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夏の楔  作者: 夏路殻巣
6/21

戻れない


「隆弘!電話よ」


 昼に食べたそうめんに満腹になった隆弘が、扇風機の心地よい風にうつらうつらとしていた時、突然の電話が隆弘を呼んだ。

母親の大声に浅い眠りから突然引っ張り上げられた隆弘は、けだるそうに目を擦った。

「……なに……誰から?」

「悠君のお母さんよ。——あんた何かしたんじゃないでしょうね」


そう訝し気に言った母親の言葉よりも、隆弘は『悠』という名前に胸がざわついた。


 あの日——あの日の悠はまるで死人の様だった。

一言も言葉を発しないまま歩く悠を、隆弘はまるで人形を抱るようにして悠の家に送り届けた。

「……あれ?もう終わったの?」

予想外に早い帰宅に、不思議に思った悠の母親が声を掛けたが、悠は黙ったままその横を通り過ぎ、階段を昇って自室に入ってしまった。

「どうしたのかしら。——あ、送ってくれてありがとうね」

首をかしげながらも、悠の母親はにっこりとそう言って扉を閉めた。

———そしてそんな別れ方をしてから、悠とは音信不通のまま三日が過ぎていた。


 「……はい」

電話の横に置かれた受話器を耳に寄せ、隆弘は恐る恐る電話に出た。

「ああ、隆弘君?急に電話しちゃってごめんね。悠のお母さんなんだけど」

悠の母親の声は、何故だか小声だった。

「悠の様子が変なの。多分隆弘君と駅前のヒーローショーに行った日からだと思うんだけど……」

いつかそう聞かれる事はわかっていた。

だが何と説明すればいいのだろう。悠が酷いショック状態だったのはわかったが、一体何がそうさせたのか。

「……僕あの日待ち合わせに遅刻して……僕もよくわからないんです」

「……そう」

うまく説明出来ない心苦しさを感じながらも、隆弘は思った程問いつめられなかった事にほっとしていた。

その時隆弘は、小声で話す悠の母親の声に、微かに別の声が混じっている事に気が付いた。

『声』と言うより、ひゅーひゅーというような——『音』?

「……悠?」

直感でそう思った。掠れるような『音』

「あ、ごめんね。……そうなの、悠、あれから赤ちゃんみたいに私から離れなくなっちゃって。

今、隣で寝ているんだけど……あれ以来ずっと熱が高くってね、具合を聞こうにも何にも喋らないし……」

(悠——そばにいるんだ)

隆弘は不安そうに言う悠の母親の声を聞きながらも、そう思って少しほっとしていた。

 

 悠は、隣同士で一緒に生まれて、一緒に成長して来た幼馴染みだった。

何かに付けて、どんな些細な事でもよく顔を合わせ、互いの家を行き来する仲だった。

それがこの三日間、二人の間は静まり返っていた。

悠からの直接の電話ではなかったが、受話器越しに気配が感じられ、それが嬉しかった。

「あの……熱が下がったらお見舞いに行ってもいいですか?」

「ええ、もちろん。隆弘君が来てくれればきっと悠も元気になると思うわ」


——またいつもと同じ様に会えるだろうか。

そんな不安が一瞬脳裏を掠めたが、それよりも、あれ以来何度も浮かぶ悠の、あの表情を早く打ち消してしまいたかった。

一体何があったのか。それを聞いてしまえば悠の傷を再び抉る事になるだろう。

もう何があったかなんてもうどうでも良かった。

(あんなの僕の知ってる明るくて、優しい悠じゃない)

そうだ。ただ——いつもの悠に戻ってくれれば。

「あの、今度僕から電話します」


 そう言って隆弘は静かに受話器を置いた。

開け放たれた窓から、楽しそうにはしゃぐ近所の幼い子供の声が聞こえる。

(……ああ違うな)

