0.prologue
変化はゆっくりと進む。
それは変化している対象自身が気付けないほどにそろそろと、てくてくと、ひたひたと、まるで対象に気付かせないように警戒しているかの如く、緩慢に遅純を重ねたような鈍足で、それでいて真っ直ぐに、一心不乱に、確実と正確をかけたような堅実さで、ゆっくりと、しっかりと、浸透し変わらせていく。
ま、そんなのは、で? っていう話だ。
どんなに巨大な変化でもその速度が緩慢な限り、恐れるに足りない。
何故なら、万物には“慣れ”という最強の武器が具わっているのである。それが如実に現れるのが生物、その場合“環境適応能力”とでも言い換えようか。とにかく、その慣れという武器が有れば、如何なる強大な変化でも、過ぎ去った後、ああ、そういえば変わったなぁ、ってな程度である。
そんな当たり前な変化なんてどうでもいい。
―――問題は、“異化”だ。
変わる、ではなく、“異なる”。一見大差ないように思えるこの双方だが、その実、まったくの別物だ。
それは異化している対象自体が気付けないほどにパッと、あるいはババッと、あるいはシュッと、迅速に神速を重ねたような俊足で、それは真っ直ぐとか一心不乱とか、そんな順道の概念が一切関与できない速度で、対象を侵蝕し、異ならせる。
そう、変化に比べて、異化は速い。電光石火や疾風迅雷なんて大仰な表現でも、まだまだ足りない。それは瞬く間もないほど一瞬、刹那と言っても多過ぎなぐらいの瞬間。
どんなに強力な武器でも振るう暇が無ければ使い物にならないのと同じように、それにはもはや慣れなんてモノは通用しない。
そして、対象は無抵抗、無意識に異化を受け入れ、あぁッ、ヤバイ、自分は異なってしまった! と自覚するのである。
「……面倒だなぁー」
そして俺は今まさに、その異化してしまった人間が住まうらしい一軒家の前に、独り佇んでいた。
まったく、おつかい感覚でこんな仕事をさせるなんて、楓彌さんは俺に死んで欲しいのではなかろうか、と本気で訝しんでいる今日この頃。
楓彌さん曰く、『たぶん前のと同じモノだ。アレはたぶん直接身体に接触しないと発動しないタイプだから、もしもの時でもお前一人で大丈夫だろう。たぶん』だそうだ。
たぶんが三つも入った文章なんて誰が信用できるというのか。
「ま、ヤルしかないんだけど」
これも仕事だ。食っていくためには選り好みなんかしてられない。
ジャケットのポケットに忍ばせた一匹の得物を確認し、適当で即席な覚悟を決めて、俺は正面のドアノブに手を掛けた。
●――――――
昼とも夕方とも言えない中途半端な頃合。
お気に入りのソファーの上で、僕は三度寝からようやく目覚めた。
正面の最近父さんが奮発して購入したプラズマテレビでは、同じく父さんが流行りに流され購入した人気シリーズの北米ドラマDVDがメニュー画面で煌々と停止している。モノは試しにと観てみたのだが、いつの間にか寝入ってしまった所から察するに、僕的には微妙な内容だったのだろう。確かに展開のテンポは悪くなかったし、ジャックがどうなったか気になる所ではあるが、まぁいい、暇はある、いつでも観れるさ。
とりあえず涎を拭い、立ち上がり、伸びをする。無理な体勢での睡眠に節々が文句を上げた。
関節が軋む快感に浸りながらキッチンの方に向かって、
「母さーん。朝飯あるー?」
いやもう昼飯か、と時刻を思い出し訂正する。が……返事がない。
「あぁ、そうか。まったく」
ただの屍のようだ、だ。
またやってしまった。この独り団欒も何回目になるかわからない。我ながら間の抜けた話だ。あんな事をしておいて、今だに日常のやり取りで培った癖が抜けないなんて。慣れというのは恐ろしい。
僕があんな事をしたあの日から今日まで、丸三日が経過している。その間ずっと我が家でくつろいでいるにも関わらず、期待している来客は未だ訪れない。
「日本の警察は優秀って漫画に書いてあったけど、あれは嘘だね……」
ジャックさんの有能ぶりと比較し、ひとりごちりながら、黒い物体を跨ぎ、キッチンに向かう。
冷蔵庫を漁り、適当な昼食を見繕って、テーブルに座る。
スポーツ飲料を啜って、食パンをかじりながら、
「ふむ」
そこいらに転がった黒く焦げた人型に目をやる。
リビングに一つ、僕の居るキッチンに一つ、二階にも一つ同じ物があるはずだ。
僕はもうこの異臭に慣れたけど、そろそろご近所さんから苦情が上がってもおかしくないだろう。ファブリーズでどうにかなる臭いじゃないし、どこかに埋めた方がいいのかもしれない。
「……でも、めんどくさいなぁ」
そうだ。苦情が来たって、我が家にはもう気にする人間が居ない。
僕は無論どうでもいいし。こいつらはどうせもう動かないんだし。者から物に成り下がったモノは世間体なんて気にしないだろう。
「………」
しかし、不思議だ。
あんな所業をしたのに、僕にはあれがない。えーと、あれは何て言うんだっけ?
