第三章:「嘘だったら、君を信じないですんだのに」
朝がきて、わたしは彼の腕の中で目を覚ました。
その瞬間、最初に浮かんだ感情は――安堵。
生きてる。
彼も、わたしも、ちゃんとここにいる。
だけどその次に、胸の奥にわずかなざわめきが生まれた。
彼の額に触れた指先が、はっきりと“熱”を感じたから。
「ねえ……なんか、ちょっと熱っぽくない?」
「ん……そうかも。少しだるいな」
彼は微笑んで、わたしの手を取る。
でも、その笑顔の奥に、わずかな“気づいてる顔”があった。
わたしはそのとき、自分の心臓が、静かに凍っていくのを感じた。
彼が感染しているかもしれない。
それは、きっと昨日から――いえ、もっと前から始まっていたのかもしれない。
あのとき、彼の足にできた傷。
あのとき、濡れた床を通り抜けた彼の身体。
そして……わたしとキスを交わした、あの瞬間。
もし、あの熱がウイルスの兆候だったとしたら。
もし、あの夜で“彼の何か”が変わってしまっていたとしたら。
わたしは、どうするんだろう。
「ねえ……」
「うん?」
「もし、もしだよ? もし君が、“向こう側”になっちゃったら……わたし、どうしたらいい?」
彼は一瞬だけ目を閉じたあと、
静かに言った。
「――殺してくれ」
息が止まった。
「……そんなの、できないよ」
「でも、あおいちゃんがやらなきゃ、誰がやるの?
俺が“それ”になったら、君に危害を加える。
絶対、そうなりたくないんだ」
「だったら、生きててよ。変わらないでよ!」
感情があふれた。
怖くて、悔しくて、苦しくて。
わたしは、彼の胸にしがみついて泣いた。
子どもみたいに、ぐしゃぐしゃに。
「……信じてるよ。でも、もし嘘だったら……君を信じないですんだのに……!」
感染はまだ進んでない。
そう、思いたかった。
わたしは、残っていた“ミネラルウォーター”をすべて彼に飲ませた。
「島の水はだめ。たぶん、あれが原因……。これなら、まだ止められるかもしれない」
「君、ほんとに……なんなんだよ。強すぎる」
「強くなんかないよ。
君を、失いたくないだけ。わたし、初めてだったから……こんなふうに、誰かのことで泣くの」
彼が、静かに目を伏せた。
「じゃあ……俺も、強くなる」
その日、わたしたちはずっと手をつないでいた。
彼の熱は、夕方には少し落ち着いた。
でも油断はできない。
体温計も検査キットもない。
この島では、“鼓動”だけが頼りだった。
夜、ふたりで空を見上げた。
星が滲んで見えたのは、きっとわたしがまた泣いてたから。
「……あおいちゃん」
「なに?」
「俺、君に出会えてよかった。
死ぬ前に、君に触れられてよかった。
キスして、抱きしめて――君の“全部”を感じられて、ほんとによかった」
「やだ……やめて……遺言みたいに言わないで……!」
「でも、本当に……ありがとう」
彼がわたしを強く抱きしめる。
わたしの胸の奥が、ギュウって音を立てて、割れそうだった。
「君が“終わり”をくれたとしても、俺はぜんぶ、幸せだったから」
わたしは、彼の口を塞ぐように、もう一度キスをした。
黙って。
もう何も言わないで。
まだ終わってない。
まだ、生きてる。
このキスで、わたしは“彼の命”を、ここに引き止める。
明け方、彼は目を覚まし、穏やかに笑った。
「……あおいちゃん。俺、大丈夫かも」
その額には、もう熱がなかった。
汗がひとすじ、こめかみをつたって落ちた。
わたしはその涙みたいな水を、そっと指でぬぐった。
「うん。きっともう、大丈夫。
だってわたし、“感染”より深く、君のこと……愛してるから」
彼が照れくさそうに笑って、
「告白、ズルい」って言った。
そうしてふたり、朝日を迎えた。
もう一度、生きられる。
ふたりで、また明日が来る。