第三章「わたしを忘れても、恋してた証を残して」
八月一日。
セミの声がけたたましく鳴く午後。
わたしの体に、再び“異変”が起きた。
目が覚めると、
枕に長い銀の髪が絡みついていた。
自分の髪……じゃない。
「……夢?」
手の甲を見た。
まるで誰かに引っかかれたような、白い跡が残っている。
赤くはない。痛みもない。
でも、明らかに“そこにあった証”だった。
前の晩、わたしは――
カナトと、指を絡めた。唇を重ねた。
そして……もう一度、深く繋がってしまった。
鏡の中で、じゃない。
現実の世界に、カナトは“出てきていた”のだ。
「……最近さ、しずく元気ないよね」
スタジオでの撮影中、ももかが心配そうに声をかけてきた。
「ううん、大丈夫。ただ、ちょっと夢見がちになってるだけ」
「それが大丈夫じゃないんだってばー!」
そう言って、ももかは笑ったけど、
わたしの心には届かなかった。
わたしはもう、“こっちの世界”だけで生きていけない。
カナトの世界――“あの水の底”に、
わたしの心は半分、沈んでしまっていた。
夜。
旧校舎の音楽室。
鏡の前で、わたしは立ち尽くした。
「……カナト?」
呼んでも、応えてくれなかった。
姿がない。
声も、ぬくもりも、なにも残っていない。
まるで、
最初から誰もいなかったみたいに、静かだった。
「……どうして」
震える手で鏡を撫でた瞬間、
冷たい水の音が跳ねた。
鏡の中に、うっすらと“しみ”のような影が浮かんだ。
「しずく……ごめん。僕、もう……長くはいられない」
その声は、もう、風の音と変わらなかった。
「ダメ……! そんなのダメだよ……!」
わたしは叫んでいた。
せっかく出会えたのに。
せっかく“心と体”で触れ合えたのに。
どうして、こんな終わり方があるの?
「わたし……ずっときみのこと、忘れないから……っ!」
涙があふれた。
鏡に頬を寄せた。
冷たいガラスが、まるで彼の肌のようで。
それが、また胸を締めつけた。
「だったら……」
かすれた声が、鏡の中から響いた。
「ぼくの“想い”を、君にあげる。
そうすれば、きみが生きている限り、ぼくは……消えない」
「……どういうこと?」
「きみの体に、ぼくの存在を“宿す”んだ。
この世界に、ぼくがいた証を――残す」
その瞬間、鏡がぐらりと揺れた。
部屋の空気が歪み、水音が一斉に鳴り響く。
「いいの? それをしたら……」
「ぼくは、きみの中で“眠る”だけ。
そして、きみが思い出してくれるたび、また目を覚ます」
水面のような光が、鏡から溢れた。
わたしの足元に、青い波紋が広がる。
その中心に、カナトが立っていた。
もう、完全に“人間”の姿をしていた。
髪は濡れて、頬はほんのり赤くて、
手のひらは、あたたかく――現実のものだった。
「最後に……もう一度だけ、いい?」
「うん」
わたしは目を閉じた。
唇が重なる。
熱が走る。
体の奥、心の芯、ぜんぶが繋がっていく。
――わたしは、きみに恋をした。
たとえ、忘れてしまっても。
たとえ、みんなが信じてくれなくても。
その証は、この身体の奥に、ちゃんと残っているから。
朝。
目覚めたベッドの上。
カーテン越しに差し込む日差しは、やけに眩しかった。
鏡を見ると、
首筋に、指先の跡のような痕が――
重なって、残っていた。
「……夢じゃないよね、カナト」
呟いた瞬間、胸の奥で、ぽうっとあたたかいものが灯った。
“わたしが恋をした証”が、たしかにそこに、いた。