始まりの一杯
残業明け、仕事帰りの夜道。冷えた風に煙草の火が恋しくなって、なんとなく入り込んだ細道。そこで目にしたのが、古びた木製看板の「喫茶みやび」だった。
入り口には“喫煙可”の文字。社会人になってからの悪い癖――それでも、今夜は一服が恋しかった。
扉を開けると、クラシックが静かに流れ、コーヒーの香りが濃く漂っていた。
喫煙席は入り口すぐ。康太はそこに腰を下ろし、タバコに火をつける。
灰皿の上、ゆっくりと煙が立ち昇るそのとき、再びドアベルが鳴った。
カラン――。
顔を上げると、ベージュのコート姿の女性が入ってきた。
そしてその視線が、ほんの一瞬だけ、康太を横目でとらえる。
見返したかと思ったら彼女が声を発した。
「えっ……中園先輩?」
康太が顔をあげたその先には懐かしい顔があった。
「宮本……なのか?」
大学時代、文芸サークルで一緒だった後輩。卒業以来、一度も会っていなかったはずなのに、彼女はほんの一瞬で彼だと気づいた。
「まさか、こんなところで会えるなんて」
「俺もだよ。……びっくりした」
詩織は笑いかけてきたが、視線が灰皿にすっと向いた。
康太はその視線に何も言わず、静かにタバコの火を灰皿に押し付けて消した、さりげなく。
以前と変わってしまった自分を彼女に見られたくなかった。
彼女が提案する。
「よかったら……奥で、少しだけ話しませんか? 禁煙席、空いてるはずなので」
「いいよ」
康太は席を立つ時にわずかにお腹を引っ込めた。
詩織の前で、たるんだ身体を見られるのが妙に恥ずかしかった。
⸻
禁煙席は、康太が思ったよりもまばらだった。
向かい合って座ると、注文したコーヒーが置かれる。詩織は湯気を吸い込むように、深く香りを楽しむ。
彼女の薬指に指輪が光る。
「ここのコーヒー、やっぱり美味しい。豆も焙煎も丁寧で、苦いのに優しいの」
「そんなに通ってるの?」
「はい、もう2年くらいでしょうか。仕事のの帰りに。……落ち着くんですよね、ここ」
「確かに…静かで、いい店だな」
「でも、まさか先輩がいるなんて思わなかったしかも、入り口側の席に」
「喫煙可って書いてあったから……なんとなくね」
「……そうなんですね」
詩織は微笑んだ。けれど、その笑みの奥に、どこか寂しげな揺らぎが見えた。
「俺、仕事始めてからタバコ吸い始めたんだ」
「大学のときは吸ってなかったですよね。びっくりしましたけど、仕事のストレスですか?」
「そうね。ストレス耐性ある方だと思ってたから、タバコ吸うようになるとは自分でも思ってなかったよ…」
詩織は小さく笑った。
「もしかして……結婚、するの?」
康太の不意の問いかけに、詩織の動きが一瞬止まる。
「……はい。ただ、結婚のタイミングで…相手の実家が医者でね。向こうのご両親からも、“仕事はもうしなくていい”って」
「そうか…何か迷いがある?」
詩織は一度だけ視線を伏せ、少しだけ眉間にしわを寄せた。
「ん…ですね。今の仕事、ずっと、本作りに関わりたくて頑張ってきたので。でも……わかってるんです。結婚って、相手との“妥協”も必要だって」
「でも、ほんとにそれでいいのか?」
詩織は苦笑する。
彼にとっての彼女は以前の記憶のままだったが、実際は少し変わったのかもしれない。
「大学の頃から、変わってないですね、先輩。私のこと気遣ってくれた」
彼女は羨むように、懐かしむように、そう言った。
「……そういえば、覚えてます?」
「何を?」
「私が文芸サークルに入ったばかりのとき。新歓で、なんだか場に馴染めなくて。あのとき、先輩が隣に座ってくれたの」
康太は少しだけ首をかしげたあと、ふっと思い出すように目を細める。
「ああ、あのときね。真ん中で盛り上がってるところに入りづらそうだったから」
「『静かめな方が好き?』って声をかけてくれて。私、正直、すごく緊張してて……助かったんです。あのとき」
「……そんなに大げさな話でもないよ。ちょっと気になっただけ」
詩織は笑う。その目が、ほんの少しだけ潤んで見えた。
「歓迎会のあと、風邪ひいたって言ったでしょ? そのときメールくれたの、覚えてます?」
「“うつしてたらごめん”って送ったやつ?」
「そうです。あんなに人いたのに、私のこと気にしてくれて……びっくりしました」
康太は、ほんの少しだけ目を伏せる。
「せっかく来てくれたのに、俺のせいで、君が体調崩してたら嫌だったから」
「それからも私のこと気にかけてくれてた…そういうとこ、さっきと変わらないですね」
詩織はコーヒーを一口飲んだ。その仕草のなかに、どこか過去の自分達を見つめるような、静かな温度があった。
「そういえば、先輩の彼女、あの明るい子」
「……うん。社会人になってから、結局うまくいかなくてね。俺が頼りないってのがあったんだと思う。結局、他の男とね……」
詩織は何も言わず、ただ黙って康太を見つめていた。
「でもさ、そういうのも、俺に足りなかった部分だったんだろうし。仕方ないよ」
「優しいだけじゃ、って言葉があるけど、私は……“優しいだけ”の人に、救われたことよく覚えてます」
詩織の目が、まっすぐに康太を見ていた。
康太は何も言わず、そのままカップの底に残ったコーヒーを見つめた。
⸻
時間はゆっくりと過ぎ、コーヒーの湯気ももう見えなくなっていた。
「私、変わりました?」
「どうかな。踏みとどまって見えるかな?」
康太には素直に彼女がそう見えた。
「やっぱり、よく見てくれてる……」
「…先輩……私、結婚に迷いがあって……このままでいいのか分からないです……」
「……無責任かもしれないけど…自分の思いに誠実なほうが俺の知ってる宮本な気がする」
康太には彼女が、昔の彼女と変わってしまった事に後悔をしているように見えた。
だから、無責任かもしれないが、思ったことを素直に伝えた。
彼女は背中を押して欲しかったのだろう、ただ、それは誰でも良いわけではない。
「ですよね……うん。今から断ってくる」
言うなり彼女はスマホを握って店の外へ出た。
康太は呆気にとられ後ろ姿を見続けるしかなかった。
どのくらいの時間がたっただろうか。彼女は疲れた様子で、でも、充実感があるような表情で戻ってきた。
「断ってきました」
「そっか」
康太は一言、話すだけで、それ以上、言葉が出てこなかった。
すっかり冷めてしまったコーヒをぐいっと飲み、康太は話し出す。
「明日、土曜日だけど、仕事休み?」
「休みですけど…?」
彼女は質問の意図が分からないといった表情をする。
「一緒に映画でも観に行く?」
「はい……先輩から何かに誘われたの初めですね…」
彼女は、驚きの表情を垣間見せ、念願叶ったそんな笑顔を見せる。
「そうかな?」
康太は彼女の笑顔に照れながらそう返した。
「待ち合わせ場所はここにしよう、明日の12時に」
「はい、先輩。」
康太と彼女の前に2杯目のコーヒーが注がれる、それは新たに始まる2人の関係の始まりの一杯になるのだろう。