実感
風にゆらめく白いカーテン。
教室の机を照らす熱い光。
あと数日でやって来る夏休みに浮かれる楽しげな声。
「終業式までに少しずつ荷物を持って帰ってね」
授業の終わりを告げる鐘の音とともに、先生の大きな声が教室に響く。
もうすぐ最後の夏が来る。小学校最後の。
去年までなら、自分もこのざわめきの中で同じ様に浮かれていた。
長い夏休みを埋めるかの様に、大量に出される宿題。自由研究、プールの日程。
夏休みは忙しい。
それでも『夏休み』と言う開放的な響きは、不思議とそれを苦に感じさせなかった。
どこに行こう、何をしよう。楽しい、楽しい夏休み。
(…でも今は)
隆弘は笑い声の溢れる教室の中で、静かに白い光に反射する乾いた校庭を眺めた。
(時間が止まってしまったみたいだ)
クラスメイトが声明るく語る、間近に迫る未来への期待。
だがあの写真を見てしまった瞬間から、隆弘の中には重い影が付き纏って離れずにいた。
あの日。
自宅に戻った隆弘は、部屋に入るとすぐに扉の鍵を閉めた。
そして扉の前に立ったまま、ポケットの中で汗まみれに歪んだ手の平の中の塊を、震えながらゆっくりと引き抜いた。
(見たくない。このまま捨ててしまえばいい)
何度もそう思った。
だが得体の知れない恐怖がそれをさせなかった。
あの部屋で見たのは嘘だと、信じる為に何度も深呼吸をした。
午後の光にうっすらと影を落とす部屋の中で、隆弘はぎしぎしとこぶしを開く。
自分の呼吸が震えているのがわかる。
開いた手の平からくしゃくしゃに丸まった塊を取り出し、もう一度深呼吸をした。
(あの写真があるはずがない。あそこにいたのは俺と悠だけなんだから…)
きっと何かと見間違えたんだ。一瞬しか見なかったじゃないか。
そう自分に言い聞かせながら、隆弘は震える指先で少しずつその塊を開いていった。
確認する必要があった。
守ると決めたのだ。悠を守る為には確認しなければ。
見間違いならそれでいい。どうか見間違いであって欲しい。
そう何度も願ったが、震える指先でようやく広げた塊の中にあったのは、やはり蒼白の悠の顔だった。
「…どうした?元気ないじゃん隆弘」
「…あ」
ぼんやりと窓の外を眺める隆弘の目の前に突然現れたのは、クラスメイトの鈴木琢磨だった。
走り回っていたのか、息を切らして前髪を濡らす程汗だくだった。
「…琢磨」
「ぅあっちぃ…っなんだ今度はお前が元気ないのかよ。悠はすっかり元に戻ったのに」
そう言いながら、琢磨は教室の隅に視線を向けた。
そこには、以前の様に満面の笑みを浮かべて楽しげにクラスメイトと話す悠の姿があった。
「…ああ。俺もあんな悠の顔久し振りに見たよ。…本当に琢磨には感謝してる」
そう言いながら、その笑顔が宗一郎から提案された夏休みの計画への期待がそうさせているのだと思うと、少し胸が痛んだ。
(あの部屋にあの写真があったんだ)
その事実で一気に胸が苦しくなる。
「…で?お前は何で元気がないんだよ?何かあったなら…」
琢磨がそう言いかけた時だった。視界の端で悠が突然席を立ち、こちらに駆け寄って来るのが見えた。
「あっそうだ隆弘…っ」
「え…何?」
目を輝かせながら目の前に現れた悠に、思わず隆弘は座ったまま仰け反った。
「なぁ…この間宗兄から借りた星の写真集貸してよ」
「え…写真集って…」
思い出したくないキーワードに、一瞬声が詰まる。
「帰ってしばらくしたらやっぱりもう一度見たくなってさ、夕方頃に宗兄の家に借りに行ったんだ。そうしたらさっき隆弘が来て借りて行ったよって…」
「ああ…」
行き違ったのだ。と隆弘は思った。
あの写真を確認した後、迷ったあげく、隆弘はどこにも置き場所がない事に気がついた。
置き場所がない。いや、どこにも置きたくはなかった。
存在してはならない写真。もとに戻す事で消えてくれはしないかと。
叶うはずのない望みを信じて、隆弘は背筋を走る悪寒から逃げ出す様に家を飛び出した。
そして松原家の呼び鈴を鳴らし、星の写真集を貸して欲しいと頼んだ。