いつもならそんな事は思った事はなかった。

隆弘はゆっくりと電話脇の階段に腰を下ろした。

そして冷たい壁に頭をもたせかけながら、もうあの子達と同じ夏は送れない、と思った。



「桂……ここに夕飯置いておくから……」


扉の向こうから宗一郎の声がした。

返事をせず黙っていると、少し間をおいてから廊下にトレイを置く音がし、その後ゆっくりと階段を降りて行く足音が遠離っていった。

 電気を付けていない部屋の中は真っ暗だった。

目を閉じても、目を開けても風景は変わらない。

手の中に持った一枚の写真の表面を指先で触れながら、桂一郎は必死に思い出していた。


——夏の日射しの中、水しぶきに目を細めながらはしゃぐ笑顔。

浅黒く日焼けした手足。

生き生きと、生命力を感じる伸びやかな、発達途上の筋肉——。


 だがどうしても、あの事後の現場と悠の顔が焼き付いて離れなかった。

あまりのショックに瞳孔が開き、血の気を失った肌。

急激な血圧の低下に、開いたままの唇は乾き、赤みを失っていった。

どんなに以前の輝きを思い出そうとしても、あの時の表情がそれを打ち消した。

「……なんで……ッ」

桂一郎は思わず声を荒げ、手の中の写真を握り潰した。

(———何故あの顔を見てしまったのだろう)

(あの顔さえ見なければ、きっと——もっと自由に妄想を楽しめたはずなのに)

このまま、あの笑顔を思い出せなくなりそうな恐怖が、桂一郎を酷く不安定にさせていた。

撮りためて来た幾枚もの写真さえ、嘘の様に思えてしまいそうだった。

それと同時に桂一郎の中で、悠に対する興味が徐々に蒸発して行くような感覚があった。

(……あの笑顔はもう見れないのか?)

自分の中で何かが次々に死んでいく。

心地よかった、悠の輝くような生命の成長。

その全てが栓を抜いたプールの様に、物凄い勢いで流れ出ていく。

まるで自分が、悠に試練を与えた神に叩き落とされた気分だった。

「ち……っくしょう……っ笑えよ……ッ」

全身がもどかしい苛立たしさに震え、無意識の叫びが部屋中に響いた。

床に叩き付けた拳に、じわりと痛みが走った。


そしてその叫びと音は、隣の部屋まで響いた。

「——桂……」

薄い壁一つ隔てた隣の部屋。

無音の部屋の中で、宗一郎はベットの上で壁に寄り掛かりながら耳を澄ませていた。

中で暴れているのか、今度は弾けるようなガラスの割れる音が聞こえる。

心臓が圧縮されるような息苦しさに、宗一郎は眉をひそめた。

 

 勉強にスポーツ。全てにおいて優秀だった桂一郎を宗一郎は自慢に思っていた。

そして自身もそれに競うように勉強に励み、スポーツは苦手だったが、勉強においては桂一郎と肩を並べるくらい優秀になっていた。

 そんな桂一郎が一気に学業への興味を失い、学校へも行かず突然部屋に閉じ籠ったのは、一体何が切っ掛けだっただろうか。

……だがそんな事は宗一郎にとって、何の意味も持たなかった。

切っ掛けを知った所で、多分桂一郎は戻りはしない。


 さっきリヴィングに降りた時、母親と父親が何か話していた。

「夏休みだって言うのに、今日担任の先生から電話があって、……このままの出席日数だと卒業も危ないって——」

こんな話し合いは何度となく見て来ていた。

最初の頃は優しく説得、その内そんな奴は出て行けと強行手段に出て、結局その全ては桂一郎の引き蘢りを頑なにしただけだった。

「ああ……」

困った様に腕を組み、最適な答えを出せずにいる父親と、子供が引き籠りなんて恥ずかしいと、世間体を気にする母親——。


「……何で……桂——」

両手で顔を被いながら、そう呟くと、宗一郎は深く目を閉じた。


——深い溜め息が漏れる。



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