部活のムカつく先輩を燃やしたのに、
仲の良い同級生を燃やしたのに、
可愛いツンデレ女子マネージャーに乱暴して燃やしたのに、
部室に居た人間を全て燃やし尽くしたのに、
家に帰って、母さん、父さん、慎吾も同じように燃やした、にも関わらず―――
そうだ、“罪悪感”。
テニス部の仲間を殺戮して、我が家の家族を皆殺したにも関わらず、僕には罪悪感というモノが一切ない。何人殺したかなんて覚えていなし、そもそも数えていない。最上級の罪を犯した、それは自覚してる。しかし、不思議と罪悪感とか自責の念とか、そういった類いの感情が皆無なのだ。頭は至って正常で冷静、感情だってある(実際に昨日ドラマの感動シーンで涙した)。なのに罪を感じる部位だけがごっそりと機能不全に陥っている、そんな感覚。
この三日間、一人で寂しく性欲を解消する度に、可愛いマネージャーは殺さずに連れ帰って雌奴隷にすればよかったなぁ、なあんて外道に過ぎる後悔をしてるぐらいだ。
なぜだろう、力が宿った瞬間、今までの全てがどうでもよくなって、とにかく無性にその新しい力の機能を試したくなったんだ。だから近場に居合わせた人間で機能を試した。
「あっ、そうだ」
そこで自分に宿った力の機能を思い出した。
“見えない焔”。
右手に持った冷たい食パンを睨め付け、むむむむむー、と熱を込める。
火は出ない、僕の右手もまったく熱くない、それなのに、
「ははっ」
一瞬で食パンには美味しそうな焦げ色が付いた。ホカホカな湯気まで上がるトーストの出来上がりだ。
そのまま調子に乗って力を込め過ぎていたら、食パンは、そこに転がってる母さんだった物と同じ様に、黒い炭になってしまった。
“不可視の劫火”とでも名付けようか。
「……ちょっとカッコいいかも」
独りでほくそ笑み、もう一枚の食パンには加減した熱を込めつつ、冷蔵庫からマーガリンを取り出そうと立ち上がった。
その時、
「うわっ、臭っ! なにこの家、焦げ臭っ!」
「――!」
玄関の方から声が聞こえた。
僕が予想していた来客、つまり警官だろうか?
しかし、それにしてもおかしい。警官がインターホンも押さずに大声を発しながら、殺人犯の住まう一軒家に侵入してくるだろうか? いや、そうだ。おかしいなんて事を言い出したら、そもそも僕が三日間も我が家でくつろげていたこと自体がおかしいだろう。
「あーもう、くっせえなあ。なんだってんだよ、もう」
どたどたどたどた。
僕が色々と混乱している今も、その声は臭い臭いと連呼しながら足音を立てて近付いてくる。
「―――……」
その、なんの遠慮も躊躇いもない侵入者の気配が本能的な恐怖を煽る。
隠れろ、と微かな理性が声を上げるが、下手に動いて物音をたてるのが怖い。動かない身体の眼球だけを動かして、曇りガラスの向こうを凝視する。
そして、ガラスの向こう、モザイクの様な影が通り過ぎ――かけて立ち止まり、
「うあー、ここが一等臭いな」
とドアが開いた。
「………」
現れたのは、やはり明らかに警察の人間ではなく、
一人の青年だった。
華奢な身体に気持ち高めな背丈、黒いシャツの上にブラウンのウィンドブレイカーを羽織り、下には濃紺のジーンズを穿いている。先天性なものと思われる若干茶が混じった長めな髪に、淡白でそこそこ整った顔立ち。ぱっと見、よく居そうな大学生といった風貌なのだが、大きな瞳の下の薄暗い隈が顔全体に負の印象を持たせていた。
その人は呆ける僕を、まじまじと一頻り観察して、片手を動かした。
「!」
それが何らかの攻撃の動作だと感じた僕は身構える、が、
「お邪魔してます」
「……え?」
それは片手を挙げての、挨拶だった。
「あ、は、はい、どうも……」
挨拶には挨拶で応える。
一般的な礼儀として僕も軽く会釈してしまったが、待て待て、挨拶なんかしてる場合じゃない。僕は勿論、この人も。だって、僕のすぐ後ろに転がっている黒く焦げた物体は、どう控え目に見ても、焼け終った人間。
この人にも当然コレが見えているだろうに、実際に首を伸ばして窺っているのに、
「……ビンゴ」
なぜ、無表情で、無感情で、そんな事を呟く?
