プロローグ:「七つ目は、鏡の中に」
夏休み直前の放課後。
セミの鳴き声が、少しだけ遠くなってきた気がした。
廊下の窓から差し込む光は長くて、ゆっくりと色褪せていく。
「……ふふ、やっぱり、ここにいた」
誰もいない旧校舎の廊下を、わたしはひとりで歩いていた。
手にしているのは、ボロボロになった《天の杜学園 七不思議》のコピー用紙。
この学園には、夜にまつわる奇妙な噂が七つある。
でも、その“七つ目”だけは、なぜか誰も語ろうとしない。
「鏡の中の花嫁」
夜の音楽室、古い姿見の鏡を覗いた者は、
もう戻ってこない――。
そんなふうにしか、誰も言ってくれなかった。
詳細を知っている人は、口を閉ざして、目をそらす。
でも、どうしても気になったの。
“消える”って、どういうこと?
本当に、なにかいるの?
そしてなにより――
……その花嫁は、ほんとうに“女”なの?
音楽室の前で足を止めた。
夕暮れの光が、古びたドアを赤く照らしている。
誰もいないのに、妙に静か。風の音もしない。
「入るよ?」
誰にともなく、そう声をかけてから、ドアを押した。
ギィ……という鈍い音が、心臓にひっかかる。
薄暗い室内には、古いアップライトピアノがぽつんと佇んでいた。
その下、壁際に立てかけられた――“鏡”。
立ち姿のまま全身が映るほど大きな、縁の欠けた姿見。
でも、表面は奇妙なほどきれいで、ひとつの傷も曇りもなかった。
わたしはそっと、指を伸ばした。
ぴたり、と。
鏡の中に、誰かの影が立っていた。
わたしじゃない。
角度も違う。目線も違う。
これは……誰?
「きみ……見えるの?」
男の子の声だった。
水に沈んだように、ぼやけていたけど、確かに聞こえた。
一瞬で、心臓が跳ねた。
怖い……はずなのに、不思議と逃げ出したくはなかった。
「……きみ、だれ?」
「ずっとここにいる。
でも、誰も気づいてくれなかった。
……やっと、きみが来てくれたんだね」
鏡の中の彼は、わたしを見つめたまま微笑んだ。
その顔には、泣き出しそうなほど切ない色が浮かんでいた。
怖い。でも、目が離せない。
わたし、なにかとても大事なものを、見つけてしまった気がした。
「……じゃあ、ねえ、」
わたしは気づけば、唇が勝手に動いていた。
「きみと――デート、しよっか?」
彼の目が驚いたように見開かれ、それからやわらかく笑う。
「……うん、いいよ。
でも、ここでのデートは、ちょっとだけ――特別だよ?」
その瞬間。
鏡の向こうから、水音がした。
ぽちゃん……と、水面を叩いたような音。
その波紋が、わたしの目に映る現実を、ゆっくりと揺らしていく。
――始まる。
これは、ただの“怪談”なんかじゃない。
今夜、わたしは本当に、
この世界じゃないところで――恋をする。