理由
「私が追っている精霊がこの部屋から感じ取れました。もし御不快でなければ部屋の中を見させてもらえないでしょうか?」
ジョゼはなるべく男を刺激させないように気を使って聞いた。けれど、少し大胆に部屋に入ることの許可もお願いする。
男の服装から言って貴族ではなくその貴族の従者であろうと判断したことでの大胆さだった。
「あ、ああ、いいだろう。見てくれ」
男は動揺を見せまいとして平静を装って、ジョゼを部屋に招き入れる。
庶民の家の一室に比べてかなり広い部屋だった。部屋の中央に大きなベッドがあり、そのすぐそばに鏡台と椅子、そして、今はカーテンで遮られているが部屋の中で一番目立つ大きさの窓があった。カーテンを広げれば窓の外にはきっと、眺めの良い景色が広がっているのだろう。
アテナは部屋の隅に小さく座っている。彼女の両足は枷ではめられ、鎖がつけられていた。
ジョゼが目線を向けると初めは驚いた様子を見せて、何か言いたそうにしていたが、それもすぐに何事もなかったかのように無表情になって下を向いてしまった。
――必ず助けるから、待っててねアテナ。
ジョゼは心の中で彼女に話しかけた。
この部屋からひとまず出てから、救出方法を考えよう。ジョゼはそう思うと、さっそく一芝居打ってみようと行動を起こした。
壁を目でなぞるようにして、動かしていく。そして、ジョゼはある一点を見つめた。
「どうだ? その、精霊はどんな感じだ? 危ないのか?」
「今精霊は……あ、ああ! しまった!」
ジョゼは大げさに嘆いてみた。まるで、自分の目にはその危険な精霊が見えているんだとばかりに。
「な、なんだ! どうしたんだ?」
「隣の部屋に逃げてしまいました」
「逃げたのか? なら、もうこの部屋にはいないんだな?」
「はい、この部屋はひとまず安全だと言えます。では、私はこれで失礼いたします。お騒がせして申し訳ありません」
「ひとまず? ま、まぁ、この部屋が安全になったんならいいんだ」
本当に危ない精霊がこの部屋に出たのなら、精霊が少し移動しただけでは危険が去ったことにはならない。本来ならこの宿全てから人を避難させなければいけないのだ。
男はアテナをちらりと見ると、用が済んだのならさっさと出て行けと言わんばかりの仕草でジョゼを追いだした。
ジョゼはこの男の目線でアテナが監視されていると分かった。
追いだされたジョゼは廊下から談話室に向かった。談話室で心を落ちつけてから考えをまとめようと思った。
談話室の豪華でふかふかの椅子に座ると、ジョゼの居た談話室にゆっくりと近づく声と足音が聞こえた。
談話室の横を通る二人の武装した男が、廊下を歩きながら話し合っている。
「明日は昼までに港に着かなければならないから、今日は伯爵様も早くお休みになられるそうだ」
「じゃあ、今夜はお貴族様のわがままにつき合わなくてすむってことだな。よかったよかった」
「めったなこと言うんじゃない。伯爵様の従者がどこで聞いているか分からないぞ」
「大丈夫さ。別に俺たちの会話なんか聞いてやしないって」
――何だって! 明日の昼にはアテナがここから連れ去られてしまうだって!?
