契約
大きな窓のあるリヴィングは、太陽を遮る曇天の空にすっかり薄暗くなっていた。
「……どうして?…どうしてなのよ…」
明かりのない部屋の中で、母は床の上にうずくまったまま呆然と独り言を呟き続けていた。
「…大切に…大切に育てて来たのに…どうして…」
(ーーまさか…このまま帰って来ないなんて事は…)
絶望の様な予感が脳裏を何度も駆け巡る。
その度に冷たい汗に濡れた拳が、ぶるぶると震えた。
(そんな…そんな事になったら私は…)
思わず強く噛んだ指にわずかに血の味を感じた、その時だった。
ーーガチャリ
(ーー宗一郎っ?)
玄関から聞こえてきたノブを捻る音に、母は跳ね上がる様に顔を上げた。
(ああーー帰って来てくれた…っ)
「ーー宗一郎…っ」
掠れた声が、室内に響いた。
(ああ言わなければ。宗一郎が嫌がる事はしない、全て受け入れるからここにいて欲しいとーー)
『そうしなければきっと宗一郎はこの家から出て行ってしまう』
そんな予感に追い立てられる様に、母は慌てて玄関に向かって走り出した。
「宗一郎…っ良かった帰って来てくれたの…」
視線の先ーー薄暗い玄関に立っていたのは紛れもなく宗一郎だった。
だが駆け寄ろうとした瞬間、突き刺す様な冷たい視線にその足は凍り付いた。
「ーーただいま。母さん」
「……あ」
宗一郎の母は思わず後ずさった。
柔らかな声からは想像ができない程、一切を切り離した様な冷たい視線ーー。
「そんな大声を出して…どうかしたの母さん。二人がびっくりしてるじゃないか」
「……え」
宗一郎の口元から聞こえた言葉に、母は思わず顔色を変えた。
「…誰か…来てるの」
「さぁ…誰だと思う?」
宗一郎は怯える様な母の顔に嬉しそうに笑みを浮かべると、少しだけ開いたままの扉に向かってそっと声をかけた。
「いいよ。ーー大丈夫入っておいで」
「ーーうん…」
聞き覚えのある声だった。
嫌な予感がした。
宗一郎の声に、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「あ…あの…こんにちわ」
おずおずと緊張気味に入って来たその姿に、母は思わず声を震わせた。
「え…隆弘君に…ーーは…悠…君?」
それは母の記憶にはない、伸びやかに成長した二人の姿だった。
家庭の事情もあって何度も家に泊め、自分の子供の様に可愛がっていた悠。
そしていつも兄弟の様にそばにいた隆弘。
だがその懐かしさは、同時にデジャブする記憶にかき消された。
『ーー兄さんが悠に抱いた妄想と同じ事じゃないか』
母親の脳裏に刻まれた数時間前の記憶が恐怖と共に蘇る。
喉の奥が乾いて張り付く感覚に、母は喘ぐ様に生唾を飲み込んだ。
(ーーどうして家に…)
動揺して言葉が出て来ない。
『巻き込んではいけない』胸の奥でけたたましく警鐘が鳴る。
(どういうつもりなの…?あの時、二人は何をーー)
「…嫌だなぁ…何て顔してるんだよ」
突然低く響いた宗一郎の声に、母の肩は怯えた様に小さくはねた。
まるで見透かした様な瞳がにやりと笑っている。
「そ…宗…」
「はは…っ二人とも大きくなっていてびっくりしただろ?暑いから休んで行けって誘ったんだ」
宗一郎は靴を脱ぎながらそう言うと、先に玄関の床に上がって二人に声をかけた。
「どうした二人とも?ぼうっとしてないで早く上がりなよ。兄さんの本見たいんだろ?」
「あ…うん…」
(……宗兄ちゃんの言う通りだ)
隆弘は伏し目がちに宗一郎の母の姿を見ながら、玄関の前で言っていた宗一郎の言葉を思い出していた。
『実は今日…ちょっとトラブルがあってさ。母さんが少し不安定なんだ』
家の中に入る前に宗一郎が言っていた言葉。
『…えっ…じゃぁ僕達行かない方が…いいよな?元気なおばさんに会いたいし…なぁ隆弘』
悠は残念そうにそう言うと、隆弘をちらりと見ながら同意を求めて来た。
(…なんだよ…)
隆弘は悠が不安げに寄せるその視線に、小さく溜め息を付いた。
見せてくれると言っていた星の本を楽しみにしていた分、自分の口から自らの期待を断ち切ってしまう事が出来なかったのだろう。
そう言う優柔不断な所は昔から変わらない。
同意を求められて決断するのは、昔からいつも隆弘の役目だった。
『そうだな…残念だけど遠慮した方がいいんじゃないかな。本はいつでも見れるし。な、悠』
『う…うん…そうだよな。ーーじゃぁ僕達…帰る…』
自分を納得させる様に何度も頷きながら、悠がそう言いかけた時だった。
『ーーああ大丈夫、大丈夫。…ごめん、大げさに言って逆に気を使わせちゃったかな』
宗一郎は笑いながらそう言うと、悠の頭を軽く撫でた。
『脅かすつもりじゃなかったんだ…』
そう言うと、宗一郎は玄関のノブにそっと手をかけた。
『…兄さんが家にいないせいか、最近僕がいなくなると酷く不安になるみたいでさ。玄関を開けた途端に走って出て来るかもしれないから…一応ね」
宗一郎が言う通りーー宗一郎の母親は血相を変えて玄関に飛び出して来た。
(一体どうしたんだろう…それに…何だろう。変な匂いがする…)
「あ……っ…あの…ごめんなさいね。やっぱりまだちょっと匂うかしらーー」
一瞬顔色を変えた隆弘に気づいたのか、
宗一郎の母は少し慌てた様子で小走りに駆け寄って来た。
「あの…実は二階の部屋でちょっとボヤがあって…まだ片付けてないの。ね、宗一郎、リヴィングで休んでもらったら?」
母は努めて明るい声でそう言った。
演じる暇を与えずに、自分だけが先に家に入り、薄く開けた扉から母の醜態を見せる。
それは宗一郎が仕掛けた罠の様にも思えた。
だが宗一郎は、そんな母親の振る舞いを嘲笑うかの様に唇を歪めながら言った。
「ーーそんなの気にしなくったっていいだろう?兄さんの部屋が真っ黒に焦げてるだけだ」
「そ…」
顔色を変えた母はもがく様に何かを言いかけたが、それよりも先に声を出したのは悠だった。
「え…桂兄ちゃんの部屋が?」
悠はそう言って宗一郎に駆け寄ると、真顔で宗一郎を見上げた。
「あの棚にあったカメラも?望遠鏡とか…いっぱいあった本も燃えちゃったの?」
「ああ…そっか。ショックだよな。悠はあの部屋が一番気に入ってたから…」
そう笑顔で言いながら、宗一郎は蘇る記憶に拳を強く握った。
「ーー大丈夫だよ」
宗一郎はそう言うと、悠の頭を優しく撫でた。
「……でも本当にボヤで済んだんだ。……カメラはもうだめかも知れないけど、本は無事だよ」
「でも…カメラ……桂兄ちゃん大事にしてたのに…」
「ああ…そうだね」
(そのカメラで何をしていたと思う…?)
