二人はいらない
太陽の光を遮る鬱蒼とした木々の下、宗一郎は色褪せたベンチに座りながら、
静かに目を閉じた。
『ようやく一人になれた』
それがこんなに気持ちの良いものだとは。
先程までの不安定な状態が落ち着いて行く。
宗一郎は深く溜め息を付くと、空を仰ぎ、木漏れ日の隙間から覗く青空に目を細めた。
それは数分前の出来事などなかったかの様に、安らぐ時間。
数分前。それは桂一郎が宗一郎を置き去りにして出て行った後——。
「放せよ……っ」
宗一郎はそう叫ぶと、縋り付く母親の手を乱暴に振り払った。
「何するの?どうしたの宗一郎……」
母親の怯えたような目が纏わり付く。
「お前が出て行けなんて言うから……っ兄さんが……っ」
そう叫ぶと、宗一郎は握りしめた拳を壁に力一杯叩き付けた。
(お前のせいだ……っお前がいるから——)
「出て行けよ……っ」
込み上げる怒りが拳を震わせた。
「宗一郎落ち着いて……」
「うるさいっ出て行けって言ってるだろ……っ」
「ひ……っ」
宗一郎は差し伸ばされた母親の腕を乱暴に掴むと、部屋のドアを開き、無理矢理部屋の外へ押し出した。
「宗一郎お願い、話を——」
「出て行け……っ」
(何もかも。リセットしなければ——)
溺れるような感覚が首元まで迫っていた。
宗一郎は抵抗する母親の背中を扉の外に押しやると、その存在を断ち切るように力一杯扉を締めた。
「宗一郎……っ」
まだ扉の向こうで母親の声がした。
呼吸が乱れる。興奮した心臓が胸骨の奥でのたうち回る。
宗一郎は大きく息を吸い、咽の奥に溜まった唾を飲み込むと、指を震わせながら扉に鍵を締めた。
(——絶対許さないと言ったじゃないか)
舵を失ったような不安定感に、急降下するような恐怖が込み上げる。
『なら、ちゃんと償って行けっ……僕と一緒にいろよ……っ』
そう叫んだ言葉に、兄は答えなかった。
母親といろと、そう答えた。
あの部屋を燃やした時、兄の意識の全ては宗一郎に向けられたはずだった。
だがその怒りは母親の存在を意識した途端、勢いを失った。
宗一郎への怒りよりも、母親への後ろめたさがそうさせたのか。
「……逃げるなよ……っ」
そう吐き捨てると、宗一郎は脱力した様にそのままずるずると扉の前に座り込んだ。
昔はそうじゃなかった。
勉強も運動も優秀だった二人を、近所の人々は口々に羨ましいと褒めた。
母親も嬉しそうに、優秀な二人の息子を自慢していた。
そして桂一郎も宗一郎も、母が喜ぶ事を一生懸命にした。
同じ顔をしている事は切磋琢磨する理由にもなった。
『兄さんよりも僕の方が』
そうなれば母親も喜んだし、兄も『凄いな』と褒めてくれた。
だがいつからか兄が競い合いをやめた。
口数が減り、部屋に閉じこもる様になった。
そして言ったのだ。
『優秀なのは二人もいらないよ。……母さんはそれで充分だから』
そう言って扉に鍵を締めた。
(僕の事は……?)
(僕の気持ちはどうなるんだ。なんにも見ないで気付かないで——また閉ざすのか)
宗一郎はふらりと立ち上がると、ベットの上に身体を横たえた。
階下で母親が電話をかけている。
ダイヤルを回す指が震えているのか、がちゃがちゃと何かぶつかるような音が聞こえる。
だがやがて、——その音はしなくなった。
「……あなたお願い、早く帰って来て」
助けを求めるような母親の声が、静まり返った家の中に響く。
——相手はもちろん父親だ。
だが海外へ出張に行っている父親がすぐに帰って来れるはずもない。
それは本人もわかっているはずなのだが、それでも母親は、酷く動揺した声で受話器に向かってわめき続けている。
「あなた宗一郎が……宗一郎までおかしくなってしまって……っ」
耳に付く甲高いその声は、宗一郎を苛立たせた。
(想いの全てを曝け出した結果がこれだ)
(一切を受け入れない母さんの目には僕が狂ったとしか映っていない)
じりじりと沸き上がる怒りには出口がない。
けれどそれは止めどもなく沸き上がり、脳内を駆け巡る。
階下から聞こえる母親の声はいちいち胸に突き刺さった。
(宗一郎までって——兄さんと同じ扱いかよ)
(……僕の何処がおかしいって?)
そう思いながら宗一郎は微かに笑みを浮かべた。
(……おかしくなんかない。ただ僕は——)
『行かないで……お願いよ宗一郎……っあなたまで母さんを一人にするの?』
そう言った母親は、今、息子がおかしくなったと父親に助けを求めている。
(——冗談じゃない)
宗一郎はベットから飛び起きると、乱れたシーツを握りしめた。
(何を我慢する必要がある?母さんも兄さんも自分勝手に押し付けているだけじゃないか)
「宗一郎っ?どこへ行くの……っ」
突然部屋を飛び出し、階段を駆け降りて来た宗一郎の姿に、母親がまた縋り付く様に叫んだ。
だが宗一郎は後ろを振り返る事もなく、無言のまま家を飛び出した。
(兄さんが僕が動かない事をいい事に、僕を振り返る事無く自由に生きるなら……)
(僕はその先に回って気付かせるだけだ)
腹の底に溜まった鬱憤が腐敗してゆく。
宗一郎は『誰もいない場所』を求めて、家から一番近い公園に駆け込んだ。
宗一郎の思った通り、公園には誰もいなかった。
手入れのされていない、木々が鬱蒼とした薄暗い公園。
近所でも変質者がよく出没すると言われている場所だった。
その為か、最近ではこの公園を利用する者はほとんど見かけなくなった。
(兄さん……どこへ行ったんだ)
桂一郎の行きそうな場所など、思いつきもしなかった。
唯一の場所だと思っていたあの部屋を燃やせば、行く手を阻めると思っていたのに。
(一体どこへ——)
その時ふと、宗一郎は人の気配を感じた。
(兄さん……?)
だが視線を向けると、そこには予想もしなかった人物が立っていた。