男たちの不用心な会話を聞いたジョゼは、一刻も早く行動しなければと立ち上がった。
あまり良い案は思いつかなかったが、最終的には監視している男と戦ってアテナを救おうと考えた。
談話室を出たジョゼはすぐに先程のアテナと男のいる部屋まで行こうとした。
しかし、ジョゼが足を一歩踏み出したとき――
「どこに行くんだ? ジョゼ」
突然、後ろから自分を引きとめるアルダの声がかかった。
「し、師匠! ……どうしてここに……」
「オレがお前をこれで探したからだ。これが分かるな? コブの店でお前がもらったものの自然精霊だ」
アルダが肩掛け鞄から取り出したのは、丸い手のひらサイズの籠に入った『導き』だった。
『導き』はジョゼの持っている琥珀の中にある外見とは違い、青い羽根に白い触覚が二本うねうねと動いている姿をしていて、籠の中でふわふわと浮いていた。
「オレは、お前が用事を済ませたらすぐに待ち合わせの場にやってくるとは思っていなかった。残ったお金は好きに使えとも言ったから、少しは遅くなるだろうことは分かっていた。……しかし、街の門が閉まるまで遅くなるとは考えつかなかった。お前こそどうしてこんなところにいる?」
アルダは淡々と話していたが、その声音には静かな怒りが含まれていた。けれど、アルダはジョゼの勝手な行動の理由を聞かずには怒るつもりもないようだった。
「……あ、その………」
ジョゼはどう話したらいいか分からなかった。師匠がここまで弟子に寛容だったことにも驚き、今までの自分の身勝手さを恥ずかしく思った。
じっと、アルダがジョゼを待つ。
ジョゼは泣きそうになった。けれど、ここで師匠に何も言わなければアテナを助けることさえあきらめることになる。
そして、ジョゼは意を決してアルダに打ち明けることにした。自分が今まで何をしていたのか、それから自分がこの後何をしようとしていたのかを全てアルダに話して聞かせた。
気持ちを高ぶらせないように慎重にジョゼは話す。話し終わると、アルダは納得したというように頷き、ジョゼに厳しい視線を送った。
「そうか、お前がその奴隷を助けるためにここまで来たということは分かった。しかし、だかららと言って師であるオレを無視してやっていいということにはならない」
「はい、本当に申し訳ありませんでした」
「よし、分かっているのならいい。では帰るぞ」
くるりと後ろを向き、アルダはそのまま帰ろうと歩きだそうとする。
「え!?」
「何だ?」
「…………」
言いたいことを我慢した表情を浮かべてジョゼが立ちつくしていると、アルダは何も知らない子供に教え諭すように言った。
「いいか、ジョゼ。人の奴隷を盗ったら犯罪なんだ。そこにどれだけの理由があろうとも、今お前がやろうとしていることは助けているのではなく盗人なのだ」
「ぬ、盗人……」
盗人……そんなつもりなんてなかった。ただアテナを助けられればそれでいいと思っていた。
自分は何でこんな当たり前のことにも気付かなかったのだろうか。
「そうだ。だからあきらめるんだな。さ、帰るぞ」
アルダはそう言うと再びジョゼに背を向けた。
師匠のあとをのろのろと歩いて、ジョゼはこのままでいいんだろうかと考えた。
アテナと初めて会ったのは街中だった。彼女は自分が奴隷だとわかっていないかのように公道を堂々と歩いていた。とても目立つ姿をしていたので、すぐにその少女がアテナだと思い出せたし、追われていると分かると同じ奴隷だからという気持ちで助けることにしたのだ。
ひとつ不思議だったのが、何故あんなに道を奴隷だと意識もせずに歩いていられたのか。そして同時に彼女は主人のもとから逃げてきたのだろうと思った。主人のもとから逃げたいと思うのは奴隷であれば誰でも持つ気持ちだ。自分も奴隷として扱われないことはきっとどの奴隷よりも良いことだが、それでもやはり故郷には戻りたいと思う。
しかし、ほとんどの奴隷はよっぽどのことがない限り、逃げるなんて恐ろしいことはしない。逃げきるなんて無理にひとしく、まして逃げ切れても一生追ってにおびえながら奴隷としてこそこそ暮らさなければならない。そんな人生を送るのなら、主人に奴隷から解放される日まで我慢して仕えるほうがいい。生涯奴隷で終わることなどこの国では顔に入れ墨のある奴隷以外ありえないのだから。
けれど、アテナはそんなひどい人生を歩む覚悟を持つほどに、逃げたいと思ったのだ。それは彼女の主人が最悪な人物だったのか、それとももっと違う別の逃げなければいけない何かがあったのか。
ジョゼはそんなアテナの思いを想像して、本当にこのまま去っていいんだろうかと自分に問うた。
それに彼女はまだ知りあって少しだが、何故かずっと前から友達だったような気がしていた。アテナが連れ去られてすぐに助けたいとも純粋に思ったのだ。
本当はこのまま師匠の言う通り帰るのが正しいのだということはジョゼには分かっている。
――だけど、このままアテナを見捨てたら…………僕はアテナにまた初めて会ったときと同じ自分で会えるの?