宗一郎は、いいとも。好きなだけ眺めて楽しんで。と笑いながらその本を手渡してくれた。
本を受け取った隆弘は一礼して家に走った。
今考えれば、数十歩の距離を息を切らして真剣な顔で現れた隆弘の姿を笑っていたのかも知れない。それでも構わなかった。
早くあの写真をこの本に挟んで、どこか…記憶に蘇らない場所に。
「な、今日この後隆弘んち行っていい?」
「え…?」
「だからさ、懐かしくって。もう一度あの本見たいんだ。いいだろ?」
悠の頭の中にはあの美しい宇宙の風景が煌めいているのだろう。
きっと想像さえ出来ない。まさか隆弘がそれをためらっているなどとは。
「あ…ああ、いいよ。…夕方頃なら」
隆弘はにっこりと微笑んだ。
「え…何か用事でもあるの?」
すぐに手に入ると思っていた期待にストップが掛けられ、悠は一瞬、残念そうな表情を浮かべた。
「いや…違うよ。部屋の中がヤバいくらいに汚いんだ」
「そんなのいつもの事じゃん。ぜんぜん気にしないのに」
悠は口を尖らせながらそう言ったが、隆弘は小さく笑うと、なだめる様に優しく言った。
「うん…ごめん。でも母さんに帰ったらすぐに掃除しろって言われてるからさ」
「う…ん。そっかぁ…」
「何だよ。掃除くらいさせてやれって悠。…っていうかどれだけ魅力的なんだよその本…っ」
窓際の壁に寄りかかる様にして立っていた琢磨が、残念そうに声を落とす悠を見かねてそう言うと、軽く悠の肩を叩いた。
「おばさんに怒られるんじゃ仕方がないよな。じゃぁ…夕方頃行くよ」
「ああ、うん。じゃぁ俺先に帰るから」
軽く手を振りながら席へ戻る悠を目で追いながら、隆弘も手を振り返した。
(ああ、あの写真をどこかに隠さなければ)
喉の奥に込み上げる不快。
汗の浮かぶ手の平で鞄を掴むと、隆弘は誰よりも早く教室を出た。
(何処に…?)
もう二度と手にするつもりはなかった写真を持ちながら、隆弘は部屋の中を見渡した。
燃やしてしまえばいい。そうすればきっと一気にこの気持ちは軽くなるだろう。
だがそれさえ、回り始めた運命を変えてしまいそうで怖い。
引き出しの中?壁に貼ったポスターの裏?
どれも見つかる可能性はゼロではない。
何処へ隠せば悠のあの笑顔を保っていられるのだろう。
(…そうだあそこなら…)
部屋に差し込んでいた白い光にゆっくりと柔らかさを感じる頃、隆弘はようやくちょうどいい場所を見つける事が出来た。
それは悠が誕生日プレゼントにくれた蛙の形をした貯金箱。
小さく、小さく畳んでそっとコインを入れる入り口から落とした。
(…ここなら当分見る事もない)
自分の記憶から消えるまで閉ざしてしまおう。
緊張から解放された様に隆弘は深く溜め息を付いた。
(…もうすぐ悠が来る)
勉強机の上に置いた星の写真集を手に取ると、隆弘はそっと表紙を開いた。
深い夜空。
ぼやけた月明かりに照らされた地上の陰影。
小さな星や強く明るく光る星。
それらが織りなす光景は、息をするのを忘れる程に美しく映った。
(…苦しい)
だが宇宙の美しさを持ってしても、胸のつかえが流れる事はなかった。
ふと階下で玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。
応対に出る母親の声。そしてすぐに慣れた感じで足早に階段を上がって来る音が聞こえた。
隆弘は本を閉じると、立ち上がって部屋の扉を開けた。
「わ…っ何だよびっくりしたな。急に開けんなよ」
突然開いた扉に驚きながらも、悠は隆弘の横からちらりと部屋の中を伺う様に首を伸ばした。
「なんだ。もう片付いちゃったのかぁ。掃除に手間取ってる隆弘からかってやろうと思ったのに」
そう悪戯っぽく笑うと、手に持った小さな袋を隆弘に差し出した。
「…何?」
「プリン。お店のお客さんから貰ったんだって」
袋の中を覗くと、小さな紙箱に開いた窓から黄色い艶やかな表面が見えた。
「ありがとう。じゃぁ後で食べよう。あ…悠が見たがってた本なら机の上に置いておいたから」
