友を巻き込んだ代償と、青い瞳の罠
東洋国際大学の古文書研究室。
刹那とひまりは、祖父の暗号解読作業を始めてから、徹夜に近い時間を過ごしていた。部屋に散乱する古代語の資料は、クレタ文明が**『時間軸の外側』**の存在を既に知っていたことを示唆していた。
「見て、刹那。この図形……。『アビス(深淵)より来たる光』を意味する螺旋語です。この光を遮断するために、『クロノス・コア』は特定の共鳴周波数を必要とする」
ひまりが指さした古代語の記述には、懐中時計の螺旋と全く同じ文様が、**三つの異なる音階(周波数)**と共に記されていた。
「三つの周波数……。それを同時に時計に与えれば、コアは防衛システムとして起動する、ということか?」
「ええ。ただし、それは**『試運転』ではない。一度起動すれば、オービターの時間干渉レーダーに、あなたの位置が巨大な炎のように焼き付くでしょう。完全に解読を終えるまで、その「鍵」**である懐中時計を絶対に起動させてはならない」
ひまりはそう警告したが、刹那のポケットの中で、螺旋の懐中時計は、ひまりの言葉に呼応するように、微かに熱を帯びていた。
その時、刹那のスマートフォンが鳴った。着信画面には**「律」**の文字。
刹那は不安を感じたが、電話に出た。
「律か。どうした、急に」
『刹那……お前、今、どこにいるんだ?』
律の声は、かすかに動揺と、焦りが混じっていた。
『俺、お前の父さんの使いの人に会ったんだよ。佐藤梓って人。お前の父さんが参加してる国際科学連盟のプロジェクトが、お前の時計を緊急で回収しなきゃならないって!』
「佐藤梓……?」
刹那は、昨夜、律の背後に立っていた女性の姿を思い出した。黒いカラスが飛び立った光景。あれは、監視だったのだ。そして、律は既に、オービターの罠にかけられていた。
律は、佐藤梓の**『時間軸を狂わせる言葉』と、刹那の『クロノス・シフト』による『記憶の歪み』に板挟みになり、完全に思考を支配**されていた。彼は心底、親友の父の頼みを助けたいと信じ込んでいる。
『だから、時計を、今すぐ持ってきてくれ! **駅前の廃墟になった『緑の丘公園』**の噴水の前だ。佐藤さんに渡せば、お前は助かるんだ!』
「律、待て! その佐藤梓って女は……!」
『いいから! 頼むよ、刹那! 俺、もう、何が正しいのか分かんねえんだよ……!』
律は悲鳴のような声を上げ、電話は切れた。
刹那は端末を強く握りしめた。律は混乱しているのではない。律の時間が、佐藤梓によって「操作」されているのだ。彼を放置すれば、律の精神は破壊されてしまう。
「行かなくちゃならない。律が、俺のせいで巻き込まれたんだ」
「待ちなさい、刹那!」ひまりが鋭く咎めた。「それは明白な罠よ! 時計を渡せば、コアの起動キーは奴らの手に渡る! それに、あの律という少年は、既に**『時間残響の術』**で思考を操られているわ」
「分かってる! だが、俺が起こしたノイズが、律をこんな状況に追い込んだんだ! 俺の『クロノス・シフト』は、一人で生き延びるための力じゃない。巻き込んだ人間を守るために使うんだ!」
刹那は、ひまりが引き止めるのも聞かず、懐中時計をポケットに押し込み、研究室を飛び出した。
緑の丘公園は、数年前に閉鎖された古びた遊園地の跡地だった。周囲は高いフェンスで囲まれ、夜になると不気味なほどの静寂に包まれる。
刹那が公園のゲートを乗り越え、荒れ果てた敷地を進むと、中央の壊れた噴水の前に、律が一人、立ち尽くしていた。
「律!」
刹那が駆け寄ると、律は顔を上げた。その目は潤み、疲労と混乱の色が濃く浮かんでいた。
「刹那……来てくれたのか。これで、俺たち二人とも助かるんだ」
律の言葉には、どこか現実感がない。まるで、台本を読み上げているかのように。