そして、アテナにはもう会えないかもしれない。アテナの笑顔はもう見れないかもしれない。そう思うとジョゼの心には再び熱い思いが湧いてきた。
「……んなの……やだ……」
「立ち止まるな。歩け」
「嫌です! 師匠! それでも僕は彼女を助けたいんです!」
ジョゼはアテナを助けたいと口に出すと、よりも強く彼女を思う気持ちが増していった。
アテナの別れ際の顔を思い出して、絶対に師匠を説き伏せなければと思った。
「……お前は自分が何を言っているのかわかっているのか? オレがせっかく許してやろうとしているのに、その思いまで無視し師匠にたてついている。しかもただたてつこうとしているのではない。これから盗みをすることをオレに許してもらおうとまでしている。ありえないな」
アルダは落胆したように頭を振った。
ジョゼは師匠の気持ちを踏みにじっていることを自覚していた。しかし、それでも言わなければいけなかった。ここで彼女を見捨てては行けないと思った。
先程とは違う強い光をたたえたひとみのジョゼを、渋い表情でアルダは見下ろす。けれど、彼はしばらくしてため息をひとつはいた。
「オレは暴力は好きではないが……仕方ない」
アルダはそういうやいなや、突然ジョゼの腹に拳を叩きこんだ。
「!? し、しょ――」
ジョゼは最後まで言葉を言えずに再び意識を失った。
アルダは倒れこむジョゼを支え、肩に無言で担ぎ、ジョゼが落とした棒を拾った。
「もう会えないかもしれないけれど、またね」
アテナはジョゼに別れをつげ、笑顔で去っていく。
――待ってよ、アテナ! 預かっているものが返せないよ!
手を振る彼女を追い掛けても、一向に追いつかない。目の前をゆっくり走っているように見えるのに、全然距離が縮まらない。
まるで、ジョゼは自分が泥の中を走っているような気がした。
――待ってよ。そっちに行ったらだめだよ!
力いっぱい声を張り上げてアテナを呼びとめているのに、全く声が届かず、彼女は止まらない。
ジョゼはいくら声をかけてもアテナが絶対に振り向かないことを知っていた。けれど、それでも喉の力の限界まで言葉をかけずにはいられなかった。
次第に小さくなる彼女が走る先には二人の巨大な男が立っている。アテナは自分の前を邪魔する巨大な男に気付かずに走り、近づいていく。
――だめだ! 行っちゃだめだ! アテナァ!
その時、ジョゼはハッと目を開けた。目に飛び込んできたのは、灰色の見慣れない天井。
ガバリと起き上がると、しばらくあがってしまった息を整えていた。嫌な汗が体中から吹きだしている。
心が落ち着きをとり戻すと、ジョゼはこの見知らぬ部屋を見渡した。
灰色の石壁に申し訳程度に置かれたかしいだ椅子と足の細い貧弱なテーブル。その近く師匠と暮らすジョゼの部屋には絶対にありえない、カーテンのない小窓がひとつ。
一瞬何処だかわからず焦ったが、小窓から見える明るい灰色の街並みを見てここがオウダルの街だということに気付く。
そしてぼんやりとジョゼが思い出すのは、アテナを救えず師匠に腹を殴られて気絶してしまったことだった。
――あれからどのくらい経ったのだろう?
