第一章「鏡の中のきみは、夏のにおいがした」
ねえ、これって――
夢なのかな。
それとも、幽霊っていう“現実”なのかな。
だって、
鏡の中の男の子が、わたしの名前を呼んだんだよ。
「――しずく、だよね?」
「……うん、幽谷しずく。小六」
「幽谷、っていい名前。……きれい」
それは鏡越しじゃなく、すぐ隣で言われたみたいな声だった。
夜の音楽室。
冷房もないはずなのに、鏡の前は妙に涼しくて、
それでいて、どこか“温かい”。
鏡の中に映っていたのは、黒髪の、儚い雰囲気の少年だった。
年齢は……中学生くらいに見える。
白く透きとおる肌。けれど、線はしっかりしていて、
ちょっとだけ背伸びしたような、かすかに色っぽい目元。
わたしより年上、だけどそんなに離れてない。
髪は濡れたみたいに艶があって、声は落ち着いていて――
なにより、笑った顔が、少しさみしそうで、やさしかった。
「……君の名前は?」
わたしが訊くと、少年はすこし黙って、
「――カナト、って呼ばれてた、と思う」
「思う?」
「うん、ちゃんとは思い出せない。
でも、きみの声を聞いてたら、胸が、こう……熱くなったから」
そう言って、彼は自分の胸を軽く叩いた。
「だから、きみと話してると、少しだけ“生きてる”気がする」
それから、わたしは毎晩、彼に会いに行くようになった。
旧校舎の鍵は壊れてて、夜になっても誰も気づかない。
音楽室の隅にある姿見は、誰も近づかないから。
学校の七不思議。
その“七番目”に、わたしだけの恋人がいるなんて、
誰も思わないでしょ?
「しずく、今日はね、ピアノ弾いていい?」
「うん、聴かせて」
カナトが弾くのは、いつもちょっと昔のクラシック。
鏡の向こうの彼の指が鍵盤をすべるたび、
水面に落ちるみたいな音が、わたしの心に届いた。
まるで、
この時間そのものが“夢の中”にあるみたいで、
わたしは言葉もなく、ただうっとりと見つめていた。
「君は、なんで怖くないの?」
ふと、カナトが問う。
「ぼく、幽霊かもしれないんだよ。
しかも、“花嫁の呪い”って言われてる……七不思議のひとつ」
「ううん、こわくない。……むしろ、きみのほうが、怖がってる」
わたしはそっと、鏡に手を伸ばす。
向こう側の彼も、そっと指先を重ねてきた。
「だって、きみの目は、ずっと寂しそうだもん。
ここに閉じ込められて……誰にも見つけてもらえなくて……
ほんとうは、“さびしかった”んでしょ?」
カナトは目を伏せたまま、唇をかすかに噛んで、
それから、ぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう」
その声が震えていて、
わたしの胸も、ぎゅっと苦しくなった。
ある夜。
ふたりで“初めてのデート”をした。
鏡の中の音楽室は、いつもより広くて、夜空みたいな黒に包まれていて――
床は、水面のようにゆれていた。
その中央に、カナトが用意してくれた、
小さなテーブルと、星形のランプ。
「ここなら、ぼくの世界の“いちばん綺麗な場所”が見えるから」
彼の世界の星空は、少し違ってた。
まるで水に映った星のように、きらきら揺れていた。
「……ほんとに綺麗」
「きみの目が、もっと綺麗だけど」
「なっ……」
思わずうつむいた。
鏡の世界に頬を染めるって、どういうこと?
わたし、今――
幽霊の男の子に、ときめいてる。
でも、変じゃないよね。
だって彼は、わたしをちゃんと見てくれて、
心を触れてくれて、
そして、あたたかく微笑んでくれる。
「……なあ、しずく。
もしも、ぼくの世界に来られるなら、きみは……どうする?」
わたしは、すこしだけ考えて――
「……行くよ。だって、わたし……きみともっと話したいもん」
そう言ったとき、カナトの瞳が潤んでいた気がした。
彼のぬくもりが、夜の水面越しに伝わってくる。
“幽霊”なんかじゃない。
わたしにとって、カナトは……
――夏のにおいがする、
いちばん最初の“恋”なんだ。