見てはいけないもの
水滴を浮かべたスチールの缶が、キッチンの小さなテーブルの上に水たまりをつくっている。
一時間前に買って冷蔵庫に仕舞っておいたはずなのに、一口飲んだだけで放置された缶ジュースは、すっかり温くなってしまっていた。
「……桂?」
外から帰って来てすぐに、宗一郎は頼まれていたジュースを冷蔵庫に入れ、、桂一郎に声を掛けた。確かに『わかった』と返事が聞こえた。
そのあと宗一郎はそのまま自室で見たかった映画を堪能していた訳だが、一時間後に部屋を出た宗一郎は、家中のあまりの静けさに違和感を感じていた。
両親が親戚の法事で出かけているのはわかっていた。
だが、桂一郎の気配がしないのだ。——何故こんなに静かなのだろう。
「……桂?部屋の中にいるのか?」
恐怖に似た奇妙な緊張感を感じながら、宗一郎は静かに桂一郎の部屋の前に立った。
部屋の扉には『絶対に入るな!!』の貼り紙。桂一郎が書いた赤文字。
二年前から突然『開かずの扉』になった宗一郎の部屋だった。
宗一郎に、強烈な拒否を訴えるその扉を開ける勇気はなかった。
開けてしまったら全ての繋がりを断ち切られそうな気さえする。
それだけ桂一郎の秘密主義は絶対的な威圧を持っていた。
「——宗?」
その時扉の奥から、桂一郎の声がぼそりと聞こえた。
「あ……なんだ。桂いたんだ」
「……いるさ。今日はまだ一度も外へは出ていないよ」
「いや……あんまり静かだから不安になっちゃってさ。部屋のクーラーつけてる?今日は暑いから……」
そう言った時、部屋の扉が小さく隙間をつくって開いた。
それは二日振りに見る兄の姿だった。
「……優しいな宗は。親父達は呆れてもう声さえ掛けないって言うのに……」
目の下に大きな隈を作って自虐的に笑ったその姿は、頬がこけ、無精髭を生やした自分だった。
「あ、……今夜の御飯どうする?母さん達いないから……」
宗一郎はその姿から目をそらすと、わざと関係ないような話題を振ってみた。
「……そんなの宗の好きなものを食べればいい。出前でも外へ食べに行っても——」
食事の話題に、桂一郎は面倒臭そうに眉間にしわを寄せながらそう言うと、片手でくしゃくしゃと髪を乱した。
「それより——」
気を取り直した様に顔を上げた桂一郎は、何故かにやりと笑みを浮かべて言った。
「……どうだった?悠君は喜んでいたか?」
「——ああ……悠君……」
そう呟くと、宗一郎は唇を結んで視線を薄暗い廊下の床に落とした。
「どうだったんだ。様子を見て来てくれたんだろう?」
突然声の調子が激しくなった桂一郎の様子に、宗一郎は一瞬恐怖を覚えた。
「——桂……」
あの部屋の奥に何があるのか——。
宗一郎は知っている。
だがそれを去年の冬に偶然見てしまった時から、宗一郎は桂一郎に捕われたまま、未だに動けずにいた。今更後悔しても仕方のない事を、その度に痛烈に思う。
『——見なければ良かった』と。
「……すごく喜んでいたよ。目をきらきらさせて桂にありがとうって……」
「そうか……喜んでくれたか」
桂一郎は満足そうに何度も頷くと、不意に顔を上げ、突然宗一郎の肩を掴んで身体を寄せて来た。
壁を背にした宗一郎に、同じくらいの身長、同じような体格、同じ顔が、重なるように近付く。
「——なに……?」
「わかっていると思うが、——悠君に俺の事をバラすなよ」
低く、冷めた響きが耳の奥に突き刺さる。
「……わかってるよ」
背筋に走る不安定な感覚に怯える。
目を背け、唇を噛むその様子に、宗一郎を恐怖で支配出来ている事を確認した桂一郎は、口の端を微かに歪め笑った。
「ああ。——お前は絶対に裏切らない」
うっとりとそう言った桂一郎は、突然宗一郎の手首をとり、握り潰すかのような握力で掴み上げた。
「い……ッ」
——『バラしたら殺す』二年前に血走った目でそう詰め寄られた事が甦る。
「……いいか宗。俺はいつでもお前と入れ替れるんだ。お前が裏切ったらお前に成り済ます事もできる。———忘れるなよ」
そう低い声で囁くと、桂一郎は掴んだ宗一郎の手を投げ捨てるように振り落とし、またうっすらと笑い、『——食事は勝手に喰ってくれ』と言い残し、再びあの部屋の中に姿を消した。
目の前から桂一郎がいなくなった途端、宗一郎のひざはがくんっと力を失い、その場にへたり込んだ。
桂一郎が発した圧が喉元まで込み上げ、目の前が暗くなりそうな感覚に、宗一郎は慌てて息を吸い、目を閉じた。
「……僕は動けない——」
そんな独り言を呟いてまた、宗一郎は目の前にあるこの部屋を覗いてしまった過去を、後悔した。