窓から射す日の光は柔らかい。外を歩く人もまばらで、通りの人のほとんどが街で忙しく働いていてる。
昼を過ぎているのであればもう少し、人の通りもあるはずだ。日差しもそれほど強くはない。まだ昼にはなっていないのかもしれない。
今が朝ならば、間に合うとジョゼは思った。
アテナの主人の貴族様が港で船に乗るのが昼だと言っていた。朝には街を出なければ昼までに港には着かない。
街をもうすでに出てしまっていても、それほど遠くには行っていないだろう。
こうしてはいられないとジョゼはベッドからはい出て、部屋を出た。が、途端にもう少し用心して出ればよかったと後悔した。
部屋の前にはアルダがいたのだ。アルダは水をはった金属のたらいとタオルを持っていた。
「起きたのか。起こしに来たのだが……顔はこれで洗え」
アルダがずいと差し出してきたものをお礼を言って受け取った。
――わざわざ師匠が起こしに来るなんて、今までなかったのにどうしたんだろう?
ジョゼはいつもと変わらない師匠の表情を見つめた。もしかして、ジョゼがアテナを助けに行くと見越して来たのだろうか。
「支度がととのったら、すぐに帰るからな」
アルダは少し声音を低くして言った。それはジョゼに案に「アテナのことは忘れろ」と言っていた。
ジョゼはアルダの帰るという一言に、カッと自分の中が熱くなるのを感じた。彼女への気持ちがまるで、湖に熱くて巨大な石を投げ入れられて沸騰するかのようだった。
「帰るなんて、このままアテナを見捨ててなんて、出来ません」
ジョゼははっきりとアルダの顔を見つめて言った。
「お前もあきらめの悪い奴だな。オレの言うことがそんなに聞けないのか? お前はオレが師だと本当に分かっているのか?」
「別に師匠を軽んじようと思っていたわけじゃありません。けれど、僕は彼女には絶対にもう一度会わなくてはいけないんです」
先程までの吊りあがった目から一変させて、アルダは目を細めて顔に困惑を表した。
「……何がお前をそこまで頑固にさせるのか。その奴隷の娘は一日のうちのたった数時間しか一緒にいなかったんだろう? 何故そこまで助けたいと思うのだ?」
初めはアテナの奴隷から逃げたときの気持ちを思い、また同じ奴隷だから助けたいなんて思うのだと思っていた。けれど、今は自分が何故ここまで強くアテナのことを思うのかジョゼにもよく分からなくなってきていた。
「わかりません。僕はただ彼女を救わなければってずっと思ってきました」
ジョゼはこんな答えではアルダを納得させることは出来ないだろうことは分かっていた。しかし、自分の中でいくら彼女に対するこの強い思いの正体を探しても、助けなければという強迫される気持ちしか見つからないのだ。
「それに、それに彼女から預かっていたものを返したいのです。これは何か彼女にとってはとても大切なもののような気がするんです。これを預かったとき彼女は、自分はこれを持っていられないと言っていました。もしかして自分が奴隷だからって意味で持っていられないのかもしれません。だから、だから僕はアテナがこれを持っていられるように彼女を奴隷から解放したいのです」
「ふん、ずいぶん勝手なことを言うな。奴隷から解放したいと言うが、お前のやろうとしていることはその逆なのだぞ。奴隷の期限を過ぎる前に奴隷を逃がすのはこの国では、生涯そのアテナという者に奴隷でいろと言っているものだ」
「…………」
ジョゼはアルダの言葉に何も言えなくなってしまった。
うつむいてしまったジョゼに、不機嫌なアルダの声がかかる。
「その預かっているものとは何だ? 出してみろ」
ジョゼは懐に手を入れて小さなアテナの手鏡を出した。
手のひらを開いて見せた途端、アルダの目が大きく驚愕に見開かれた。
「そ、それが何か知っているのか?」
それは普段慌てることのないアルダにとって珍しく、戸惑いと警戒に満ちた声だった。
アルダの警戒の声につられてジョゼは自分の手のひらのぼやけた鏡に不安を覚える。
「この手鏡がどういったものであるかは知りません。僕はこれをアテナという奴隷から預かっただけです」
