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わらう若き哲学者たち(本編)  作者: 白髪書生
N1-1 恋の薬はプラセボに留めよ
3/5

N1_BABY STEP

 電車のドアが閉まると、冷房の効いた車内にわずかな風が生まれ、朔貴の腕に沿って通り抜けた。

 初夏。制服は衣替えを迎え、ワイシャツはまだ真新しい半袖に変わったばかりだった。肌に触れる空気はどこか冷たく、少しだけ心細い。けれど、車内に一歩足を踏み入れると、熱を帯びた他人の気配がじんわりと周囲を満たしていく。

 座席はすでに埋まっていて、朔貴はドア近くのつり革につかまった。揺れに身を任せながら、片手でスマートフォンを取り出す。イヤホンを耳に差し、画面に映る動画に視線を落とす。

 再生していたのは、とある大学の理学部教授が高校生向けにアップロードした講義動画だった。


 タイトルは《量子と日常――観測されない世界をどう想像するか》。

 背景には白衣姿の教授が黒板の前に立ち、手振りを交えながら軽快に語っていた。


「観測できないものは存在しない――そんなふうに言った有名な人がいますね。アインシュタインと対話した詩人タゴールです。」

 教授の声が車内の雑音をかき消すように耳元に届く。

「ちなみに、アインシュタインは一度、この大学に来ようとしていたことがあるんですよ? 当時、破格の条件で招聘されかけたんですが、アメリカ政府がストップをかけたそうです。来たかったでしょうに。有名になりすぎるのも考えものですねぇ」

 朔貴の口元がわずかに緩む。話題を横道に逸らしながら、笑いを誘う。そんな温度が心地よかった。

「さて、観測と存在の関係といえば、もう一つ、有名な例がありますね」

 教授が黒板にチョークで描いたのは、簡素な箱と猫のシルエットだった。

「――“シュレディンガーの猫”。名前くらいは、聞いたことがあるんじゃないかな?」

 電車が揺れ、朔貴の視線が一瞬だけ窓の外に外れた。朝の光を受けて、並ぶ家々がゆっくりと後ろへ流れていく。存在するはずの風景も、観測しなければただの通過点。

 耳の奥では、教授の声が続いていた。動画の再生バーが半分を過ぎた頃、教授の手が黒板の猫を指した。

「“シュレディンガーの猫”というのは、量子力学の不思議を説明するためのたとえ話です」

 教授は手元のチョークで、箱と猫の図の横に「毒ガス」「放射性物質」「ガイガーカウンター」などの単語を加えていく。

「ここに一匹の猫がいるとしましょう。猫は、放射性物質の入った箱の中に入れられていて、もし粒子が崩壊すれば毒ガスが放出され、猫は死ぬ。崩壊しなければ生きている。でも、箱は閉じたまま。中は観測できません」

 黒板の猫が、笑っているのか、眠っているのか――それすら曖昧に見えた。

「量子の世界では、“観測されるまで状態は決まらない”という考え方があります。つまりこの猫は、誰かが箱を開けて観測するまでは、“生きている”状態と“死んでいる”状態が、両方同時に存在しているんです」

 教授の声は穏やかで、どこか優しさを含んでいた。

「……なんだか、残酷な話にも聞こえますね。でもこれは、“不確かさ”の話ではなく、“可能性”の話なんです。観測者が現れることで、世界の状態が定まる。逆に言えば、誰にも見られなければ、世界はまだ決まっていない」

 朔貴は無意識にスマートフォンを握る手に力を込めた。

「これは量子の話です。でも、日常の中にも似たようなことはあります。誰かが君のことを“見ている”とき、自分の存在がはっきりと感じられる、そんな瞬間、ありませんか?」

 車内のアナウンスが流れ、朔貴の耳にかすかに届いたが、教授の声がそれをかき消した。

「“観測される”ということは、“世界に意味を持つ”ということ。だから、観測されなければ、君は“まだ決まっていない存在”でいられるんです。自分で選べる、どんな未来にもなれる。――ちょっと、夢のある話でしょう?」

 再生は、そこで一度区切られた。


 イヤホンを外しながら、朔貴はふと思う。

 もし、自分が誰にも見られていなかったとしたら、自分は本当にここにいるといえるのだろうか。なんて…

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