失ったもの
ビルの屋上に上がった桂一郎は、真っ白に照り返す太陽の光に目を細めながら柵の所まで歩くと、コンクリートの地面に膝を付き、首から下げた望遠カメラをゆっくりと構えた。
構える手の甲にじりじりと焼かれる感触を感じながら、桂一郎は向かい側にあるデパートをファインダーに捉えていた。
この日の為に購入した最新の望遠カメラは、望遠で一気に寄ると、一人一人の表情さえ写す事ができる。そのカメラで嘗めるように捜すのは、もちろん悠の姿だ。
ヒーローショーのイベントのせいで、デパートの前はいつもより混雑していた。
夏休みに入ったばかりと言う事もあり、子供連れの家族や、低学年の———悠の背格好に良く似た子供達が多く集まっている。その中から悠を見つけるのは至難の技の様にも思えたが、桂一郎にとってはそう難しい事ではなかった。
デパートの正面玄関前の、車道に面したポストの隣——そこには不安げに辺りをきょろきょろと見回す悠の姿があった。
——友達と待ち合わせでもしているのだろうか。
桂一郎はファインダーから目を離すと、腕時計で時間を確認した。
(10時半か……確かショーは午前11時からだったはず)
そろそろ中に入って席を確保しておきたい時間だが、どうやらその友人が待ち合わせに遅れているらしい。
レンズ越しにも悠の迷いや焦りが伝わって来る。
何度も時計を気にしながらデパートの屋上を見上げては、まだ幼さの残る丸い頬を膨らませ、溜め息を付く。——ライトブルーのTシャツからすらりと伸びる、程よい肉の付いた腕。
小さな腰を包む大きめのバミューダパンツと、その下に伸びる褐色の足——。
桂一郎は軽い興奮を感じながら、何度かシャッターを押した。
(……ん?)
その時、レンズの向こうに悠の不思議な動きを捉えた。
すぐそばで小さな子供が泣いている。……迷子だろうか。
それに気付いた悠が、人込みからその男の子を守るように道の端に男の子を寄せ、しゃがみ込んで——どうやら迷子の世話を焼き始めたようだ。
(おいおい、もうすぐショーが始まるって言うのに———)
面倒臭そうに小さく舌打ちすると、桂一郎はカメラを下ろし、立ち上がった。
(……っそれにしても今日は特別暑いな……)
じわりと首筋を流れる汗を手で拭いながら、桂一郎は真上から襲い掛かる太陽を見上げた。
外に出るのは随分と久し振りだった。
暗室の心地よさに慣れてしまったのか、軽いめまいさえ感じる。
けだるそうに入り口のドアの僅かな日陰に身体を寄せた桂一郎は、ゆっくりと座り込むと、胸ポケットからタバコを取り出し、一本くわえて火を付けた。
溜め息と共に吐き出した紫煙が太陽の光に消えてゆく。
(……こんな暑い中行列を作って並ぶ奴の気が知れないね)
雑踏のざわめきが落ち着くまで、取りあえずひと眠りしようと、桂一郎は目を閉じた。
「お母さんがいなくなっちゃったの?——君の名前は?」
「し……しょうた」
「いくつ?」
「……さんさい……」
人込みに混じってそのままわからなくなってしまいそうな程、その男の子は小さく見えた。
どれくらい泣いていたのだろう。悠が声を掛けた時には顔中、涙やら鼻水やらでめちゃくちゃだった。
「……じゃぁ僕がお母さんを捜して来てあげるよ。しょうた君はここで待っていて。——僕が来るまで動いちゃダメだよ」
もうショーは開演真近だ。
だが隆弘の姿はまだ見当たらない。——多分もう間に合わない。
いつまで経っても現れない隆弘のルーズさには腹が立ったが、目の前で泣いている男の子を放って自分だけショーを見に行く訳にもいかなかった。
悠はショーを諦め、ショウタの母親を捜す事に決めた。
「え……っお兄ちゃん行っちゃうの?」
その場を離れようとした悠に、しょうたが不安げに声を掛けた。
見ると小さな手が悠のシャツの裾を掴んでいた。
潤んだ大きな瞳が、『行かないで』と懇願している。
「あ……」
——悠は辺りを見回した。
(何か……何かしょうた君が安心して待っていられるような玩具があれば)
その時、人込みの向こうにふわふわと浮かぶ風船が目に入った。
(あ、ヒーローショーの風船)
「そうだ、しょうた君。ママとヒーローショーを見に来たんだよね。向こうで風船を配っているみたいだから貰って来てあげるよ」
「……風船?」
気分を高揚させる響きに、不安そうに沈んでいたしょうたの表情が一瞬で明るくなる。
「うん。すぐ戻るから——ちょっと待ってて」
しょうたの表情に安心した悠は、小走りに風船を貰いに行き、すぐに駆け戻った。
「……ね?早かったでしょ?」
差し出された赤い風船には、今子供達の中で大人気のヒーローが大きくプリントされていた。