「…………これで、お前がそのアテナという者に執着する理由もわかった。それは非常に厄介な代物だ。お前の今持っているものは本来、持ち主にしか扱えないものだ。もしその持ち主がこのままお前に預けたまま会えなくなってしまったら、ジョゼお前はこれから非常に恐ろしく厄介な目に遭うだろう」
アルダは一呼吸おいて、眉間にしわを寄せて言った。
「わかった。そういうことならば仕方あるまい。……不本意だが早くことが終わるよう手伝ってやろう」
「え!? し、師匠どうし――」
ジョゼが言葉を言いきる前にアルダがすばやくさえぎり、ジョゼに師匠の突然の変化を問わせることはしなかった。
「それならすぐにでも家に帰らなければならない。準備を急げ」
「い、家にやっぱり帰るんですか?」
「昼までに港に着かなければいけないのだろう? では今から馬車を使ったところでは、もうとっくに出ているだろう貴族たちの貸し馬車には間に合わない。だから、帰るのだ」
アルダの言うことをジョゼはよく理解出来なかったが、彼はさっさと準備をすると言って行ってしまったので何も聞くことが出来なかった。
ジョゼは顔を洗い、すばやく手荷物の検査と自分が持っていた長い紋様の入った棒を持って階下に下りていった。ジョゼの泊っていた部屋は三階だった。
外に出ると、日が目にまぶしく射した。とっくに日は明けて、街は活発に人の働く姿を見せていた。
不安になった。もうアテナの乗っていっただろう馬車は港に着いてしまったかもしれない。ジョゼはアルダのもとへ急ぎ駆け寄っていく。
ジョゼの不安は、アルダの落ち着いて自分を待つ様子を見ても消えることはなかった。
足早に先を行くアルダを追って、行きよりもはるかに早く丘の上の家にたどり着いた。
帰るとすぐにアルダはジョゼを一人残して家に入っていき、すぐに四角い背負い箱を背負って出てきた。そしてその背負い箱と棒を持ちながら、精霊道に向かう。
精霊道の入り口がある巨木の前に立つ師匠は、呆けて家の横に立つジョゼを苛立ったような声で呼んだ。
「何をしている、早くこっちに来なさい。これから精霊道を通らせてもらうために、祈りを捧げるのだからグズグズするな」
アルダが朝と暮に行う祈りの動作をし始めたので、ジョゼは慌てて彼に従って祈りの儀式を始めた。
アルダのあとから大木の入り口に入ると、外からは考えられないほどに中は広かった。道幅が広く、馬が車を引いてもまだ人が通れるほどにあった。
「ジョゼ、精霊には出来るだけ触れないで歩け。それから、オレの歩いたあとを正確に踏んでついてこい」
アルダは真剣なまなざしでジョゼに言い、ジョゼも緊張した面持ちで答える。
精霊道の中は光に包まれていた。ぼんやりと輝くその全ては精霊の出す光だ。わさわさと動き回り、光があっちこっちで中を反射している。
形や色、大きさの違う精霊がそれぞれ思い思いに動く。
初めに目に入る巣はシャボン玉が壁にはりついたかのような透明な玉。ななめに盛り上がった幹や土に、ばらばらに生えている。玉が透けて中の茶色い精霊の影がぐるぐると動いていて、錆色の光を出していた。
壁には小麦色の雑草が、ゆらゆらと海の中の海草のごとくそよいでいた。その細長い雑草からも金色の光が出ているので、全て精霊だとわかる。
その壁がしばらく続くと、今度は暗い穴を無数に開けた壁が見えてくる。大小様々な穴で一番大きいのになるとジョゼの頭ほどもあった。穴の中ではときおり緑や紫の光が点々と明滅し、まるで意思のある輝く星のように見えた。
ジョゼはぼこぼこした地面や壁から突き出た植物の枝が邪魔してうまく歩けないでいた。まして動く精霊に触れずに歩くのは至難の技だった。時々、自分は精霊を触ってしまっているのではないかと思う。いや、思うのではなく本当に精霊に触れてしまっているのだ。アルダの足跡を踏みながら全ての精霊を避けるなど、ほとんど精霊道について何も知らない今のジョゼには無理なことだった。
