第一章:「閉じこめられた午後と、雨の匂いの少年」
――閉じこめられた。
その言葉が頭をよぎった瞬間から、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
「えっと……冗談だよね……」
わたしの声は、静まり返った図書館の空気に吸い込まれていく。
扉はピクリとも動かない。窓の鍵も、外からかかってるみたいだった。
でもおかしい。だってさっきまでは、風が吹いてたんだよ? 人の気配だって、あった。
あの“来館者ノート”だって、あの新聞の切り抜きだって――全部、わたしに向けられてるみたいだった。
「……なんで、わたしの名前……?」
怖い。でも、目をそらしちゃいけない気がした。
そう思っていると、背中にひやりとした風が触れた。
「君、けっこう度胸あるんだね。泣かないんだ?」
振り返ると、また、彼がいた。
白いシャツに、濡れたような黒髪。
あのときと同じ笑顔で、古い本を手に持って。
「うわ、びっくりしたっ……!」
わたしが後ずさると、彼は「ごめん」と言って笑った。
でもその笑い方が、どこか――やさしくて、くすぐったくて。
「図書館で閉じ込められたの、はじめて? この時間になると、出られなくなるんだよ。潮の満ち引きみたいにさ」
「……あなた、誰?」
わたしの問いに、彼は少しだけ首をかしげてから答えた。
「この図書館にずっといるんだ。……“見守る係”ってとこかな」
「職員さん……じゃ、ないよね?」
「まあね。たぶん、君が思ってるより昔からここにいる」
その言い方、気になったけど、なんとなく聞き返せなかった。
「それより――“七つの問い”って、なに?」
わたしが持っている紙片を、彼がのぞきこむ。
「それはね、君がここから出るために、答えなきゃいけないものだよ」
「答えなきゃ、帰れないの……?」
「うん。でも、簡単なことじゃない。……たとえば、最初の問い。“この夏を終わらせたいか”――君は、どう思う?」
わたしは口をつぐんだ。
夏を、終わらせたいか。
ライブ、ロケ、撮影、レッスン。めまぐるしい毎日。
大変だけど、大好きな仲間たちと笑い合える、最高にキラキラした夏。
だけど、わたしは……。
「まだ、わかんない」
彼が少しだけ目を細めた。
「それが、正直だね。……ももかちゃんって、素直な子なんだ」
名前を呼ばれた瞬間、胸がドキンと鳴った。
「なんで、名前……?」
「ノートに書いてたよ。春風ももかって。昔から、よく来てた名前なんだ」
「昔から……?」
わたしが問い返す前に、館内のどこかで、水音がした。
ぴちょん。ぴちょん。
「……なんか、濡れてる?」
「下の階があるんだ。地下書庫。最近、水が湧いてて……立入禁止なんだけどね」
彼が歩き出す。わたしも無意識に、彼の背中を追いかけていた。
知らない図書館の中。なぜか、その背中だけは信じられる気がして。
階段を降りると、空気が一気に冷たくなった。
コンクリート打ちっぱなしの壁。古い棚に、紙のにおい。
そして、床には……確かに水がたまっている。
「この部屋、変なんだ。昔の記憶が、染み出すみたいに」
彼が呟くように言った。
「思い出とか、気持ちとか……水に溶けるんだよ。ゆっくり、ゆっくりと」
「思い出が……溶ける?」
「うん。ここでね、誰かを待ってた記憶も、名前を呼ばれるのを願った声も、全部……水になってる」
わたしは彼の横顔を見た。
まつげが長くて、きれいな横顔。
どこか切なくて、寂しげで――でも、安心する。
「君が来たとき、嬉しかったよ。……もしかしたら、やっと“君”に会えた気がしたから」
「“君”? わたしのこと?」
彼はこくりと頷いた。
「もう何年も、何十年も……君の名前だけが、消えなかった」
その言葉が、胸の奥にぽちゃんと落ちて、波紋を広げた。
名前を、呼ばれた。
この夏に、はじめて、ちゃんと。
わたしは気づいた。
この図書館は、ふたりだけの秘密基地だ。
この夏が、今ここから始まってるんだって。
そして――
この少年に、恋をしてしまったってことに。