悠の手からそれを受け取ったしょうたは、嬉しそうに頷いた。
「今……お母さんを捜して来てあげるから。絶対にここから動かないで待っててね」
悠はそう言うと、しょうたを柱の影の日陰に移動させ、何度か振り返りながらも、ゆっくりとその場を離れた。
「しょうた君のお母さ——ん。三歳のしょうた君のお母さんいませんか——」
ショーが始まったからなのか、先程よりもほんの少し見通しの良くなった人波に向かって、悠は歩きながら大声で叫んだ。
しかしその声に振り返る人や心配そうな視線を向ける人はいたが、母親だと言う人はなかなか現れなかった。
(……どうしよう)
待たせてあるしょうたの事を思うと、あまり離れる事は出来ない。
だからと言って時間をかける訳にもいかなかった。
(取りあえず一度戻ろうか……)——そう考え直した時だった。
「あの……」
そっと肩に触れられ、悠が振り向くと、そこには不安げに佇む30代くらいの女性が立っていた。
「あの……しょうたって——」
「あっしょうた君のお母さんですか?」
「あ……あの、三歳くらいの男の子なんですが……しょうたは一緒なんですか」
「ああ——良かったぁ。今デパートの正面玄関の柱の影で待っててもらってるんです。一緒に来て下さいっ」
しょうたの喜ぶ顔が浮かんだ。
悠は母親だと言うその女性の手を掴むと、急いで走り出した。
あまり離れていない。すぐにしょうたの元へ母親を会わせてあげられる。——はずだった。
キキィ——ッドンッ
「きゃぁぁあああ——ッ」
走るほんの少し先で突然、甲高い車のブレーキ音と女性の悲鳴が響いた。
「男の子がはねられたぞ——っ誰かッ救急車っ」
——びくっと、その瞬間に悠の身体は急ブレーキを掛けた様に固まり、動かなくなった。
嫌な予感に悠の心臓が一瞬で凍り付く。
握り潰されるような緊張感は全身に巡り、その身体を石のように硬直させた。
「——しょうたぁっ?」
突然悲鳴のような声を上げた、しょうたの母親らしい女性は、悠の手を乱暴に振り解くと、ざわめく人だかりの中へ駆け込んで行った。
そして、悠の心を引き裂くような2度目の悲鳴——。
「あれ——事故?」
遠くから聞こえて来るサイレンが、徐々に近付いて来る。
嫌な予感を感じた隆弘は、慌てて足を速めた。
遅刻の理由は寝坊だったのだが、随分と遅れてしまった事をすぐに悠に謝るつもりだった。
(まさか——悠が?)
辿り着いた、待ち合わせのポストの横には悠の姿はなかった。
その変わりに、ロータリーを囲む様にたくさんの人だかりが出来ていた。
「……何かあったんですか?」
恐る恐る、隆弘は人だかりから出て来たおじさんに声を掛けた。
「——ああ、事故だよ。……見た人が言うには、小さい男の子が風船を追いかけて急に車道に飛び出したらしい。……しかしあれは——どうかな。……即死だろうな」
「え……」
『死亡事故』と聞いて一瞬怖くなったが、どうやら悠の事ではないらしかった。
ショックはあったが、少しの安堵に押されて、隆弘はすぐに気持ちを切り替える事が出来た。
悠が野次馬と人込みを嫌う事を知っていたので、隆弘はそこ意外に視線を配せ、悠を捜した。
「あ……ッはる……」
視線の先に悠の姿を見つけた隆弘は、一瞬、大声でその名を呼び駆け付けようとした。
だが、それ所ではない、と本能がそれを止めた。
焼け付くような太陽の下、悠は真っ青な顔で立ち尽くしていた。
ロータリーの人だかりを見つめたまま、まるでそこだけ時間が止まっているように、その身体は微動だにしない。ただ、震えるような呼級だけが聞こえている。
「……悠……?」
自分がいない間に悠に何が起きたのかはわからなかった。だが、取りあえず悠の状態が最悪な事だけは確かだった。
声をかけるべきか迷ったが、隆弘はそっと近付き、その肩を抱いた。
「……帰ろう」
そう悠の耳元に囁くと、悠の意思なのか、無意識なのかわからないが、悠の足はふらりとよろめきながら、隆弘の誘導に素直に動いた。
突然の衝突音と悲鳴に青冷めたのは、悠だけではなかった。
飛び起きた桂一郎は、何かが起きた、と直感でカメラを構えた。
ロータリー中央に集まる人だかりの中に、血塗れの子供と悲鳴をあげる母親。
良く見ればその子供は、さっきまで悠が面倒を見ていた子供だった。
(——悠君……?)
桂一郎はざわめく予感に、慌てて望遠レンズを向け、悠の姿を捜した。
だが、ようやく見つけたそのファインダーの向こうには、今まで見た事もないような蒼白の悠の顔があった。
——悠に何があったのか。
それよりも桂一郎は、見た事もない悠の表情に胸が痛んだ。
そしてもう2度とあのはしゃぐような笑顔が見れないだろうと思った。