行かないで
「……は?何を言っているの宗一郎」
『——訳がわからない』
その瞬間、青冷めた母親の顔は醜く歪み、その唇からは今にもそんな言葉が聞こえて来るようだった。
怒りに握りしめられた拳が、その行き場を失って小刻みに震えている。
「本当だよ。ねぇ……兄さん?」
始めて見る母親の表情に、宗一郎は思わず口端に笑みを浮かべた。
「あんな部屋燃えた方が良かったんだ。母さんだってあの部屋を邪魔に思ってたじゃない」
そう言いながらゆっくりとベットを下りた宗一郎は、怯えたような顔で後ずさった母親の横を通り過ぎ、壁にもたれたまま動かない桂一郎の前で立ち止まった。
「……抜け殻みたいだね」
宗一郎の眼下にいるそれは、宗一郎の言葉に何の反応も見せない。
まるで修復中のロボットの様に一点を見つめ、その視線は閉ざされた扉に向けられたままだった。
「……こっち見てよ兄さん」
その場にしゃがみ込んだ宗一郎はそう呟くと、ふらりと右手をあげ軽く桂一郎の頬を張った。
パンッ——乾いた衝撃音に凍り付いた母親の肩をびくりと跳ね上がる。
突然頬に走った軽い痛みは、深層に逃げ込んだ桂一郎を無理矢理呼び戻した。
「……宗……?」
痛みを感じた方向に目をやると、再び宗一郎の平手が頬を打った。
「——っやめ……っ」
「あんなの燃やしたくらいで何でそんなにショック受けるんだよ……っ」
三度目に振り上げた宗一郎の手を掴んだ瞬間、宗一郎の怒りに引きつった声が一瞬、涙声に聞こえた気がして桂一郎は動きを止めた。
「僕は兄さんに殺されかけたのに……っあいつは何の痛みも感じないまま、まだ兄さんの心に残っているんだろ?」
桂一郎に掴まれた手を乱暴に振払うと、宗一郎は吐き捨てる様にそう言った。
「そんなの……ずるいじゃないか……っ」
「ずるい?……お前何言って——」
バンッ
怒りに任せて壁に叩き付けた拳が、大きな音を立てる。
張り詰めた緊張感に静まり返った部屋。
「兄さんが大切にしてる物なんか全部壊してやる……っ」
従順で素直だった宗一郎の突然の変貌に、桂一郎は思わず言葉を失った。
大人しくて、何でも言う事を聞く弟。そんな印象が一気に崩れて行く。
『自分に注目してくれないから玩具を壊した——』
宗一郎の事は、確かに従順さを逆手にとってうまく利用していたかも知れない。
だがそれはお互いに納得した上での関係ではなかったのだろうか。
血走らせた目に涙を溜めたこれは——まるで(子供……)
「何だよ……っ馬鹿にしたような目で見やがって……っ」
突然両腕を掴み、体重をかけて覆い被さって来た宗一郎に、桂一郎は何の抵抗も出来ないまま床の上に押し倒された。
「い……って何すんだ……っ」
右腕で力一杯宗一郎の胸を押し退けようとしたが、日々真面目に大学に行き生活している健康な男に、年中引き蘢りの桂一郎が力でかなうはずがなかった。
同じくらいの体格のはずなのに、抵抗が馬鹿らしくなる程桂一郎は無力だった。
「何だ……案外兄さん弱いんだね」
「……っちっくしょ…っ離せよ…っ」
自分の下で非力にもがく兄を見て、宗一郎はじわじわと自分の中にサディスティックな感情が沸き上がるのを感じていた。
「こんなだったらもっと早くこうすれば良かったな……」
「いい加減にしろっ宗……っう?」
桂一郎がそう叫んだ瞬間、その言葉は突然降って来た宗一郎の唇に閉ざされた。
噛み付くような力ずくのキスは、戸惑う桂一郎を構わずに粘膜にまで舌先を入れて来た。
生暖かい、ざらついた異物が自分の口腔内を這い回る感覚に背筋が寒くなる。
桂一郎は思わず首を振り、無理矢理宗一郎の唇を引き剥がした。
「……っ」
「な……っ何考えてんだ……っ」
そう叫びながら、桂一郎の唇は震えていた。
ショックもある。だがそれよりも暴走し始めた宗一郎の独占欲に恐怖を感じ始めていた。
「……何で?兄さんが悠に抱いた妄想と同じ事じゃないか」
「何……」
「兄さんなら良くて……僕が兄さんにそうしたいって思うのは何でだめなんだよ」
(こいつ……聞いて……?)
あの部屋に入るなと行った日から、誰もあの部屋の入らなかったはずだ。
宗一郎ももちろん入りはしない。……だが自分が部屋にいる時は必ず部屋にいた。
あの、悠の写真を手に妄想に耽る情景を……宗一郎は壁一枚を挟んでイメージを楽しんでいたのか?
