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夏の楔  作者: 夏路殻巣
17/21

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 (……俺の…部屋が)


突然叩き付けられた現実に、息が止まりそうになる。


(ああ…悠君)


焼けた部屋と宗一郎の顔が頭を過る度に、絶望に似た感覚が襲う。

ふらふらと歩きながら、今にも追い掛けてきそうな宗一郎の影に、桂一郎は何度も後ろを振り返った。


突然剥き出しにしてきた宗一郎の強烈な独占欲。


酸素を奪う様な蒸し暑さに、止めどなく浮かぶ汗が頬を伝う。

(……痛っ)

不意に感じた小さな痛みに、桂一郎は足を止めた。

汗を拭った指先が一瞬触れた、口端の小さな傷ーー。

(ーー宗一郎)

部屋中を埋め尽くしていた愛しさの全てを焼き付くし、握り潰す様な力で掴み掛かって来た弟。


『あんなの燃やしたくらいで何でそんなにショック受けるんだよ……っ』


そう叫びながら自分の頬を打った宗一郎の顔が、頭から離れない。


(ーーあんなのだって?お前には絶対にわからない)

胸の奥にひそめていたもう一人の自分が、叩き付ける様に反論する。


『兄さんが悠に抱いた妄想と同じ事じゃないか』

『兄さんなら良くて……僕が兄さんにそうしたいって思うのは何でだめなんだよ…っ』


あの時の宗一郎の瞳を思い出すだけで、背筋にぞくりと悪寒が走った。

突然押し付けられた『憶えのない愛情』ーー。


(違うっお前なんかと一緒にするなっ……俺が抱いている物はもっと神聖なー−)


悠の姿を思い浮かべた瞬間、桂一郎は身体の奥にじわりと滲む様な感覚を覚えた。

(……ああ)

思い出しながら、桂一郎は口端に薄く笑みを浮かべた。


ーーファインダー越しに感じるしっとりとした肌の感触。


桂一郎は思わず震える手でズボンのポケットをまさぐった。

指先に触れた物をそっと取り出す。

そこには周りを少し焦がした一枚の写真。

蘇った興奮に呼吸が乱れる。

「悠君……」

桂一郎はそっとその写真を頬にすり当てると、愛しむ様にその名を囁いた。

「……君だけは特別なんだ。誰にも汚されずにずっと……」

燃えてしまったあの部屋の記憶が蘇る。

壁全体に張り巡らせた悠の姿。

瑞々しい肌と、まだ頼りない骨格。

うっとりと包み込む、桂一郎が創り上げた理想の世界。


(そうだ。…あの部屋など失っても構わない。君さえいてくれればそれでいいーー)

桂一郎は汗を手の甲で拭いながら、深く息を吸い込み空を見上げた。

見上げた空にはいつの間にか、鈍色の雲が天を覆い隠していた。


ーーぽつり。


不意に額に落ちた雫の感触に、桂一郎は我にかえった。

(……雨)

大事な悠の写真を濡らしてしまう訳にはいかない。

桂一郎は慌てて悠の写真をポケットにしまい込むと、再び当てもなく歩き出した。

(とにかくもう……俺の居場所はない。何処へ行けばーー)

何も持たずに出て来てしまった事を、今更ながらに後悔した。

持って出たのは携帯と唯一残った悠の写真だけだった。


(ああ……そうだ)

その時ふと、桂一郎は黒部写真店でのやり取りを思い出した。

『ーー良かったら僕の下で修行がてら働いてみないかい?』

優しい言葉をかけてくれた。

そこは十年ほど前から通い続けて来た、誰も知らないもう一つのホーム。

(そうだ……あの人なら)

桂一郎はふらりと足を踏み出した。

少し離れてしまったが、そう遠くはない。


雨粒の音が少しずつ大きくなる。

桂一郎は薄く笑うと、小走りに駆け出した。



 (……暇だねぇ)

