誘惑者の接触と、修復の螺旋(スパイラル)
古文書研究室は、『クロノス・コア』によって創り出された、絶対的な無色のバリアに包まれていた。その内部では、ひまりが核心的な問題に挑み、律が静かに新たな脅威の接近を観測していた。
律の視界には、研究室の壁の外側から、血のような濁った灰色と淡い紫色が混ざった**『精神的な歪み』**が、緩やかな津波のように押し寄せてくるのが見えていた。
「ひまり、来てる! 物理的な攻撃じゃない。多分、勧誘者だ」
「律くん、応答しないで!」ひまりは、古文書から顔を上げずに叫んだ。「彼らはあなたの**『感情の隙』を狙ってくる。あなたの心が動揺すれば、コアのバリアに微細な亀裂**が生じる!」
律は、冷や汗をかきながら、窓に近づいた。その歪みの中心が、研究室の壁にぴったりと接触した瞬間、バリアが無視されたかのように、一つの声が律の脳内に直接響いた。
『風見 律くん。聞こえていますか? 私は**オービター『第三監視班』所属。私のコードネームは『聴取者』**です』
声は、冷たい機械音ではなく、非常に優しく、理解に満ちた女性の声だった。
『私たちは、あなたを傷つけるつもりはありません。私たちは、あなたの友人、時永刹那くんを救うために来ました』
律は、何も答えることができなかった。彼の脳は、友を救いたいという純粋な願いと、オービターへの憎しみの間で激しく揺さぶられた。
『見てごらんなさい、律くん。彼の生命力は、今、紀元前の欠陥品によって吸い尽くされています。あの螺旋の懐中時計こそ、彼の命を奪っている元凶なのですよ』
律は、静かに横たわる刹那を見た。その顔色は、確かに、死人のように青白い。
『私たちは、未来のテクノロジーを持っています。あの**『欠陥のあるコア』から、彼の魂を傷つけずに解放する方法を、知っている唯一の存在です。あなたには、私たちと協力する義務**があるのではないですか? 友の苦痛を、見て見ぬふりをするのですか?』
「くそっ……」律は、壁を強く叩いた。
彼の瞳に映る灰色の歪みは、ますます濃くなる。それは、**勧誘者の『共感』**が、嘘と欺瞞によって構築されていることを示していた。
修復モード(ヒーリング)の儀式
一方、ひまりは、**『修復モード』**への切り替えに必要な、古代語の解読に、ついに成功していた。
「見つけたわ、律くん! 修復モードへの切り替えは、周波数ではない! **『古代の儀式』**が必要よ!」
ひまりが指さしたのは、羊皮紙の片隅に描かれた、二つの人物が、**『螺旋のコア』**を挟んで、互いの掌を合わせるような複雑な図形だった。
『修復の螺旋を起動するには、**「力を持つ者」と「知識を守る者」**が、互いの魂を繋ぎ、時間流のエネルギーを共有しなければならない』
そして、最も重要な一文。
『この儀式は、生命の共有である。コアの維持エネルギーを、片方の魂から、もう片方の魂へと、『愛』をもって循環させる』
ひまりは、図形を見て、顔を青ざめさせた。
「つまり、私の命を使って、刹那の命をコアから引き剥がすということ!? 生命のエネルギーを、強制的に交換するのよ!」
「ひまり!?」律が驚愕に振り返る。
「私には、時間跳躍の能力はない。私の**『生命の螺旋』は、刹那の『時間の螺旋』**ほど強力ではないわ。でも、これしか方法がない!」
ひまりは、迷いを振り払い、刹那の懐中時計に繋がれた起動ケーブルの先に、**儀式用の『古代の導体』**を装着し始めた。
律の拒絶と、新しいアンカー
律は、ひまりの自己犠牲的な決断と、聴取者の甘い誘惑との板挟みになった。
『律くん。あなたの友人は、今、死の淵にいます。オービターに協力すれば、私たちは彼を救済します。さあ、私に**『螺旋の懐中時計』の位置情報**を教えなさい』
聴取者の声は、律の罪悪感を深く抉った。
しかし、律は、刹那とひまり、二人の友の覚悟を、背中で感じていた。
ひまりは、命をかけて刹那を救おうとしている。そして、刹那は、命をかけて彼らの日常を守った。
血のような灰色の歪みを、律は覚醒した瞳で睨みつけた。
「静かにしろよ、勧誘者」
律の声は、驚くほど冷静だった。
「お前たちが**『救世主』**だ? 冗談じゃねえ。お前たちは、人の苦しみをデータに変える、**冷たい『時間泥棒』**だ」
律は、刹那の横に置かれていた、オービターから奪った通信端末の残骸を掴み、壁に向かって投げつけた。
キン!
端末の残骸が、聴取者の精神的な歪みが接触しているバリアの境界に命中した。
律は、壁に向かって叫んだ。
「**お前が言う『救済』**は、俺の友を裏切ることだ! 俺は、**刹那の『アンカー』**だ。俺が揺らげば、奴の命が危ない!」
律の友への忠誠心は、純粋なエネルギーとなって、コアのバリアに強烈な衝撃を与えた。
ゴォォォォ……
聴取者の灰色の歪みは、律の**『確固たる意志』という名の時間流の反発**を受け、激しく揺らぎ始めた。
『な……何だと!? この感情の反発は……! 彼の時間軸の定着率が、異常に高い……!』
聴取者は、律の友情という名のエネルギーが、コアのバリアをさらに強固にしていることを理解した。心理的な攻撃は、完全に失敗したのだ。
『撤退します! アンカーの勧誘、失敗! 彼の忠誠心は、我々の予測を超越しています!』
灰色の歪みは、時間の波紋のように掻き消え、静寂が戻った。
律は、壁から離れ、ひまりの元へと駆け寄った。
「ひまり、間に合ったのか! 儀式ってのは、何をすればいいんだ?」
ひまりは、顔を上げ、強い決意を秘めた瞳で律を見つめた。
「律くん。あなたも必要よ。私だけでは、刹那の時間の螺旋に勝てない。あなたが**『時間の錨』として、私たち二人の命を、現実の時間軸に繋ぎ止めて**くれる?」
ひまりは、古代の導体を二つに分け、一つを自分の手に、もう一つを律の手に渡した。
「私たちは、互いの命の螺旋を、愛をもって交換する。刹那の魂を、コアから引き剥がすために」
三人の運命は、**生命を賭けた『修復の儀式』**へと委ねられた。