「本当はお前のように未熟な弟子を連れてほかの精霊道の入り口まで行くことはしたくないのだ。精霊を見える者は見えない者に比べて精霊からの影響を受けやすい。精霊を触れるのがその証拠だ。見えない者は精霊を見ることが出来ないだけでなく、精霊を触ることさえ出来ないのだ。もし精霊を見えない者が感じられるとしたら、精霊の起こす力だけだ。だから、我々のようには見えない者が精霊道の中で精霊を感じることは出来ない。きっと、彼らは精霊道の中をただの色々な不思議が起こる、光あふれる道としてしか見ていないだろう」
アルダは紋様の刻まれた棒をいちいち音を立てながら歩いていた。上下にゆっくりとゆらし、トントンと軽い音をあげる。
ジョゼはアルダの立てる音の意味を尋ねたかったが、周りの精霊に気をとられてすぎてそれどころではなかった。
先程から自分にしきりに触れようとしてくる青い蔦のような姿の精霊が、壁の穴から伸びてきていた。青く発光して肩や頬に触れようとしたり、足や腕をつかもうとしたり、服をひっぱったりと、ジョゼが反抗出来ないのをいいことに好き勝手触ろうとする。目はアルダが踏んで沈んだ緑の苔で覆われた地面を探し、左から伸びる蔦は目の端で見たり、精霊の気配を察知したりして避けていた。
「うわっ!」
ジョゼは足へ同時に三本の蔦が巻きつこうとやってくるのを避け、足を高くあげたらバランスを崩していしまった。
倒れると思った時、アルダが瞬時に振り向いてジョゼの体を片手でしっかりと支えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「精霊に翻弄されるな、と言ったところでまだ何も分からないお前には無理な話だな。ジョゼ、血が出ている」
ジョゼは師匠の言葉で初めて足にたくさんの傷を作っていることに気付いた。ズボンがボロボロになっていて、小さなかすり傷からは血が流れていた。
いつのまにここまで服を破かれていたのだろうと、ジョゼは足の傷より服の破れ具合にショックを受けた。
「これぐらいで済んでよかったと思え。こんな傷よりももっと恐ろしいことをする精霊はたくさんいるのだ」
ジョゼはその後、このアルダの忠告を身にしみて理解することになるのだ。
アルダを先頭にジョゼは再び周りの精霊のちょっかいに翻弄されながら、歩いた。
そうしてしばらくして、アルダが突然歩みを止めた。
足を止めた場所は緑の蔦と黄色い花で絡まり、そこが本来通路であったのか木の壁であったのか分からなくなっていた。
彼は棒を高くあげてひときわ大きな音を出すように強く地面を叩く。そして懐から小さな木製の鈴を取り出して、左右にゆらした。
アルダは鈴の軽い音に耳を澄ませては、何かを確認し、再び棒を高く地面に叩いて音を鳴らす。
その行為を何度か行うと背負い箱を下して、箱を開けた。
中には鮮やかな色が溢れていた。白、黒、青、緑、赤、黄などと色々な粉の入った小瓶と白い布、筆、水、木の小皿があった。その他にも何かジョゼの知らないものが入っていたが、アルダがすぐに二、三のものをとると蓋を閉めてしまったので全てを見ることができなかった。
ジョゼは昔村にやってきた流れの絵描きを思い出した。アルダの箱は絵を描くための道具が詰まっているように思えたのだ。
アルダは取りださした小皿の上に青い粉を出して水を振りかけ、こねる。そして、白い布を広げて棒に布が張るように巻きつけ、その布に先程の顔料に布で何かを丸めてしぼんだものをこすりつけ、色がついたら棒の布を軽く叩いていく。
棒の白い布に薄い海色の紋様が浮かび上がってきた。そして、全ての模様が出ると布をはずし、彼はその模様を蔦と花の壁の隙間に入れた。それから、アルダは棒を横にして布を入れた場所に棒を勢いよく突っ込んだ。
すると、さぁっと棒の周りの蔦類が我先にと逃げるように離れていった。そして棒に残ったのがあの布だった。
「さぁ、港への道は開けた。これから我々は奴隷強盗にいくぞ!」
閲覧ありがとうございました。
誤字脱字がありましたら、教えていただきたいと思います。お願いします。