距離
「……いいか琢磨。これは物凄いデリケートな話なんだ」
煩い廊下を避けて、二人は普段使われない和室に身を潜めた。
ここはPTAのお茶会か、茶道部の授業意外使われない。
真面目な話をするならここが一番良いと思った。
「……デリケート?悠とお前の仲がって事か?」
和室の小上がりに腰掛けながら、琢磨はからかうような口調でそう言った。
——本当は他の誰にも関わって欲しくなかった。
悠の生傷を、本人不在で第三者に晒すのはやはり気が引ける。だがやはり、このまま悠との仲が凍結したままなのも嫌だった。
自分の力で何とかしようとしたが、結局何も出来ないまま四年が過ぎてしまった。
鈴木琢磨が突然二人の中に入って来た事に、始めは嫌悪感を感じていたが、内心、ほっとしている自分がいたのも事実だった。
それにこいつは頭がいい。何かいいアドバイスをくれるかも知れない。
でもやはり本人不在である以上、悠がまた発作を起こすような事態は避けたほうがいいだろう。
「……隆弘?」
考え込んで思わず無言になってしまった隆弘に、琢磨は怪訝な顔をして声をかけた。
「あ、ごめん……」
琢磨は悠の発作を知らない。
知らずに地雷を踏む事だけはして欲しくない。
話すなら隠さず全てを打ち明けるべきだろう。
「……何だよ。そんなに深刻な事なのか?」
隆弘の顔色を伺っていた琢磨が、いつまでも言葉を選んで中々話し出さない隆弘を見て、少し苛だった様にそう言った。
「え……っまぁ……」
隆弘は中途半端な返事をして、唇を噛んだ。
言葉を選ぶのが精一杯で、説明するにしたってテンポが悪すぎる。……司会進行はやはり琢磨の方が優秀らしい。
「とにかくさ、悠変わったよ。前から少し思ってたけど、久し振りに同じクラスになってみて本当にそう思う。……幼馴染みのお前なら何か知ってるだろ」
琢磨はそう言うと、小上がりに座ったまま腕組みをして隆弘を見上げた。
年下で、小柄な癖に態度は同等以上だ。
琢磨は目蓋にかかる前髪の隙間から隆弘を睨んだ。
「……まぁ……多分あれかなって言うのはあるけど……でも」
琢磨の迫力に押されて、つい言葉を漏らした隆弘は、悔し紛れに何かを言いかけた。
「?何だよ」
「お前こそ何でそんなに悠の事聞いてくんだよ。学級委員としてなら放っといて——」
そう言うと、隆弘は気まずそうに下を向いた。
琢磨がそんな事で悠の事を心配しているのではない事くらいわかっていた。
ただ何故だか、自分と悠の間に第三者が入って来る事への違和感が消えなかった。
「……はぁ?」
その呆れたような琢磨の声に、隆弘は緊張気味にちらりと琢磨を見た。
悪気があって言った言葉ではなかったが、やはり少し気が引ける。
だが琢磨は、隆弘のそんな心配など全く気にしていない様に、少し馬鹿にしたように鼻で笑うと、首をかしげて言った。
「何言ってんだよ。単純な話だろ。……だってあいつ笑うと可愛かったじゃん。元気ないの嫌なんだよ。……お前だってそうだろ」
琢磨の言葉は、隆弘には衝撃だった。
さらりと言ったその言葉は隆弘がずっと悠に対して思っていた事だ。
部外者だと思っていた琢磨が、自分が思っていた事を簡単に口にした事に、少しむっとはしたが、
これで気持ちの確認は取れた。こいつになら話しても良さそうだった。
「……『多分あれかな』って、何か思い当たる事があるのかよ」
ようやく本題に入れる事を察知したのか、琢磨は扉の入り口に立ったままの隆弘に隣に座るよう
手招きをした。隆弘は言われるまま琢磨の隣に腰を下ろし、少し緊張気味に唾を呑み込んだ。
「……ずっと前にデパートの前で事故があったの知ってるか?」
「ああ、子供が死んだってニュースになったやつ?」
「うん。それであの日……その時デパートの屋上でやっていたショーを見に行こうって悠と待ち合わせしていて、……悠のやつその現場にいたんだ。……多分見たんだと思う」
「斉藤君、ちょっとお願いしていいかしら」
突然かけられた担任の先生の声に、悠は本の文面に落としていた視線をあげた。
「……何ですか」
「次の時間に使う習字道具、和室に置いて来ちゃって。今ちょっと手が離せないから取って来てもらえるかしら」
そう言った担任の手には前の時間に提出したノートがどっさりと抱えられ、本当に急がしそうだった。
「あ、はい」
悠はそう返事をすると、読んでいた本を閉じて席を立った。
教室の中は耳に障るきぃきぃと言う甲高い女子の話し声と、駆け回る男子の靴音。
その中に隆弘の姿がない事に気付いてはいたが、何処へ行ったかはわからなかった。
隆弘の事だ。どうせ校庭に出てサッカーでもしているのだろう。
廊下に出ると、開け放たれた窓から強く風が吹き込んで来た。
差し込んだ眩しい光が、汚れた廊下に白く照りつけている。
悠は校庭が覗める窓からちらりと隆弘の姿を探した。
隆弘の大きな声は、聞こえればすぐにわかるはずだったが、はしゃぐ声の中にそれは聞こえなかった。(……何処へいったのだろう)
あれ以来隆弘と距離が離れてしまった事は、悠の中に深く溝を刻んでいった。
隆弘にショッキングな場面を見せて、恐怖を与えてしまったのは自分のせいだと、だから隆弘が自分に距離を置く様になったのは仕方のない事なのだと、納得していたはずだった。
でもやはり何処かで隆弘の存在を視界に入れておきたかったのかもしれない。
それはもう癖の様になっていた。
和室は三階にある教室から一つ下がった二階にあった。
ここはPTAのお茶会か、茶道部の授業意外使われない。
悠自身もこの部屋に来るのは久し振りだった。
(早く用事を済ませてあの頁の続きを読もう……)
そう思いながら扉の取っ手に手をかけたその時だった。——部屋の中から聞き覚えのある声がした。
「小さい子が死ぬの目の前で見たら……そりゃショックだよなぁ」
「俺は待ち合わせに遅刻したから、真っ白な顔で立ち尽くしてた悠しか見てないんだけど……多分それが……」
「……悠が暗くなった原因?」
「いや、それもあるんだけど……何かそれが……トラウマ、になってるみたいで。
俺も悠の事はずっと気になってたから、前に話を聞こうとした事があったんだけど——そうしたら悠のやつ急に真っ青になって過呼吸で倒れたんだ」
それは隆弘と鈴木琢磨の声だった。
一気に手の平が汗ばみ、握りしめた拳が震えた。
(何で……何でそんな話を——)
「……倒れた?」
「ああ。がたがた震えて……本当に死にそうになって……」
あの時の情景を口にしただけでも胸が詰まった。
蘇る緊張感に指先が冷たくなってゆく。
「……お前がその場に行く前の事を聞いたら倒れたのか?……なら、原因は子供が死ぬ前にあった事なんじゃ……」
琢磨がそう言いかけたその時だった。
何の前触れもなく、誰も入って来ないはずだった和室の扉が突然勢い良く開いた。
突然開いた扉に二人が振り返ったその瞬間、隆弘の中に嫌な予感が走った。
予期していた訳ではない。ただそうなる事を恐れていた。
だが目の前に——
「……やめろっ隆弘……っ」
拳を握りしめて立つ悠の姿があった。