店内を流れるFMラジオに耳を傾けながら、黒部は入り口のガラス扉をぼんやりと眺めていた。

朝から店を開けているが、来店したお客は少し前に来た初老の男性一人きりで、それ以来店を訪れるお客の姿はまだ見ていない。


紫煙を燻らせながら聴くラジオの音と、コーヒーの香り。

そんな空間は好きだったが、さすがにこんな日が何ヶ月も続くと少し不安になる。

(やばいなぁ。…こりゃ俺の代で潰れるかも) 

溜め息を付きながら、そんな事を思った時だった。


ぱらぱらぱら


店内を流れるラジオの音に、軽い雨音が混じった。

ガラス戸の向こうに目をやると、いつの間にか空には鈍色の雲が低く立ち込め、小雨がぱらつき始めている。

そう言えば台風が近づいて来ているとテレビで言っていたかもしれない。

(あ、そうだ看板…)

黒部は外に出している立て看板を思い出し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

(雨が降っちゃぁ今日はもうお客さん来ないかもなぁ…)


ガラス戸を開くと、途端にむんわりとした独特の匂いが鼻をついた。

降り落ちた雨の雫が、真夏の太陽に焼かれたアスファルトに一斉に蒸発した夏の匂い。

好き嫌いはあるが、黒部はこの匂いが割と好きだった。

(……ん?)

不意に黒部は、雨の中をこちらに向かって歩いて来る一人の男に目を留めた。

(…桂君?)

それは少し前に笑顔で店を出て行った桂一郎の姿だった。

だがその印象は数時間前に会った時とは全く違っていた。

「どうした…」

雨の中に立つ桂一郎に、黒部は思わず言葉を詰まらせた。

いつも通りを装おうとしているつもりなのだろうが、その顔は引きつり、その瞳は暗い影を落としている。

「あ…黒部さ…」

「と…とにかく濡れるから…早く中に入りなさい」


黒部は、急いで店の軒先から数歩先に立つ桂一郎の元へ駆け寄ると、しとしとと降る雨に目を細めながら桂一郎の腕を掴んだ。

ぐい、と引っ張ると、その身体は思ったほどの抵抗もなく、素直に付いて来た。


 「…今タオル持って来るから…そこの椅子に座って待ってて」

黒部はそう言うと、慌てて店の奥にタオルを取りに行った。


ラジオの音と、コーヒーの香り。

昭和レトロを思わす様な落ち着いた店内。

黄茶けたグレイの椅子に腰を下ろすと、木製の手すりがしっとりと指先に馴染んだ。

「……ああ…」

桂一郎は溜め息を付くと、深く目を閉じた。

今まで感じていた絶望とは違う、ゆっくりと流れる空気に、過去の記憶が蘇る。 

 

 初めてここに来たのは小学生の時だった。

中学受験の為にいくつもの塾に通わされて、ーー疲れきった帰り道に、ふと桂一郎は夕闇に浮かぶ古い写真店のショウウィンドウに目を奪われた。


『大きくなったら何になりたい?』初めての進路相談の時に聞かれたそんな質問の返事を、母親は『ーー冗談よね』と打ち消した。


ーーカメラマンに なりたかった。


ガラスの向こうに誇らしげに並べられたいくつもの美しいカメラ。

そして幸せそうに微笑む奇麗な額に飾られた記念写真。

ガラスの向こうは、本当に自分を隔てた別世界の様に思えた。

『……良かったら店の中も見て行くかい?』

店の前で立ち尽くしていた俺に、彼はにこやかに声をかけてくれた。


誰も知らないもう一つのホーム。


 (ああ……やっぱりここは居心地がいい)

