々、すごく悲しい気持ちになるんです」
「・・・」
「うまく言えないんですけど・・・」
「・・・」
「こんなに近くにいるのに・・・」
「どこか、遠くにいるような感じがして・・・」
「・・・」
「成瀬さん?」
「ああ、きいてるよ」
「私・・・ 心配なんです」
「冬乃ちゃん、それは考えすぎだよ」
「そんなことはありません」
「いやいや、考えすぎだって」
「それなら・・・」
「私がいま感じている、この不安のような気持ちは何なんですか?」
「ぼくに聞かれても・・・」
「ただの気のせいだと・・・ そう言いたいのですか?」
「そんなの知らないよ」
と彼は月の背を眺めながら呟くように言った。
空中でゆるやかにゆれ動く彼の吐息が、わたしには黒い煙のような侘しいものに感じられた。
「そうですか・・・」
「すみません、急に変なこと言っちゃって・・・」
「平気だよ。 気にしないで」
「・・・はい」
わたしは、彼の横顔を正視しながら力なく返事した。まるでさっきとは別人のような冷たい態度に驚いてしまい、どうしてよいか分からなくなってしまった。
彼は両手を上着のポケットにいれたまま、暗い雪道をたんたんと歩いている。わたしは、そのあとに残された不揃いの足跡を追うように懸命に両足を動かした。
なにも話さないまま、ただ時間だけが深夜の静けさのなかに溶けていく。
さっきまでの感じのいい雰囲気はいったいどこへいってしまったのだろう。彼とのわずか数メートルの距離が今では途方もなく遠いように感じられ、このままひと言も話さずにさよならするのかと思うと、急に胸がどきどきして息苦しくなった。
それにしても。この冬の雨のように冷たい沈黙の原因は一体なにかしら。
気に障るようなことを言ってしまったのなら謝らないと。彼のことを想うばかり、触れてはいけない何かに思わずしらず触れてしまったのかもしれない。
とにもかくにも、この悲しげな雰囲気をどうにかして変えないと。
それに、もうあまり時間がない。話さなきゃ、なんでもいいから話さないと。
「あの・・・」
「ん?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。 冬乃ちゃんと話ができて嬉しかったよ」
「わたしもです。 成瀬さんにお会いできてよかったです」
「いや、そう真剣に言われると・・・」
「なんか照れるな」
「すみません・・・」
「でも、本心なんですよ」
「ありがとう。 やっぱり、冬乃ちゃんは優しいね」
「いえ、そんな・・・」
「そういえば、冬乃ちゃんの家、このあたりなの?」
「はい、もうすぐそこです」
「見えますか?」
そう言いながら、二階にある自分の部屋のベランダあたりを指でさし示した。
「ああ、見えるよ。 自転車が二台とめてある家だね」
「はい、わたしと母の自転車です」
「なるほど。 それにしても立派な家だな・・・」
「うちとは大違いだよ」
「実は、去年の春に建てかえたばかりなんです」
彼はインターホンの前で足をとめ、とても興味深そうに家を見上げている。
「成瀬さん」
「ん?」
「帰り道・・・ わかりますか?」
「んん・・・ どっちだっけ」
「そこの道を右へ曲がって、しばらく道なりに進むと、ちょうどアゲハの裏通りにでます」
「なるほど。 意外とわかりやすいね」
「はい」
「ここからだと、だいたい二十分くらいで着くと思います」
「なんとか帰れそうだな」
そう言うと、彼はポケットから携帯を取りだし、時間を確認してまたすぐポケットにしまった。このあと何か予定でもあるんですか。とはきけずに、わたしは素直に
「すみません、こんなに遅くなってしまって・・・」
と彼に謝った。
「ぼくなら全然平気だよ」
「それより、冬乃ちゃんのご両親はいつも帰りが遅いの? こんなに広い家でひとりっていうのも、なんだか落ち着かない感じがするんだけど・・・」
「普段はもっと早いんですけど先週くらいから急に帰りが遅くなりはじめて、わたしが寝ている時に帰ってきて朝起きる頃にはもう二人とも会社に出かけちゃってて・・・」
「最近は、ほとんどわたしひとりで住んでいるような感じです」
「そうなんだ・・・」
「ひとりで寂しくない?」
「寂しいっていう感情よりも・・・ どちらかといえば怖いです」
「怖い?」
「はい。 なんていうか、ひとりで本を読んでる時とか、お風呂に入っている時とか急に恐ろしく感じる時があるんです。 成瀬さん、そういう経験ありませんか?」
「んん・・・ ある。 たしかにあるね」
「そういう時って、どうしていますか?」
「そうだな・・・」
「自分にとって、一番落ち着く空間から出ないようにする。かな」
「それ、いいですね。 わたしもやってみます」
「それでもだめなら、あとはテレビをつけたまま寝るしかないな」
「たしかに、寝てしまうのが一番ですね」
「うん、そうだね・・・」
彼は、ゆっくりと頷いてそのまま口を閉じてしまった。その眼はなにかを見ているというよりも、ただあいているだけという感じで、わたしには彼がなにを考えているのか全然わからなかった。
ただ、そのどこか遠くを見つめるような彼の瞳を見ていると、自分でもなぜだかわからないけれど胸が痛いくらいにどきどきして、とても悲しい気持ちになってしまう。もしもそれが許されるのなら、彼を両腕で優しく抱きしめて胸の内にある痛みを分かち合いたいとさえ思う・・・
「冬乃ちゃん」
「はい?」
「その・・・ なんていうか」
「さっきはごめんね」
「いえ、そんな・・・」
「わたしの方こそ、成瀬さんを傷つけるようなことを言ってしまって・・・」
「いや、冬乃ちゃんは悪くないんだよ」
「わたしが悪いんです・・・」
「違うんだよ、そうじゃないんだ」
「ぼくは・・・ 冬乃ちゃんが感じたとおりの人間なんだよ」
「・・・」
「自分のなかで・・・ まだ整理ができていないことがあるんだ」
「・・・」
「ぼくは・・・ ぼくはたぶん、きみを傷つけてしまう・・・」
「そんな・・・」
「かなしいこと・・・ 言わないでください」
「事実なんだ。 きみを・・・ きみを悲しませたくない」
「いいんです」
「成瀬さん、わたしなら大丈夫です」
「・・・」
「だから・・・ その、もしよければ・・・」
「やめよう」
「もう、終わりにしよう」
「成瀬さん・・・」
「ごめん・・・ もう、行くね」
「・・・」
わたしはなにも言えなかった。ただ黙って顔を下に向け、雪道を歩く彼の靴音がだんだん遠く小さくなっていくのを乾いた心できいていた。家の前で動かず立ったまま、こみあげてくる悲しみと泪をこらえながら、首をすくめて歩く彼の寂しげな後ろ姿を見つづけた。
おわりにしよう。おわりにしよう。おわりに・・・
わたしは塀にもたれかかり月影に照らされた彼の足跡を眺めながら、えも言われぬ感情が渦のようになって心の奥底に集まってくるのを朧げに感じていた。