最初に感じた本能的な恐怖を確信に変え、僕が一歩下がった。矢先、
「それ、ヤったの君?」
その人が問うてきた。
「………」
違います、と答えるべきなのはわかっているが、この状況でトースト片手に否定しても説得力がない気がする。それに何より、この人の台詞には問いというより、確信している事を確認しているだけのような響きがあった。
僕が答えに迷っていると、
「いやいや、言わずもがなだよね。でも安心していい。別に君を捕まえに来たわけじゃないから」
「え?」
この人が警官じゃないのはわかっていたし、普通じゃないのもわかったけど、だったら、
「じゃあ、何しに……?」
来たんですか、と消え入るような声で訊く。
それに対し、青年はポケットに手を突っ込んで、
「話し合いに来たんだよ」と言い、一拍置いて、続ける。「まず、君が一番気になってるであろう懸案事項を解消しておくけど、君が起こした一連の事件、それは世間の誰も気付いてないから。安心していい」
「……は?」
僕が今一番気になっているのは、あなたは誰で何の用ですか? という事なのだが。それよりも、それはどういう意味だろう? あんな事をして、誰も気付かないはずがないじゃないか。
「テレビ観てた? そんな事件まったく扱ってなかっただろ? ってことは警察は勿論、ご近所さんも、被害者の知人すらも、まったく誰も気付いてないってこと。知ってるのは君と俺と俺の上司、その数人だけ」
「………」
僕の理解はまったく追いつかないが、その被害者にはテニス部の仲間も含まれているのだろうか? と、なんとなくそんな事を思った。それを察したのか、
「ああ、中学校の事件も含めて、ね」
と本当についでのように付け足す青年。
「……どうして、ですか?」
どうしてそんな芸当が出来るんですか? と恐る恐る訊いてみた。
すると、
「君のと同じモンだよ。機能は違うけどね」
青年は言う。
「宿ったんならわかるだろ? ソレを持ってるのは君だけじゃない。色んなのがあるんだよ。例えば、事件を揉み消す機能とか、触れた物をなんでも燃やす機能とかね」
「―――」
僕は絶句してしまった。
それはこの人が僕の力を知っていた事に対してではない。
思い出したんだ。
そう、この人の言う通り、僕に不可視の劫火が宿った瞬間、罪悪感が無くなったと同時、ある情報が頭に流れ込んできた。
力の使い方、その機能。
他の力の存在。
そして、ソシテ――
「名を“異能”という。……もっとも、まったくの正体不明、出所不明、荒唐無稽の力だから、その名前だって誰かさんが適当に付けた名前だと思うけど」
そんなの訊いてない。名前なんてドウデモイイ。
僕が、ぼくガ、知りたいのハ、
「……アナタは、ドウシテ、そんな事ヲ、知ってルンデスカ?」
――――――●
目の前で、鷲のように両手の指を開く少年を見ながら、
「これだよこれだよ。またもや交渉は大失敗だよ……」
俺は嘆息した。くそめんどくさいったりゃありゃしない。
じりじりと穏やかだった雰囲気が殺気に化ける。否、雰囲気だけでなく、実際に少年の両の手の先からは、ジリジリと埃の焼ける音がする。
まだこちらの手の内を晒してないのに俺の正体に感づくとは、なかなか回転の速い少年だ。いや、この状況だ。普通に考えれば、“アレも異能を持っている”、と気取られてしまうか。
そして、
「異能同士は殺し合う、か。まったく厄介な特性だよ。なあ、少年」
途端、俺のその言葉を答えと受け取ったのか、少年は踏み切っていた。
「殺す。コ、ロ、ス。殺さなくっちゃッアァァァアァ!」
異能の特性、異能同士は殺し合う。それの理に適った奇声を発しつつ、右手を振り被って、一気に距離を詰めてくる少年。
熱され揺れる大気と燃やされ煙と化す埃が、その手の軌道に残る。
射程距離は手が届く範囲。
どうやら楓彌さんの『たぶん』を信じて一歩も部屋に入らなかったのは正解だったようだ。もし近付いていたらこの間に俺もそこに転がってる人間と同様に焦げ焦げだったろう。
俺は身を乗り出し、開けっ放しのドアノブを引っ掴み、
「焦んなって」
