三秒前のパラドックス
時永 刹那が、世界が**「リセット」**されたことに気付いたのは、いつも通り、弁当の中の鶏の唐揚げが盗まれた瞬間だった。
昼休み、賑やかな教室。彼の前の席の**風見 律**が、口元についたソースを拭きながら、悪びれずに笑っている。
「悪い、刹那! つい手が滑ってな!」
「手が滑って、俺の弁当から五個中三個の唐揚げを消す奴がいるか」
刹那は額に青筋を立てた。律は彼の幼馴染みで悪友だ。いつもこうして、彼のおかずを略奪していく。しかし、刹那の意識は唐揚げの数よりも、ある違和感に集中していた。
(違う。この光景、三秒前にも見た)
刹那の胃袋の底がきゅっとねじれるような感覚。それは、彼の脳が時間軸のノイズを感知したサインだ。彼の目の前の世界は、確かに律が唐揚げを食べ終わった後の光景だ。
だが、刹那の記憶には、唐揚げが消える瞬間の残像が焼き付いている。そして、その数秒間、彼は、**別の「三秒間」**を体験していたことを知っていた。
「おい、刹那。何ぼーっとしてんだよ。唐揚げ一つくらい、大したことねえだろ」律が残りの一個に手を伸ばす。
刹那は素早く唐揚げを鷲掴みにした。
「大したこと、ある」
刹那は立ち上がった。彼の視線は窓の外、校庭の隅に立つ一本の銀杏の木に注がれていた。記憶が正しければ、五秒後、あの銀杏の木の枝が、突風で折れる。
刹那は周囲を見回した。誰も、何も気付いていない。彼らの時間軸は、律が唐揚げを完食したという**「現在」**で淀みなく流れている。
(まただ。無意識の時間跳躍……)
刹那の体質は、一年前の交通事故以来、奇妙な変質を遂げていた。**「予知夢」のようなものではない。それは、彼の精神や肉体が極度のストレスや、予測不可能な「時間軸の歪み」に晒された時、数秒から数時間、あるいは数日前の過去へ、意識だけを強制的に巻き戻す現象だった。彼はそれを『クロノス・シフト』**と呼んでいた。
今回のジャンプはわずか三秒。唐揚げが三個から二個に減るという、極めて日常的なストレス下で起こった。
刹那は深呼吸し、改めて律を見た。律の口元に残るソースは、三秒前の記憶と同じ。しかし、今の刹那は、この後の展開を知っている。
「律。今すぐ、その窓から離れろ」
「は? 何言ってんだ、急に」
「いいから聞け! 窓から五メートル離れて、床に伏せろ!」
刹那の言葉は命令だった。律は困惑したが、刹那の顔に浮かんだ、いつになく真剣な、しかしどこか恐怖を帯びた表情に押し切られ、しぶしぶ窓際から離れ始めた。
ドォンッ!
唐突な破裂音。校庭の銀杏の太い枝が、まるで誰かに引きちぎられたかのように、鈍い音と共に窓ガラス目掛けて飛来した。
ガシャアアアアン!!
分厚い窓ガラスは粉砕され、枝の先端は律が立っていた数秒前の場所に、深く突き刺さった。破片が飛び散り、教室は一瞬にして静寂に包まれる。
誰もが、何が起こったのか理解できなかった。突風は吹いていない。晴天だ。ただ、銀杏の枝が勝手に折れて、窓を突き破ったのだ。
「な、なんだよ、今のは……」律は震える声で呟いた。彼の顔は真っ青だ。あと一歩、刹那の警告が遅れていれば、彼は枝に串刺しになっていたかもしれない。
「……だから言っただろ」
刹那の全身から、疲労感が一気に押し寄せてくる。この**『クロノス・シフト』は、精神力と体力を激しく消耗する。特に、「未来を知っている」**という重圧は、常に彼の思考を二重化させる。
『どうして知ってたんだ、刹那?』
律の問いに答えず、刹那は窓の外、銀杏の枝の折れた断面を凝視した。まるで、高圧のプラズマで焼き切られたように、断面は黒く焦げ、滑らかだった。
突風や老朽化で折れたのではない。何らかの力によって、強制的に切断されたのだ。
(俺のジャンプは、引き金になったのか? それとも、誰かが俺と同じように、時間を弄ろうとした痕跡か?)