同情する様に悠の肩を抱きながら、宗一郎は笑い出してしまいそうな衝動を必死に押さえていた。
(本当に何にも知らないんだな。兄さんの目の前でバラしてやったら兄さんどんな顔するだろう)
「あ、そうだ。二人とももうすぐ夏休みなんだろ。小学校最後の記念に旅行でも行かないか」
「ーーえ…っ」
宗一郎の突然の言葉に、悠と隆弘の瞳は一瞬で輝いた。
「どこか連れて行ってくれるの?」
「ああ。まだ何も決めてないけどな。上でゆっくりその話でもしよう。母さん後でーー」
そう言って宗一郎が階段を数段昇った時だった。
母に声をかけた宗一郎は突然動きを止めた。
「宗兄?どうし…」
後に続いていた悠が思わず顔を上げると、宗一郎の横顔が目に入った。
真っすぐに見つめる先には、青冷めたまま立ち尽くしている母の姿があった。
(……あ)
「…ーーごめん、先に部屋に行っててくれないかな」
宗一郎は優しく微笑みかけながらそう言うと、二人の横を通って階段を下りた。
「母さんがさ…やっぱり飲み物は僕が持って行く事にするよ。悠、僕の部屋覚えてるだろ?」
「…うん。覚えてる」
「じゃぁ隆弘と一緒に行ってて。部屋の物、勝手に使ってていいから」
「……うん。わかった…」
言われた通りに階段を昇り始めた悠だったが、そっと母の肩を抱く宗一郎の姿を見ていると、上がり込んでしまった事に少し気が引けた。
(そんなにしてまで本が見たかった訳じゃなかったのに…僕はただ宗兄に会えて嬉しくて…)
「悠、行こう」
思わず立ち止まっていた悠の背を、隆弘が軽く叩いた。
「おばさんの事は僕達には何もわからないよ。宗兄に任せた方がいい。…行こう。悠」
「…うん」
「…だめじゃないか母さん。人前ではもっとうまく演じてくれなきゃ…」
静まり返った中に二人の軽い足音だけが響く。
そして少しするとその足音は階段を上りきった辺りで立ち止まった。
「二人ともーー兄さんの部屋…見たみたいだね」
宗一郎は薄く笑うと、拳を口に当て小さく震える母に低く囁いた。
「…またどう誤摩化すか考えてるの」
まるで体温を奪って行くかの様に、その声は母の身体を冷たく凍り付かせた。
創り上げて来たイメージが崩れて行く。
今までなら、嘘を重ねる事でどうにかなって来た。だが、もうーー
(どうしたら戻るの…どうしたらーー)
絶望的なイメージばかりが膨らみ、呼吸さえ忘れそうになる。
宗一郎は、返事さえできずにいる母を覗き込みながら薄ら笑いを浮かべると、凍る様な声でその耳元に囁いた。
「あんたの望み通りここにいてやる。体裁を保つための嘘も今まで通りいくらでも付けばいい」
「………っ」
「その代わりーー僕のする事には一切口を出すな」
(い…嫌…怖い……こんなの宗一郎じゃないわ。…何故こんな事に…)
そんな疑問が微かに過る度に、母は息を殺して唇を噛んだ。
「…わかったな」
「ーーー…」
少しの沈黙の後ーー母は床を見つめたまま、言葉にならない声を殺したまま小さく頷いた。
「ははっ……それでいい。心配しなくても大丈夫。口裏を合わせればうまくやってあげるよ」
宗一郎は笑いながらそう言うと、母の肩を軽く叩いてキッチンへ消えて行った。
(どうして…何だか嫌な予感がする)
母は震える肩を抱いたままその場に崩れ落ちた。
『ーー兄さんが悠に抱いた妄想と同じ事じゃないか』
宗一郎が叫んでいたあの言葉が、再び脳内を駆け巡った。
(ああどうしたらいいの…)
(嫌な予感しかしないのに、私には宗一郎を止める事が出来ないなんて…)
母はふらりと立ち上がると、部屋の奥へ消えて行った。