「うん。さっき見えたからわかってる」
悠は嬉しそうにそう言うと、隆弘の横を通って机の上にあった写真集を手に取った。
「はぁ…この写真…大好きだったなぁ」
ページを捲りながら悠はうっとりとそう呟くと、ゆっくりとベットの上に腰掛けた。
「うん…懐かしい」
ゆっくりと悠が写真の中に吸い込まれていく。
言葉は少なくなり、時間さえ忘れてしまう。
悠がページを捲る音だけが響き、隆弘はそっとその横に座りその様子を眺めている。
そんな事は以前からあった。イメージで遊ぶ悠の姿。
だが今は悠のこの集中力に、一緒にいる自分の存在さえ消されてしまうのではないかと不安になる。
「なぁ悠…」
一人だけ星のイメージに酔えないもどかしさを感じながら、隆弘は思わず声を掛けた。
「……え…何?」
隆弘の声に、悠はゆっくりと意識を戻す様に顔を上げた。
「この間…宗兄が言ってた夏休みの旅行の事なんだけどさ…」
(言わなければ。これだけは)
胸の奥で鳴り続ける警鐘。
だがそこまで言うと、悠は身を乗り出して満面の笑みを浮かべた。
「うんっ早く行きたいよな。山小屋で、しかも望遠鏡で星を覗くなんて…考えただけでも興奮するよ…っ」
「…悠…」
「山なんか遠足でしか行った事ないし…山小屋なんて凄いドキドキする」
「ちが…悠…」
「凄い思い出になるよきっと。な、隆弘?」
「違う…違うんだ」
「……隆弘?」
声を同じに興奮を分け合えると思っていた悠は、中々付いて来ない隆弘の変化にようやく気づいた。ふと冷静になった悠は、隣で小さく背中を丸めていた隆弘をそっと覗き込んだ。
「どうしたんだよ」
自分よりも大きな身体が、小さく、小さく縮こまって震えていた。
そして消えてしまいそうな声で呟いた。
「……行くの…やめないか」
「…え…何で…何でだよ」
訳がわからない。意味が分からない。
悠の声はそう揺れながら、やがて強い口調に変わっていった。
「何でそんな事言うんだよ…っやめる理由なんてないじゃないか」
悠は隆弘の肩を強く掴むと、大きな瞳を向け、叫んだ。
「何で…っ何が嫌でそんなことを言うんだよ。僕はもう…行くつもりで…」
怒りに声が震える。
だが、隆弘は唇を噛み締めたまま声を出す事はなかった。
「…何で何も言わないんだよ隆弘…っ」
「………っ」
悠の視線が、荒い息を吐きながら強く向けられているのを感じながら、
隆弘は強く握った自分のこぶしが小刻みに震えているのを感じていた。
真実を告げて、怪しむべき人間を見つけ出し、避ける事で悠を守った方がいいのだろうか。
迷いを誘惑する意識に、押し殺していた声がのど元まで上がって来る。
だが真実を告げる為にはまずあの写真を見せなければならないのだ。
(そんな事は絶対に…)
「隆弘…っ」
子供が泣きつく様な声。
「わかったよ…っもういいっ僕だけで行く…っ」
いつまでも黙り込んだままの隆弘に苛立ったのか、突然悠はそう叫ぶと、肩を掴んでいたその手を離し、立ち上がった。
「だ…だめだ…っ」
その瞬間、隆弘の叫ぶ声が響いた。
「な…っ隆弘?」
悠は突然腰に巻き付いた腕の感触に思わず隆弘を見た。
見ると隆弘の腕がしがみつく様に悠の腰を強く抱きしめていた。
「は…っ放せよ隆弘…っ」
バランスを崩した悠は、再びベットに座り込んだ
「隆弘…?……何か変だ。…どうしたんだよ」
悠は仕方なさそうに溜め息を付くと、しがみつく隆弘の頭を優しく撫でた。
「……っ」
「……なんで泣いてるんだよ…」
困った様な悠の声。
悠の冷たい指先が、隆弘の頬にそっと触れた。
隆弘はゆっくりと顔を上げ、その腕をそっと解いた。
「は……悠の事が…悠の事が心配なんだ…っ」
心から叫んだ。無意識に握ったこぶしに力が籠った。
「…隆…っ?」
今、言わなければ。
悠を見つめる何者かに奪われる前に。
「お前の事が好きだから…心配で死にそうなんだよ…っ」
目の前の小さな肩。
薄い筋肉の感触。
隆弘は力一杯抱きしめた。
「痛いよ…っどうしたんだよ…何をそんなに心配…」
