日常を覆う記憶の幻影(イリュージョン)
祖父の研究棟での戦いから数時間後、三人は、東洋国際大学の古文書研究室を新たな作戦基地としていた。コアの黄金色のバリアは、研究室全体を穏やかに守っている。
刹那は、祖父の過去の傷跡を修復したことで、**『修復者』**としての自信を得ていた。しかし、佐藤梓の最後の言葉が、彼の頭から離れない。
『次は、彼の最も親しい『記憶』を標的にする』
刹那にとって最も親しい記憶とは、母や友人と共有する平和な日常のことだった。その日常こそが、彼を**時間軸に繋ぎ止める『最後の錨』**だ。
「奴らは、物理的な時間をいじるのを諦めた。次は、**人間の『感情の時間』**を攻撃してくる」ひまりは、データ解析の結果を共有した。「律くん、心の歪みを感知して」
律は、すぐに時間センサーの瞳を起動させた。街の風景を透過した彼の視界に、これまでとは異なる波紋が映った。
それは、青でも赤でもない。人の感情のように、不安定で、曖昧な、虹色に滲む波紋が、千堂高校と刹那の自宅の間、日常の風景の中に、薄く広がっていた。
「見つけたぞ! 刹那の家の近所だ。強烈な時間遅延じゃない。まるで**『霧』**みたいに、波紋が広がっている……」
「記憶の幻影よ!」ひまりは、顔色を変えた。「奴らは、時間操作の痕跡を極限まで薄め、ターゲットの脳内に『偽の記憶』を植え付けている! 早く行かなければ、あなたのお母さんの記憶が危ない!」
母の違和感
刹那と律は、コアのバリアを一時的に解除し、全速力で刹那の自宅へ向かった。ひまりは、研究室で修復モードの微調整を行うため、待機した。
自宅のドアを開けた刹那は、まず異常な静寂に気づいた。普段なら、仕事から帰った母が、夕食の準備をしているはずだ。
リビングに入ると、母はテーブルに座り、硬い表情で、一枚の古い写真を見つめていた。それは、小学生の頃の刹那と母が、公園で笑っている写真だった。
「ただいま、母さん」
「お帰りなさい、刹那」母の声は、どこかよそよそしい。
母は、写真から目を離さず、ゆっくりと言葉を続けた。
「ねえ、刹那。この写真の時、あなた、本当に楽しかったの?」
「え? 当たり前だろ。母さんと遊んで、楽しかったよ」
「そう……でもね、母さん、どうしても思い出せないのよ。この日の朝、あなたがどれだけ怒って、部屋に閉じこもっていたかを。母さんが、あなたのお気に入りのあの小さな時計を、誤って壊してしまった時のことを……」
刹那は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
「そんなことはない! その時計は、祖父がくれたもので、俺が自分で誤って落としたんだ! 母さんは、何も壊してない!」
「いいえ。違うわ。母さんは覚えている。あなたが、怒鳴って、**『母さんのせいで僕の時間が壊れた』**って、酷いことを言ったのよ。そのせいで、私たちはずっと、わだかまりを持っていた……」
母の瞳は、深い悲しみに満ちていた。それは、刹那の感情を揺さぶり、彼自身を『親不孝な息子』という過去に引き戻す、オービターの巧妙な罠だった。
感情の時間流への侵入
律の時間センサーの瞳が、激しく点滅した。
「刹那、嘘だ! 母さんの頭の周りの波紋が、激しく振動している! 偽の記憶が、本物の記憶を上書きしようとしている!」
刹那は、自分が感情的になることこそ、オービターの狙いだと理解した。感情が揺らげば、コアの制御が乱れる。
その時、佐藤梓の声が、律のスマホのスピーカーから響いた。
『どうです、時永くん? 時間の癌細胞であるあなたの**『存在』そのものが、あなたの母の記憶に、深い傷を負わせているのよ。私たちが『修復』**してあげるわ。あなたが存在しなかった記憶へとね』
刹那は、怒りを集中力に変えた。
「させるか!」
刹那は、螺旋の懐中時計に、自分の修復者としての覚悟を叩き込んだ。
彼は、マイクロ・シフトを起動させた。その操作は、自分の周囲の空間ではなく、**母の『脳内の時間流』**に、直接干渉するものだった。
「修復……! **母さんの『愛の螺旋』**だけは、誰にも歪ませない!」
刹那は、そっと母の額に手を触れた。
愛の記憶の修復
刹那の意識は、一瞬だけ、母の脳内の時間流へと飛び込んだ。
そこは、偽りの記憶である**『壊れた時計と、怒鳴る刹那』のシーンと、本物の記憶である『公園で笑う二人の光景』のシーンが、激しく衝突している時間の戦場**だった。
偽の記憶は、佐藤梓の冷たい時間操作のエネルギーで強化され、本物の記憶を過去の時間の闇へと押しやろうとしていた。
刹那は、修復者として、懐中時計を通じて黄金色の修復エネルギーを放出。そのエネルギーは、母との純粋な『愛』という最も強力なアンカーが繋がっている本物の記憶へと、力強く注ぎ込まれた。
ギュゥゥゥン……
偽の記憶の冷たい時間流が、黄金色の修復エネルギーによって溶けていく。偽りの波紋は、力なく掻き消え、本物の記憶が鮮やかな光を取り戻した。
修復完了。
刹那は、自分の手が額から離れるのを感じた。
母は、ハッと息を吸い、瞬きを数回した。そして、目の前にある古い写真を見て、優しい笑顔に戻った。
「ごめんなさいね、刹那。変な夢を見ていたみたいだわ。この写真、本当に懐かしいわね。この時、あなたが**『世界で一番幸せだ』**って言ってくれたのよ」
母は、刹那の手を握った。温かい、確かな現実の感触。
刹那は、安堵の息を漏らした。記憶の傷は、愛と信頼によって、完全に癒やされたのだ。
新たな警告
律は、スマホを握りしめ、佐藤梓の通信に返答した。
「敗北だ、オービター。俺たちの絆は、お前たちの冷たいデータなんかじゃ、絶対に操作できない!」
佐藤梓の声が、苛立ちを隠せないトーンで響いた。
『そう……感情の時間流の修復まで可能とはね。螺旋のコアは、完全に**『時間軸の癌細胞』から『時間軸の守護者』**へと変異したわ』
『しかし、時永刹那。あなたは、大切なものを守るために、無限に時間と命を使い続けることになる。私たちは、**あなたの『日常』**の中に、修復できないほどの時間差を生み出し続ける。覚悟なさい』
通信は途絶えた。
刹那は、修復者としての使命の終わりなき困難さを悟った。オービターとの戦いは、物理的な衝突から、精神的な防衛へと、新しいフェーズに突入したのだ。
彼は、母の笑顔を胸に刻み、次の修復に備えて、修復者としての螺旋の懐中時計を強く握りしめた。