雫に濡れる前髪を掻き揚げ、桂一郎が小さく溜め息を付いた時だった。

「ごめんごめん、着替えを取って来ていたら遅くなってしまった。ーーほらこれで拭いて」

バタバタと戻って来た黒部の手には、タオルと、おそらく彼の物らしき妙なプリントを施されたTシャツと、年季の入ったジーンズが握られていた。

「え……着替え?」

服を借りる事など考えていなかった桂一郎は、思わず聞き返した。

「店内クーラーで冷えてるし、そんな中で濡れた服来てたら風邪引くだろう。僕の服しかないけど…良かったら着替えなさい」

「あ……すいません」

差し出された服とタオルを受け取ると、桂一郎は軽く頭を下げた。

(…相変わらず優しいなぁ)

そう感じる度にむずがゆい様な感覚を覚える。

それは何年経っても変わらない。

居心地のいい場所のはずなのに、何故かその感覚だけには今も慣れる事が出来ない。


「何があったか知らないが、風邪でも引かれたら話も聞いてやれないだろう。奥に案内するからそこで着替えるといい」

そう言いながら、黒部は住居スペースへ続く扉の前で手招きをした。

「どうした?早く来なさい」

「…でも……店は」

「来たらベルで知らせてくれるよ。大丈夫。暇なのはいつもの事だから」

そう言うと、黒部は口ひげに埋もれた唇でにかっと笑った。

「……じゃぁ」

桂一郎は礼を言うとゆっくりと立ち上がり、ショーケースの裏ある店の奥へ続く扉の前まで歩み寄った。

「独り身の家だからね、汚いけど勘弁してくれな」

「いえ、ぜんぜんーーー」

黒部の後に付いて部屋の中に入った瞬間、桂一郎はその存在感に思わず息を呑んだ。

薄暗い廊下の壁一面に埋まった本。

壁にはめ込み式の書架が天井にまで続いている。

しかもそのどれもが本の題名さえも理解できないほどの難書ばかりだ。

「……すごい…」

思わず漏らした声に、黒部は嬉しそうに言った。

「ああ、驚いただろう?先代が随分な読書家でね。遺品と言うか…捨てられなくてそのままにしてあるんだ」


 店の奥の部屋に上がるのは初めてだった。

自分以外の人間の生活空間へ入ると、何故か冒険心の様な物が湧くものである。少し高揚する気分を押さえながら、桂一郎はゆっくりと辺りを見回した。

現像液とフィルムと、そして古びた本の匂いが混じる廊下。

よく見るとその書架の中に聖書やそれに関する書物が多く見られるようだった。


「あまりきれいじゃないがここで着替えるといい。終わったら店に戻って来なさい。何かあるならそれからゆっくり話を聞くよ」


案内されたのは六畳ほどの畳の部屋だった。

古い壁掛け時計と低いタンスの上には何個かの小さな十字架の置物があった。

(ーー十字架…)

一瞬、桂一郎の脳裏の奥を何かの記憶が掠めたが、それが何かはよくわからなかった。


「……じゃぁ僕は店に戻るから」

「あ……」

黒部が店に戻ろうと踵を返したその時だった。

「……え?」

突然身体を引き止めた何かに、黒部は思わず足を止めた。

そして振り向くと、そこには俯きながら黒部の服の裾を掴む桂一郎の姿があった。

「どうしたーーー桂君?」

桂一郎は心配げに覗き込む黒部の顔を真っすぐに見つめると、懇願する様に話し始めた。

「あの…お願いがあるんです。……あの…就職の話…住み込みじゃだめですか」

「え…住み込み?」

突然の申し入れに、黒部は思わず聞き返した。

「す…住むって……」

「お願いします…っ俺給料とかいりませんから働きながらここにーー」

 

店に入って来た時から、何かがあった様な雰囲気はあったが、その頼み方の必死さは黒部の情を激しく動かした。

(…桂君……)

幼い頃から憧れだけで通って来ていた純粋な少年。

ただ、店に来る時はいつも思い詰めた様な顔をして来ていたので、今まで一度も家庭の事を聞いた事はなかった。だが今、大人になった少年が目の前でこんなにも必死に頼み込んでいる。

