きらきらしたもの
「…宗兄ちゃん?」
その時、木陰の奥からまだ幼さの残る声が、不安げに宗一郎の名を呼んだ。
(ーー何で…)
宗一郎は信じられない思いで声のした方向に目を細めた。
(…どんな悪戯だ?こんなタイミングで会うなんてーー)
「はる…か?…」
思わず声が掠れる。
「よかった。やっぱり宗兄ちゃんだ…!」
嬉しそうに小走りに近づいて来るその姿は、桂一郎の部屋で見た写真よりも、少し幼さが薄れた様に見えた。
「そこに一緒にいるのは…もしかして隆弘…?」
久し振りに会った宗一郎を前に、隆弘は黙ったまま照れた様に頷いた。
(…大きくなった)
一体どれくらい振りだろう。会わない間にその印象は随分と変わっていた。
柔らかに膨らんでいた頬のラインは引き締まり、身長も体格も悠とそう違わなかったはずなのだが、何年かの間に骨格はがっしりと成長し、悠の頭一つ分ほど上回る身長は、まだ小学生だという事が嘘の様に思えるほどだった。
「…ああやっぱり来て良かったぁ。風が…すごく涼しいや」
そう言うと悠は、すとんと宗一郎の隣に腰を下ろすと、大きく息をついて空を見上げた。
木々の隙間を通る風が、ゆらりとその髪を軽くなびかせる。
「隆弘もそんな所に立ってないでこっちにおいでよ」
「…ああ、うん」
ーー匂い立つ新鮮な細胞の香り。
悠に呼ばれて駆け寄ってきた隆弘は、遠慮がち悠の隣に腰を下ろすと、悠と同じ様に大きく息をついた。
「ああ本当だ。悠の言う通り来て良かった」
ーー前髪を濡らす汗の輝きも。
「でもこんな所で会うなんて思わなかった。本当に久し振りだよね」
ーーきらきらとした無垢な瞳。
無邪気な悠の声に、胸の中で何かが反応する。
(…憎らしい)
(これが兄さんを虜にしたすべてなのか)
(僕は今どんな顔をしている?)
きらきらとした悠の瞳に、何を演じればいいのか忘れそうになる。
幼い頃から自分達を慕って、いつも後ろを付いて歩いていた悠。
思い出さなければ。『優しい近所のお兄さん』の顔を。
「ああ。…でもよく僕が宗一郎だとわかったね」
遠目にわかるはずもない。
それも何年か振りの再会。
純粋な疑問に宗一郎がそう言うと、悠は不思議そうな顔で答えた。
「え…だって桂兄ちゃんはイギリスに留学中だって母さんが言ってたよ?」
(ーーああ。そう言う事になっていたのか)
冷えきった心が冷静にその事実を受け止める。
母のやりそうな事だった。引き蘢っている兄を恥じた母の精一杯の見栄ーー。
「もしかしてもう帰ってきてるの?」
身を乗り出して聞いてきた悠の瞳に、不意に苛立ちを覚えた宗一郎は、
思わずそれを隠す様に視線をそらした。
「…いや、当分帰って来ないかもね。向こうの大学が気に入ったみたいで大学院にまで進む気でいるよ」
母の作ったアリバイに乗ってやろう。
実際、兄さんはもう帰って来ないかもしれない。
「そっか…」
帰って来ないとわかると、悠は本当に残念そうに肩を落とした。
「…どうしてそんなに会いたいの?何か言づてがあるなら伝えるけど」
そんな気は更々なかったが、昔から桂一郎を妙に慕っていた事が少し気にかかっていた。
すると悠は少し恥ずかしそうに口を押さえると、小声で話し始めた。
「昔…星の話をしてくれたんだ。凄く不思議で難しくて。その時はさっぱりわからなかったけど、最近授業でやって僕も好きになったから…もっと教えて欲しくて」
「へぇ、宇宙とかそう言う事に興味あるんだ。…今度伝えておくよ。きっと喜ぶ」
「うん」
「…でも本当に悠は兄さんが好きなんだね。昔からいつも後ろにくっ付いてた」
「だってすごく優しかったし、何でも教えてくれるから…」
(そうだろうな。今思えば兄さんは悠だけに優しかった)
「でも…隆弘が寂しそうだったなぁ。なぁ隆弘?」
「え…っあ」
突然話を振られた隆弘は驚いた様に顔を上げて口ごもった。
隆弘の視線が、悠の背中をずっと見つめていた事に気づいた宗一郎は、意地悪く更に言葉を続けた。
「隆弘はいつも、兄さんの後について何も言わずいなくなってしまう悠を探していたじゃないか」
「え、…そんな事ないよ」
「…そう?」
恥ずかしそうに俯いた隆弘が、悠を大切に思っている事は幼い頃からわかっていた。
そしてその思いが今も続いている事を知った。
「…ああ…でも二人とも随分大きくなっていてびっくりしたよ」
宗一郎は小さくため息をつくと、にっこりと笑いながらそう言った。
だが空白の時間を埋める様に話した昔話も、宗一郎に取っては全てが虚しさに変換された。
懐かしさは憎く、きらきらとした二人の瞳はのど元にまで怒りを追いつめる。
「でも隆弘ばっかり大きくなっちゃってさ。僕はあんまり伸びないんだ」
そう口を尖らせながら隣に座る隆弘の肩をつつくと、隆弘は自慢げに笑った。
「運動不足だからだろ。母さんが食べて運動しないと大きくならないって言ってたぞ」
「運動不足なはずないだろ。隆弘が馬鹿みたいに走り回ってるだけじゃないか」
「…相変わらず仲がいいんだね」
ーーじゃれあう二人の姿は幼かった昔のまま。
幼い頃の兄と自分の姿とは重ならない。
兄は兄の好きな事を。僕はいつまでも兄の後ろをーー。
「…そう言えば…どうしたんだい?まだ下校の時間じゃないでしょ」
「あ…っ」
「ーーさぼり?ふふ。いい度胸してるね」
宗一郎はそう言って笑うと、おもむろに立ち上がって言った。
「時間潰すならうちにおいで。冷たいジュースぐらいなら出してあげるよ」
ーーそのきらきらしたものを真っ黒に塗りつぶしてやろう。
宗一郎の言葉に、気まずそうに俯いていた二人の顔が、瞬時に明るくなった。
「え…いいの?」
「ああ。家に母さんがいるけど告げ口なんかしないから大丈夫。悠の好きな星の本もたくさんあるよ」
ーーぐっちゃぐっちゃに握り潰して兄さんに見せてあげたい。
兄さんが触れられなかった愛しいものを、届けてあげよう。
「さぁ行こう」
「うんっ」
ーーその笑顔を真っ黒に。