次の瞬間、突然強い力で隆弘の腕に引き寄せられた悠は、押し付けられた唇の感触に目を見開いた。
「…んぅ……っ」
唇が触れたのは一瞬だった。
唇が離れた瞬間、声を上げようとしたが、それは隆弘の涙に潤んだ真っすぐな瞳に胸の奥に消えてしまった。
「……悠…俺もっと悠に触りたいよ…」
「な…何言って…」
「もっと…確かな実感が欲しい…」
そう言って再び抱きしめられた時、隆弘胸の中に閉じ込められた手の平が、何か固い物に触れた。
「た…たか…っ?これまさか…」
「ごめん…キスで…」
「…え…」
ゆっくりと被い被さって来る影に流されるまま、悠の身体は柔らかなベットの上に横たわった。
「隆……っ」
「…好きなんだ…」
少し掠れた隆弘の声が耳元でそっと悠の名を呼んだ。
そして柔らかな唇が再び、そっと悠の唇を塞いだ。
そしてそっと離れた唇は、まるで壊れ物に触れる様に、たどたどしく首筋に這い下りて行く。
「…ん…や…やだよ…っ何か…怖い…っ」
「…怖くないよ悠。悠だって…ちゃんと興奮してる…」
そっと隆弘の指がズボンの上から触れた。
自分以外の人間に触れられた恥ずかしさに思わず両膝を縮めたが、興奮しているのは確かだった。
腰の辺りがどくんどくんっと脈を打ち、じわじわと痺れる。
「…や…っちが…っ」
違わないのはわかっていたが、なんと言っていいかわからない。
確かに隆弘の言う通り、身体の芯が熱く、もどかしい様な感覚が絶え間なく上って来る。
「な…っ隆弘…っ何か変だ…っ」
もどかしくてもどかしくて腰をよじるが、込み上げる感覚は度を増すばかりでどうしたらわからない。ぎこちなく自分の芯に触れてみたが、身体が求める感覚には追いつかず、悠は出口を塞がれた様な息苦しささえ感じ始めた。
「…悠…手を貸して」
そっと囁いた声に、悠は込み上げる息を吐きながらうっすらと目を開いた。
ぎこちなく動いていた悠の手に隆弘の手がそっと触れた。
そして優しく芯から手を離させると、自分の固く起立した芯に導いた。
もちろん他人の物になど触れた事はない。
だが手の平の中で感じる鼓動の様な感覚と体温。そしてその固い感触は息を呑む様な生々しさだった。
「ひぃぁ…っ」
突然自分の芯に触れた手の感触に、悠は思わず腰を引いた。
自分のではないもう一つの手が、自分の芯をやんわりと包んでいる。
「俺もこするから…悠もこすって…っ」
胸の上で隆弘の呼吸が荒くなっていくのを感じながら、悠は隆弘の肩にしがみつくと、その脈打つ物をぎこちない動きでこすり始めた。
「は……っ」
込み上げる呼吸。隆弘の息遣い。
全てを持っていかれる様な怖さと共に、腰の辺りを這い上がるぞくぞくするような感覚が駆け上がって来る。
「ああ……っ」
そう叫んだ瞬間、頭の中で何かが真っ白にスパークした。
隆弘の胸の下で、悠の身体はびくんっびくんっと二度跳ね、まるで沼に沈み込むような気だるさに包まれていった。
(…何だ…これ…)
ぼんやりと感じるのは隆弘の温もりと荒い息遣い。
そして脱力した身体の実感。
うっすらと窓の外を見ると、外はゆっくりと闇に包まれ始めていた。
隆弘が何故泣いたのか。
あんなに思い詰めた表情は見た事がなかった。
(……きっと何かがあったんだ…)
悠は声を出さないままそっと隆弘の頭を撫でた。
汗に濡れた髪が、しっとりと指に絡んだ。
(でもちゃんと話すってあの時…約束したから…)
自分が想いを閉じ込めていた時、隆弘は強くその扉をこじ開けて来た。
叩き付けられる様な強い言葉。
(…きっとそのうち話してくれるよな)
涙を見せる程何をそんなに思い詰めていたのか。
それはわからない。
突然隆弘が行くのをやめようと言いだした事も、苦しそうに言葉を押し殺していた事も、
何もわからない。
ただ確かなのは、隆弘がそばにいるという事だけ。
そして暖かい体温を感じる実感。
それだけが全てを和らげてくれる。
「大丈夫だよ隆弘。…僕はずっと隆弘のそばにいる…」
そっと呟くと、悠は重なる温もりにゆっくりと瞳を閉じた。