第四章「扉の向こうで、もう一度恋をする」
八月七日。
夏祭りの夜、校舎の窓からは遠くの花火が見えた。
わたしは、制服のまま、誰もいない旧校舎の廊下を歩いていた。
夜の校舎は、もう怖くない。
むしろ、心が落ち着く場所になっていた。
あの日――
カナトと交わした約束は、夢だったのかもしれない。
でも、あの熱も、痕も、感触も、全部が本物だった。
わたしは、彼を宿して生きている。
でも、ここ数日。
彼の“声”を感じなくなっていた。
体温が下がっていくような、
静かに終わっていくような、寂しさが胸に広がっていた。
だから、わたしはもう一度、鏡の前に来た。
扉を開けるように、
眠る彼に、語りかけるように。
「カナト……ねえ、もう一度、会いたいの」
「わたし――もう一度、恋がしたい」
言葉が、静寂に吸い込まれていく。
でも、その瞬間だった。
ぴちょん……
床に、水音が落ちた。
足元を見ると、光る水のしずくが広がっていく。
まるで、鏡の中の世界が逆流してきたように。
空気が波打ち、温度が変わる。
「……しずく」
その声は、心の奥から響いた。
鏡の中に、再び彼が現れた――
けれど、今度は“鏡の中”ではなかった。
鏡の表面が、ひとつの“扉”のように、
音もなく開いたのだ。
「――ようこそ、僕の世界へ」
彼は手を伸ばしていた。
前よりもはっきりと、温かく、現実に近い存在だった。
「ほんとうに、行ってもいいの?」
「うん。きみの心が扉を開けてくれた。
今度は、きみの意思で来てほしい」
わたしは、彼の手を取った。
光が、わたしを包んだ。
水の中のような感触。
でも、苦しくない。むしろ、懐かしい。
そして、次の瞬間――
世界が、反転した。
そこは、見たことのない風景だった。
校舎のようで、校舎ではない。
静かで、ぬくもりに満ちていて、
どこまでも青い、光の海のような空間。
「ここは、魂の記憶が漂う場所。
ぼくは長い間、ここにいた。
でも、きみが来てくれたから……もう、ひとりじゃない」
カナトの瞳が、わたしを見つめる。
「ずっと、言いたかった。
……しずく、きみに恋をした」
わたしは、息をのんだ。
胸の奥が、ぎゅうっと熱くなって、
気づいたら、涙がこぼれていた。
「……わたしも……恋してる。
きみが幽霊でも、記憶でも、想いの残りでも、
わたしは、きみを好きになったの」
カナトがそっと近づく。
唇が、重なる。
あたたかく、深く、
魂と魂が触れ合うような感触。
わたしの心が、震える。
彼の想いが、波のように押し寄せてくる。
「――もう、戻れないかもしれない」
彼は、呟いた。
「この世界に来たら、きみは“人間”としては戻れないかもしれない。
時間も、記憶も、姿も……いろんなものが変わっていくかもしれない」
「それでもいいよ」
わたしは、微笑んだ。
「だって、きみと一緒にいたいから。
それが、“恋を選ぶ”ってことなんでしょ?」
カナトの目が潤んだ。
彼は、わたしを強く抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、しずく」
そして、わたしたちは
光の中に、溶けていった。
水面がきらめき、空間が揺れる。
ふたりの心が、ひとつになって、
新しい形に生まれ変わる。
それは、“幽霊”と“人間”という垣根を超えた、
まったく新しい――魂の恋。
目を覚ましたとき、
わたしは、自分の名前を忘れていた。
でも、隣にいた男の子が、
わたしの手を握って言った。
「……しずく」
その名前に、胸がぎゅっと締めつけられた。
わたしは、きっと、
もう一度、彼に恋をする。
――扉の向こうでも、
わたしたちの恋は、何度でもはじまる。