「……宗……お前」
自分に向けられている思いが『無垢』や『純粋』ではない事だけははっきりしていた。
見下ろす宗一郎の視線がゆっくりと歪むのを見つめながら、桂一郎は恐怖に似た感覚に眉を顰めた。——その時だった。
「ね、あ……あなた達何をやっているの?お母さんに説明して頂戴……」
その声に、二人は一気にリアルに戻された。
その声のする方に視線を向けると、いつの間にか宗一郎の背後に青冷めた母親が立っていた。
「母さん……」
宗一郎はそう言うと、小さく舌打ちをしてゆっくりと桂一郎の上から身体を退かし立ち上がった。
そして桂一郎も身体を起こし、母親の視線から目を反らしたままその場に座り込んだ。
「悪いけどお母さんにはあなた達の言っている事がわからないわ。でも『悠』ってもしかしてお隣の……」
「母さんには関係ないよ」
初めて知る情報の多さに、母親は動揺を隠し切れない。
助けを求める様に、母親はそう言ってそっと宗の肩に触れようとしたが、その指先は宗一郎の冷めた一言にぴしゃりと跳ね返された。
「母さんには関係ない。これは兄さんと僕の問題なんだ」
『——邪魔すんな』
二人が幼い頃に、何度か向けられた事のある野生のような視線。
獣のような本能が暴発する直前に、それを止めようとした時に向けられた鋭い眼差し。
「……何でそんな事言うの?」
そんな幼ささえ感じる視線を、何故今更向けられなければいけないのか。
母親は信じられない言葉を耳にした様に、目を見開いた。
今まで一度もそんな態度を取った事のない、優秀で優しい自慢の息子だった。
引き蘢って何をしているのかわからない兄よりも、真面目に大学へ行き、健康的に生活を送っている宗一郎の方が、何よりも安心出来て信用の置ける人物だったはずだ。
それがどうしてこんな事を口走る様になってしまったのか。
「……桂一郎に影響されたのね?……あなたはそんな子じゃなかったもの」
——そうだ。桂一郎には早々に出て行ってもらえば良かったのだ。
母親は突然暴れ出した獣をなだめる様に、怯えながらもそっと一歩近付いた。
目の前で強く握られている拳の中から、この子を押し潰そうとしているストレスを取り除いてあげなければ。
ああ、きっと愛情が足りなかったのだ。
そうだ。幼い頃の様に抱き締めてあげよう。
母親は手を伸ばし、そっと宗一郎の拳に触れた。
だがその瞬間、嫌悪に満ちた叫びと共にその指先は宗一郎の手に寄って激しくたたき落とされた。
「さわんな……っ」
「え……」
「……母さんはいつもそうだ。兄さんの悪口ばっかり言って。……僕が母さんの思い通りにならない時は全部兄さんの悪影響だって言うのかよ……っ」
宗一郎は母親に向かってそう叫ぶと、そのまま部屋の扉の前に駆け寄った。
「こんな家いつだって出て行ってやるさ。どうせ顔は同じなんだ、入れ交わったって母さんの気にする世間体はきっと保たれるだろ」
そう皮肉そうに口端を歪め、宗一郎がドアノブを力を込めてひねったその時だった。
「……お前は残れ」
低く響いた声が宗一郎の動きを止めた。
その声の方に視線を向けると、床の上に座り込んでいた桂一郎が、いつの間にか立ち上がって真直ぐに宗一郎を見ていた。
「……何で」
「やっぱり俺はもうここにはいられない。……お前は母さんのそばにいてやってくれ」
桂一郎はそう言いながら扉の前まで近付くと、ドアノブを握る宗一郎の手の上に手の平を重ねた。
その瞬間、緊張が走った様に宗一郎の手がぎゅっと締まり、そしてゆっくりとドアノブから離れた。
「——はぁ?どう言う事だよ。俺に押し付けてまた兄さんだけ自由に生きるのか?」
ドアノブを明け渡した宗一郎は、沸々と沸き上がる感情を押さえ切れない様に、桂一郎に向かって思いを叩き付けた。
「違う……俺は散々母さんに迷惑をかけたから……」
「ならちゃんと償って行けっ……逃げないで僕と一緒にいろよ……っ」
同じ身長に同じ顔。
同じ高さで視線がぶつかる。
双児だからなのか、お互いをつなぐ共同ケーブルが敏感に激しく反応する。
限り無く増幅する感情に、息が詰まりそうになる。
「……どちらが出て行くかは母さんが決める事だ」
桂一郎は静かにそう言って扉を開けた。
宗一郎は声も、動く事さえ出来なかった。
「……お願い宗一郎、行かないで……っ」
強く掴まれた母親の手の中で、宗一郎は拳がゆっくりと汗ばんで行くのを感じていた。