その瞬間、刹那の背筋に、冷たい刃物のような視線が突き刺さった。
彼は反射的に振り返った。教室のドア脇に、誰もが知っているはずの、しかし誰も見ていない男が立っていた。
黒いロングコートに、季節外れの黒いマフラー。年は二十代後半か。顔立ちは端正だが、表情は一切の感情を排している。まるで、人間ではない、機能としての存在のようだ。
男の目が、窓ガラスの破片が散乱する床、突き刺さった銀杏の枝、そして刹那の顔を、順番に、正確にスキャンした。その動きは、精密機械のように淀みがなかった。
周囲の生徒たちは、まだ窓ガラスの事件に動揺しており、誰もこの不審な男に気付いていない。まるで、男の存在自体が、この「時間軸」から隔離されているかのように。
『この時間軸のノイズ……お前か』
刹那の頭の中に、直接、冷たい声が響いた。それは音声ではない。思考の波動だ。
刹那は全身の毛が逆立つ感覚に襲われた。この男は、自分と同じように時間軸の歪みを感知できる。そして、彼は、刹那の『クロノス・シフト』が起こした**「小さな変化」**を、追跡してやって来たのだ。
男は、コートの懐から、手のひらサイズの金属製の球体を取り出した。表面には、古代ギリシャの装飾のような螺旋状の文様が刻まれている。
刹那は直感した。逃げろ。
彼は反射的に律を突き飛ばし、窓の破片を踏み越え、廊下へと飛び出した。
「待て! 時永 刹那!」
男は一歩も動かず、持っていた球体を廊下へ向かって投げた。球体は床に触れる直前、目にも留まらぬ速さで展開し、三枚の鋭利な刃を持つ、ブーメラン状の光の円盤へと変形した。
ヒュン!
円盤は廊下の壁を削りながら、刹那の背中目掛けて殺到する。廊下を走る生徒たちの動きが、刹那の目にはスローモーションのように見えた。
(速い! 避けられない!)
刹那は追いつめられた。壁に激突する寸前、彼は最後の賭けに出た。
「――また、戻す!」
刹那は**「唐揚げが一個になる」という、三秒前の「歪み」の記憶に、全精神力を集中させた。脳が焼けるような激痛。胃の底がブラックホール**のようにねじ曲がる。
彼の視界が一瞬、砂嵐のように乱れた。
そして、世界はリセットされた。
三秒前。
彼は、唐揚げが五個中三個盗まれた光景に戻っていた。
「悪い、刹那! つい手が滑ってな!」律が口元を拭いながら笑う。
「手が滑って、俺の弁当から五個中三個の唐揚げを消す奴がいるか」
刹那は、唐揚げの皿と、律の笑顔、窓の外の銀杏の木、そして、ドア脇に立つ黒コートの男の姿を、同時に鮮明に捉えていた。
『クロノス・シフト』。過去に戻ったのは、刹那の意識と知識だけだ。肉体は今、三秒前の状態にいる。
(男が動くのは、俺が銀杏の枝の件で騒いだ直後だ。つまり、行動を変えれば、俺の存在は男のレーダーから外れる!)
しかし、銀杏の枝が窓を突き破る**「未来の事故」**は、依然として待っている。三秒後の事故を防がなければ、律が危ない。
刹那の頭の中で、二つの時間軸の記憶が激しく衝突する。
彼は息を吐き出し、今度こそは、最も静かで、最も効率的な行動を選んだ。
彼は律の弁当から、残りの二個の唐揚げを、律よりも速く掴み取り、自分の口に放り込んだ。
「ああっ!? てめえ、何しやがる!」律が叫んだ。
刹那は、唐揚げを咀嚼しながら、低い声で囁いた。
「口封じだ」
そして、彼は誰にも気づかれないほどの微細な動作で、右足で机の脚を蹴り、唐揚げの脂で滑らせた。
ガタン!
机は不自然な音を立てて倒れ、律は反射的に机を支えようと窓から遠ざかった。
ドォンッ!
ガシャアアアアン!!
銀杏の枝が窓ガラスを突き破る音。三秒前と同じ事故が、同じタイミングで起こった。
しかし、律は机に気を取られ、無傷だった。
刹那は、一瞬だけドア脇に視線をやった。
黒コートの男は、そこにいなかった。
彼のレーダーは、刹那の**「大きな時間軸のノイズ(騒ぎ)」**を感知できず、通過してしまったのだ。
「すまない、律。お前の唐揚げの借りは、命で返してもらう」
刹那は唐揚げを飲み込んだ。その味は、勝利の味と絶望の味が混ざり合った、複雑な味がした。
(逃げ切れた、わけじゃない。奴はきっと、過去の記録を遡って、俺を探しに来る。紀元前2000年の*『クロノス・コア』*の設計図が、祖父の暗号に隠されている限り、俺は追われ続ける)
刹那の目つきが変わった。この瞬間から、彼の平凡な日常は、時空を股にかけた戦場へと変貌したのだ。彼は知っていた。これは序章に過ぎない。




