作戦基地(アーク)と、歪みの波紋
三人が東洋国際大学の古文書研究室に辿り着いた時、夜明け前の空は、まだ鉛色だった。
律は、激しい疲労と筋肉の炎症で、床に倒れ込むようにして意識を失った。刹那もまた、**『クロノス・シフト』**の過負荷で、全身の毛細血管が破れ、満身創痍の状態だった。
ひまりは、彼らを横たえると、すぐに研究室の扉を**『古代語で書かれた立ち入り禁止の札』で厳重に封鎖した。ここは、オービターの「常識的な追跡」から逃れるには、最も安全な場所だ。なぜなら、彼らは「過去の知識」が、自分たちの未来のテクノロジー**に対抗できるとは、夢にも思わないからだ。
ひまりは、律の呼吸を確認し、刹那に栄養ドリンクと鎮痛剤を渡した。
「飲んで。あなたの**『時間流の血管』は、破裂寸前よ。コアの共鳴周波数は、あなたの肉体にとっては毒**なの」
「すまない……ひまり」
刹那は、フラフラになりながら薬を飲んだ。彼の視線は、机の上に置かれたままの、祖父の羊皮紙に向けられていた。
佐藤梓の言った**「時間軸の隔離」という言葉が、彼の脳裏を離れない。もし、彼らの学校や友人が、過去のどこかの時間に切り離されたら、刹那は二度と彼らに会えない**かもしれない。
「奴らは、本当に俺の学校を狙うのか?」
ひまりは、冷静に、しかし強い意志をもって答えた。
「ええ。オービターの最大の戦略は、『干渉者』を、時間軸から『意味のある存在』でなくすこと。あなたの『日常』、つまりあなたをこの世界に繋ぎ止めるアンカーを、一つずつ破壊する。それが、彼らにとって最も効率的な抹殺方法よ」
刹那は、胸ポケットから螺旋の懐中時計を取り出した。
「じゃあ、急ぐしかない。このコアの起動パスワードを解読すれば、奴らの干渉は一時的にでも防げるんだろ?」
「その通り。でも、焦らないで。古代クレタ文明の英知は、感情で動くほど単純ではない」
ひまりは、羊皮紙と、レコーダーが記録した共鳴周波数を突き合わせた。
「祖父は、このコアを**『アーク(方舟)』と呼んでいたわ。あなたたちを、時間の大洪水から守るための知識の箱舟**。その航海術を、今から解析する」
研究室は、刹那の**作戦基地**となった。**知識の守り手**と、**力の錨(律)**を得た刹那は、再び、時間軸の戦場へと立ち向かう準備を始めた。
覚醒した律の感覚
数時間後、律は、驚異的な回復力で目を覚ました。彼を襲ったのは、肉体の疲労よりも、精神の混乱が大きかったためだ。
律が最初に感じたのは、自分の視覚が、以前とは違うということだった。
「ひまり……。あの、壁を見てくれ」
律が指差したのは、研究室の真っ白な壁だ。何の変哲もない、白い壁。
「何よ、どうかした?」
「いや、違う。壁じゃねえ。壁の向こう側……いや、**壁の『向こうの時間』**だ」
律の目には、白い壁の表面に、水の波紋のようなものが、ゆらゆらと揺らいでいるのが見えていた。その波紋は、わずかに青く、そして赤く点滅している。
「これ……なんだ? 俺、頭がおかしくなったのか?」
ひまりは、驚愕に目を見張った。
「馬鹿な……律くん。それは、『時間流の歪み』よ! 刹那のシフトの残響を、あなたの肉体が吸収し、時間軸のセンサーとして覚醒し始めている!」
ひまりは、その青と赤の波紋を、刹那が奪ったオービターの通信端末の記録と照合した。
「青い波紋は、『時間遅延』の痕跡。そして、赤い波紋は、『時間加速』の痕跡。つまり、あなたの目は、オービターの干渉、そして刹那のシフトが、**世界に残した『傷跡』を、リアルタイムで視認できる『時間センサー』**になっている!」
律は、自分の視界が、時間軸の地図になったことを理解した。
「これを使えば、奴らがどこに、いつ、干渉しようとしているかが分かるのか?」
「ええ! 特に、オービターが狙う**『アンカーポイント』、つまりあなたの学校や、刹那の家に、歪みが集中し始めたら、それは攻撃開始のサイン**よ!」
刹那は、律のその新しい能力に、希望の光を見出した。
「律。頼む。お前の目は、俺たちの最強のレーダーだ。今すぐ、学校周辺の歪みをチェックしてくれ」
律は、窓の外の**『日常』へと視線を向けた。彼の瞳には、街の建物や人々の流れ**に混じって、青い波紋が、小さな線香花火のように散らばっているのが見えた。
日常への帰還と、分離の葛藤
刹那とひまりがコアの解読に集中する中、律は、静かに最も危険な情報を読み取った。
「刹那……。やばい」
律は、焦燥に駆られた声で告げた。
「俺たちの学校、**『千堂高校』**の周辺だけ、青い波紋の濃度が、異常に高い。まるで、大きな網を仕掛けられているみたいだ」
「網……? それは、時間隔離の準備か!」刹那が立ち上がる。
「多分、そうだ。奴らは、明日の、登校時間を狙っている」
刹那は、怒りを通り越して、冷徹な覚悟を固めた。
「律、ひまり。俺は、学校に戻る」
「正気なの、刹那!?」ひまりが叫ぶ。
「正気じゃない。だが、俺の『日常』を、奴らに人質に取らせるわけにはいかない。学校を守る。そして、奴らをおびき出す」
刹那は、手首に懐中時計を装着し直した。その時、律が、苦渋の表情で、一つの提案をした。
「刹那。俺は、お前と一緒に学校には行かない」
「何だと?」
「俺が、この研究室に残る。俺の目が、奴らの『時間操作』の発生源を、リアルタイムで追跡する。そして、ひまりは、解読を続ける」
律は、**刹那の『単独での行動』を許容し、自身は『後方支援』**に回るという、最も合理的な選択をした。
「お前一人で行かせて、無事に戻れるとは思ってねえ。だが、俺が奴らと一緒に隔離されたら、**お前の『時間センサー』がいなくなる。お前は『目』**を失うんだ」
刹那は、友の覚悟と、冷静な判断に、息を飲んだ。律は、感情ではなく、戦局を見つめていた。
「俺は、お前のアンカーになる。お前が行け、刹那。俺たちが、**お前の『未来』**を守る」
刹那は、友の肩を強く叩いた。彼らは、三人の役割を明確に分離した。
力の行使者(刹那)、知識の解析者、そして時間軸の観測者(律)。
刹那は、夜明けの光が差し始めた研究室を出て、「日常」という名の戦場へと、単独で向かった。彼の目的は一つ。オービターの侵攻から、彼の世界を守り抜くことだ。




