想い
「悠……俺……」
そう呟いた隆弘は、言いかけた言葉をためらう様に息を吸い、俯いた後再び顔をあげると、真剣な眼差しで悠を見た。
「……隆弘?」
こんな顔を見るのは初めてだった。
———今までの様な、幼馴染みと言う気楽な間柄から一歩深みに足を入れてしまったような感覚に、悠の想いはぎこちなく揺れた。
両肩を掴む隆弘の手は痛みを感じる程だった。
がっしりと皮膚の上から骨を掴むような指の感触。体温を感じるような近さ。
その感覚は以前、強く願った事がある様な気がした。
(ああ……あの時)
事故の後、あの場所でたった一人だった時。
恐怖に怯えた震えるような心が叫んだのは、隆弘の名前だった。
『早く——早く来て!……隆弘!隆弘!早く、早く助けて……!』
喉元に迫る息苦しさに、絶望の泥に呑まれて死にそうだった。
『助けて!早く……』
(そうだ。あの時僕は、今目の前にあるこの状態を心から求めていたんだ)
隆弘は見つめ合う悠の瞳が、ゆっくりと優しさへ変化したのを感じた。
それは自分が起こした行動を拒絶するものではなかった。
「悠……」
隆弘は引き寄せた悠の身体を強く抱き締めた。
隆弘の鼻先に、悠の風のような髪の匂いが触れる。
強く抱き締める隆弘の胸の中で、悠はずっと怯えていた心が柔らかく解けてゆくのを感じていた。
「……あの時……僕は死にそうだったんだ。……遅れても来てくれて嬉しかった」
隆弘の胸に顔をうずめながら、悠は息をする様にそう言った。
悠のその言葉に、隆弘の脳裏にあの日、真っ白な顔をして立ち尽くしていた悠の顔が浮かんだ。
「……ごめん……」
隆弘はそう言って抱き締める腕に力を込めた。
その胸の中で、悠は小さく首を振った。
「……迷子の……男の子がいたんだ……」
そう呟いた悠の手が、遠慮がちに隆弘のシャツを両手で掴んだ。
その手は蘇る記憶と戦う様に、小さく震えながらその皮膚が白く浮く程力が込められていた。
シャツを握る悠の手が震えているのを感じながら、隆弘は悠が途切れ途切れに語ったその真実に、言葉を失った。
それはまさしく悪夢だった。
その子と直前まで関わっていた事実。母親の悲鳴。——目の前で起きた事故。
でもそれは悪夢ではなく現実なのだ。
あの日——悠の身に起きた悲劇。
——それを自分に起きた事と想像した隆弘は、まるで身を切られるような痛みを感じた。
悠がどんな想いでそれを語ってくれたのか。
その言葉を紡ぐのはどんなに辛かっただろう。
『自分が悠に強要した事は、悠にこの痛みを振り返すだけの、身勝手な想いだったのではないか』
そう思うと後悔のような想いが胸を刺した。
「……思い出させてごめん」
心からそう言って隆弘はもう一度強く悠を抱き締めた。
すると悠はそっと顔を上げ、「いいんだ。……今は隆弘がそばにいるから怖くない」
と哀しげに笑った。
その時、始業のチャイムが鳴った。
「……良かったな。隆弘」
背後から聞こえたその声に、二人ははっと我にかえった。
「あ……っ琢磨」
琢磨の存在をすっかり忘れていた事と、一気に蘇った恥ずかしさに、隆弘は思わず悠を抱き締めていた手を放した。そしておそるおそる後ろを振り返った。
そこには呆れた様に腕を組み、壁にもたれて立つ琢磨の姿があった。
「……忘れてたろ俺の事」
にっこりと笑いながらそう言った琢磨の声は、気持ちが悪い程優しかった。
「あっ……いや」
「いいよ。お前が悠の事好きなの知ってたし」
「えっ……ちょ……っ琢磨」
琢磨が突然まだ伝えていない秘密をさらっと口にした事に、隆弘は目を丸くした。
「なっ何言って……」
慌てる隆弘をにやりと笑いながら、琢磨はすっと隆弘の後ろで恥ずかしそうに横を向いていた悠に歩み寄った。
「悠も———」
「え……っ」
突然琢磨に肩を抱き寄せられ、驚いた悠が思わず振り返ると、そこにはまた物凄い近さで琢磨の顔があった。
「ち……っ近いよ琢磨……っ」
「いいだろ別に。でも……そんな事があったなんてお前も大変だったんだな」
悠よりもいくらか背の高い琢磨は、そう言うと子供をあやす様に悠の頭を優しく撫でた。
「やっと少し顔が明るくなったな。でももうあんまり我慢するなよ。……ちゃんと聞いてやるから」
優しくそう言うと、琢磨はおもむろに部屋の扉を少し開け、その隙間から廊下の様子を伺った。
始業のチャイムが鳴ったせいで、廊下に人影はなかった。
「隆弘、次の時間体育だからお前ら二人で帰っちゃえよ。担任には二人とも具合悪くて早退したって言っておいてやるから」
「……えっでも」
「せっかく寄りが戻ったんだ。もう少ししっかり繋いでおけよ」
琢磨はそう言って廊下に出ると、戸惑う二人に向かって手をひらひらと振った。
「ちょ……っ琢磨本当に行っちゃうのかよ」
「情けない声出すなって。鞄はあとで届けてやるから。じゃ、俺先に戻るからな」
そう言うと、琢磨は茶室の引き戸を閉める音に気を付けながらさっさと出て行ってしまった。
琢磨がいなくなった後の部屋は、ぎこちない空気だけが残った。
つのった感情のまま抱き締めてしまったが、我にかえると一気に恥ずかしさが込み上げた。
それは悠も同じだったらしく、沈黙に耐える様に腕を組んで、何もない部屋の隅を気まずそうにじっと見つめている。
隆弘は固まりつつある雰囲気を払拭する様に息を深く吸い、吐き出すと、思いきって言った。
「琢磨もああ言ってくれたし、……帰ろうか」
「……隆弘が帰るなら…」
隆弘は恥ずかしそうにぼそりと呟いた悠の声に小さく笑うと、そっと悠の手を引いて部屋を出た。