思い切りドアを閉めて、玄関にうおーと無様に猛ダッシュ。玄関のドアを開けっ放ち、退路を確保して、振り返った。
キッチンのドアノブが微妙に動いて、止まる。
「―――ーーーーッ! ーッ!」
その中からは不明瞭な罵声が聞こえてきた。
バカめ。おそらくドアを開けようとしたが、力の加減を間違えて、ドアノブを溶かしてしまったのだろう。
「ふふふ、青いな。狙い通りだ」
なぁんて、不敵な台詞をのたまいながら、俺は迎撃の準備を整える。と言っても、ポケットから小さなビニール袋を取り出し、中の武器はまだ生きてるな、と確認しただけだ。
刹那。
ボフゥン、と音を立てて、キッチンのドアが炎もないのに燃え崩れ、そこから転がるように少年が飛び出してきた。
「待ってッ、待ってよッオォ!」
ドタバタドタバタ、と、
マトモな思慮と一緒に人間の走り方まで欠いたのか、四速歩行に先祖帰りしたように、両手両足を振り回しながら、
「ぼくは、殺さなくっちゃッ」
禁断症状を起こした薬物中毒者のような、はたまた蜘蛛の糸に手を伸ばす亡者のような、とにかく必死で何かに縋るような表情で、
「ぼくハッ、ぼくらはッ、殺し合わなくっちゃ、いけないんだよネぇエェェェ!?」
少年は駆けて来る。
殺し合わなくちゃいけない、か。
まったく、この少年の発言はいちいち実に“異能者”だ。いけないんだよねえぇ!? と一応疑問文になっている辺りが最高にそれっぽい。しかし、残念ながらそんな異能者と交渉する余地はないし、そうなればもう用もない。お別れの時間です。
「ヘイ、少年」
数メートルに迫った少年に向け、右手のビニール袋をヒラヒラと、闘牛士よろしく晒す。
少年の狼狽っぷりから、視認してくれるかどうか若干不安だったが、俺は知っている。こんな風に物を示されて注視しない生物はいない。少年も然り、駆けながらも眼球で透明なビニール袋、その中身を視認してくれた。
そして、それを俺は確認して、
●――――――
僕の中の何かが命じる。
――――コロセコロセコロセコロセ。
僕の奥で何かが急く。
―――コロさなきゃコロさなきゃコロさなきゃ。
僕の手が視えない焔でゆらゆら歪む。
――アレも力を持っている。僕と同類。だったら、コロサナケレバナラナイッ。
身体も精神も、最初に不可視の劫火が宿った時のような、テニス部と家族を殺戮した時のような、その不思議な衝動に突き動かされて、
僕は目の前の青年に向かってひたすら駆けた。その時、
「ヘイ、少年」
青年が、右手に持った何かをヒラヒラと、これ見よがしに振っている。
なんだアレは?
ビニール袋、その中を所狭しと動き回っているのは……黒い、虫? 一匹のゴミムシ?
なんだソレは?
いや、そんなのドウデモイイ。今はとにかく、
「燃ォエ死ネエぇエェぇ!」
不可視の劫火を掌に乗せ、両の手を青年の肩口に目掛けて突き出した――――その瞬間。
青年の手元が動いた。
さっきの虫を潰したのだ。そして、その死骸になりかけたムシをまた僕に見せ付けて……?
途端、
「―――――――――あ」
ゾクン、と。
全身の毛穴から魂が抜け出るような悪寒を覚え、
「あばよ少年」
僕は、
「恨みはないが」
青年の虚を湛えるような声を聴きながら、
「死んでもらった」
ぼくの生命が閉じるのを感じた。
――――――●
生命の抜け殻、つまり物体と化した少年を見下ろしながら、
「あちゃー」
俺は頭を抱えた。
いや、だっていきなりだったし、ヤらなきゃ殺られてたし、正当防衛だよねこれ。だいたいこんな連中相手に交渉もクソもない。前提からしてこの仕事には無理があるのだ。
「……いや、実を言うと今日は真面目に交渉する気もなかったんだけどね。欲しいゲームの発売日だったし」
俺は誰に言うでもなく死体に向けて白状し、めんごと舌を出してから、家を出て、玄関のドアを閉めた。
外の臭くない空気を肺に叩き込み、軽く伸びをして、ビニール袋の中身のゴミムシ開放してやった。ぽとりと落ち、触覚をひくつかせ、カサカサと宛てもなく何処かへ向かう学名ホシボシゴミムシを見送る。
「お疲れさん、殺して悪かったな」
と労い、
俺は贔屓にしてるゲームショップへと向かう事にした。