もう二十二歳だという。大人ならばある程度の事は自分の力で解決出来るはずだ。

それなのにこんなに必死になる理由とはーー。


「お願いします黒部さん……っ」


(十字架。聖書。ーー上面を舐める様な優しさ……)

頭を下げながら、桂一郎は脳裏の奥に浮かんだキーワードを繰り返していた。


そして一瞬、口端がにやりと歪んだ。


「…桂君一体何がーーー」

そこまで言うと、黒部は思い直した様に口を閉ざした。

そして目を閉じて微笑むと、再び静かに話し始めた。

「わかった。…いいよ。どうせ僕は独身だし、部屋は余ってる。ーー悩める者は拒まない。何があったかは話したくなったら話してくれればいいよ」

そう言うと、黒部は俯いていた桂一郎の両肩を掴み、覗き込んで優しく微笑んだ。

「……本当に…すみません」

「もういいよ。人助けは家訓みたいなものなんだ。気にしないで着替えなさい」

「はい…ありがとうございます」


「…じゃぁーー僕は店に戻っているから」


部屋のふすまが閉ざされ、廊下を歩く音がゆっくりと離れて行く。

(…本当にーー優しすぎるよ黒部さん)

そして店へ続く扉が開かれ、閉じられた事を確認すると、桂一郎は静かに笑い出した。

「…ふっーーあっは…っなんだ、そうだったのか」

(大好きな場所なのに…黒部さんにいまいち馴染めない理由ーー)

「は…母さんと一緒だからか……」

(上面だけの偽善者ーー)

(そうじゃないかもしれない。ーーでも俺にとっては)

小さく息をつくと、桂一郎はタオルで髪を拭い、濡れたシャツを脱いだ。

(……とにかくこれで悠君のそばに居場所を確保する事が出来た。だが気になるのはやはり宗一郎の事だな)

借りたTシャツに袖を通すと、優しい柔軟剤の香りが鼻先をくすぐった。

着心地は思ったほど悪くはなかった。


ーー恐怖を覚える程の強烈な独占欲。

振り上げた拳で目的のものを手に入れる事が出来なかった宗一郎が、次にその拳を振り下ろす相手ーーそれは容易に想像出来た。

(…悠君)

(……だが俺は家族に存在を消された人間。…悠の尊敬する桂一郎じゃない)


そう思った瞬間、桂一郎は不意に思い浮かんだ事実に顔を歪めた。

「ははっーー何だ結局、母さんが体裁を保つために作った『嘘』に俺も一緒に乗ってるんじゃないか」

自嘲めいた笑みを浮かべながら桂一郎はポケットから悠の写真を取り出すと、目の前に持って来て愛しそうに見つめた。

「だめだ悠君…母さんが作った『嘘』に憧れた悠君に、今更こんな俺じゃ恥ずかしくて会いに行けないよ。だってーー今の俺を知ったらもう『お兄ちゃん』って言ってくれないだろう?」


囁く様にそう言いながら、桂一郎は笑顔で写る悠の口元にそっと唇を寄せると、写真の表面をべろりと舐め上げた。

「ああ…俺は君を見ているだけで幸せなのにーー宗の奴何であんな酷い事を…っ」

思い出した怒りに、思わず声が大きくなる。

だが気づいた桂一郎は、すぐに声のトーンを抑えた。

(本当にここが新たなホームになるんだ。……大人しくしておかなきゃな)


借りたジーンズに履き替えた桂一郎は、タンスの上に置いておいた携帯に手を伸ばすと、不意に動きを止めた。

(……宗一郎から電話があるかもしれないな)

(…挑発的な宗一郎の事だ。舞台は用意してくれるだろう)


「…このカミサマは願いを叶えてくれるのかね」

桂一郎は携帯をジーンズのポケットにしまい込むと、手に持った悠の写真を十字架の置物の前に立てかけ、おもむろに胸の前で十字を切った。


「ーーどうか清く守りたまえ。俺だけの天使…」


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