「律、落ち着け。佐藤梓って女に何を言われた? あれは、俺の父さんの使いなんかじゃない。奴らは……」
その時、律の背後から、二人の人影が姿を現した。
一人は、以前、物置で遭遇した黒コートの男。そしてもう一人は、昨日律に接触した、佐藤梓だった。彼女は、優しかった昨日の表情とは打って変わり、冷酷な笑みを浮かべていた。
「よく来てくれたわね、時永刹那くん。『律』は、あなたにとって一番の時間干渉ポイントだと予測していたわ」
佐藤梓は、手に持ったブリーフケースを開けた。中には、黒コートの男が使用していたものと**全く同じ『光の円盤』**が、三枚、整然と並べられていた。
「私たちはオービター『第二監視班』。私は**『操作者』、彼は『封鎖者』**。あなたのような不安定な干渉者は、排除する」
「律……! 騙されたんだ!」刹那は叫んだ。
律は、刹那の叫びを聞いても、反応が鈍い。彼の脳は、佐藤梓の時間残響の術により、現実の事実と、偽りのメッセージの境界線を見失っていた。
「律、時計を渡してやれ……。俺たちの未来のために……」律が力なく呟く。
刹那は、友のその姿を見て、激しい怒りと、自身への自責の念に駆られた。
(違う。俺の『シフト』が、律の心を壊した。この力で、巻き込んだ人間を救えなければ、何の価値もない!)
刹那は、胸ポケットから螺旋の懐中時計を取り出した。
「これを渡せば、律は解放されるんだろうな」
佐藤梓は、勝利を確信し、冷たく笑った。
「ええ、その通り。あなたの**『鍵』**さえ手に入れば、この少年に用はない」
刹那は、時計を地面に投げつけるようにして、佐藤梓の前へ転がした。佐藤梓が手を伸ばし、時計を掴もうとした、その刹那。
「――戻す!」
刹那の全身から、胃がねじ切れるような激痛が走った。彼は、時計を地面に投げつけた三秒前へ、意識を強制的に巻き戻した。
三秒前。
懐中時計は、まだ刹那の手にあった。佐藤梓は、時計に手を伸ばす直前だ。
刹那の脳内には、**『時計を渡せば律は解放されるが、世界はオービターの支配下に置かれる』という「未来の情報」**が刻み込まれた。
刹那は、懐中時計を握りしめ、佐藤梓の目に、真っ直ぐに視線を合わせた。
「騙されない! 律は解放なんてされない! お前たちは、律の心を弄んだ!」
刹那はそう叫ぶと、**「律」という名の、最も大切な『時間干渉ポイント』**を守るために、最初で最後の、大胆な賭けに出た。
彼は、懐中時計を地面に叩きつけず、逆に自分の左手首に、咄嗟に装着した。
キィィィィィン!
懐中時計から、刹那の全身を貫くような高周波の音が鳴り響いた。それは、ひまりが言っていた、**「防衛システムの起動を試みる共鳴周波数」**だった。
刹那の肉体は、時間軸の歪みに耐えきれず、激しく痙攣した。
「馬鹿な! 単なる高校生に、コアを起動させる力などない!」佐藤梓が驚愕に目を見開いた。
しかし、刹那の能力は、祖父のコアと同期を始めていた。
彼の瞳が、懐中時計と同じ、青白い螺旋の光を帯び始めた。
「律! 目覚ませ! 俺たちの**『時間軸』**は、俺たちが守るんだ!」
刹那の叫びが、律の脳に、**強制的な『時間軸の正常化』を引き起こした。律は頭を抱え、「嘘の記憶」と「本当の記憶」**の衝突に、激しく苦しみ始めた。
「くそ……、やれ! 封鎖者!」佐藤梓が叫んだ。
黒コートの男が、三枚の光の円盤を、刹那めがけて投擲した。円盤は、刹那の周囲の時間流を静止させ、彼を**「時空の檻」**に閉じ込めようとする。
刹那は、痙攣する肉体をねじり、静止した時間の中で、**たった一秒の『未来』**を目指して、**全身全霊の『クロノス・シフト』**を発動させた。
青白い光が、廃墟の公園を焼き尽くした。




