21人日:二人の女性
その女性は、朝、ゆっくりと目を覚ました。エアコンが切れていたのか、部屋には熱気がこもり、額に汗が滲んでいる。ベッドから起き上がり、窓辺へ歩み寄ると、カーテンを大きく引き開けた。霞んだ青空の中、スカイツリーが遠くにそびえ立っている。軽く背伸びをしてからテレビのスイッチを入れ、シャワーで汗を流す。湿気を拭いながら、深い溜息がこぼれた。
「ふぅ……」
今日は土曜日。仕事は休みだ。明日もまだ、猶予がある。テレビからは、芸能人が渋谷の街を散歩する様子が映し出されていた。
「さて、今日も張り切るか」
そう呟きながら、ひととおり支度を終えた真壁沙耶は、再びベッドに身を預けた。もっとも、”支度”といっても大げさなものではない。先ほどのシャワーと、歯磨き、髪をざっと整えただけだ。どれも習慣的な動作に過ぎず、今回の目的とはほとんど無関係だ。
転移中は体温も自動で調整されるはずだが、万一に備えてエアコンを“ドライ”に設定する。これはもう、儀式のようなものだった。
「テレビと電気、オフっと」
彼女はぶつぶつと呟きながら、右手の手首にブレスレッットをそっとはめた。そこには、深紅に輝く宝玉が埋め込まれている。
「イルカ」
彼女がその一言を発すると、空中にふわりとイルカのホログラムが浮かび上がった。映し出されたのは、沙耶のインターフェースAIだった。
「こっちは準備はいいわ。素体の準備、よろしくね」
ホログラムのイルカが軽やかに頷いた。沙耶が思考を集中させると、空中にホログラムが浮かび上がった。
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《対象:真壁沙耶》
年齢:33歳
性別:メス
状態:肉体・異常なし
【オペレータ権限】確認完了。
ルメイナ宙域へのプロビジョニング処理を開始まで……7分23秒
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沙耶がふと気づいた。
「おっと、忘れてた、忘れてた」
そう言うと、彼女は冷蔵庫からオレンジジュースを二本取り出した。ブレスレットに埋め込まれた宝玉へ軽く触れ、思考を巡らせると、眼前にホログラムが立ち上がる。まるでハリウッド映画の一場面のように、光のラインが対象物の輪郭を浮かび上がらせ、スキャン映像が美しく描写されていく。そのホログラムには、物体の材質や成分情報までもが緻密に映し出された。
彼女は続けて、テーブルの上に置かれたスマートフォンとコミック本へセンサーを向けた。スマホは外観だけでなく内部の基盤構造まで精密に解析され、表示される。
コミック本も同様に、一ページごとの紙質やインクの組成に至るまで詳細にスキャンされていった。
最後に、テーブルにあったポテトチップスの袋にもセンサーを向けると、映像はカサカサとした包装の質感まで忠実に再現した。一通りのスキャンを終えると、彼女はジュースを冷蔵庫に戻し再び布団へと潜り込んだ。
しばらくすると、
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【オペレータ権限】確認完了。
ルメイナ宙域へのプロビジョニング処理を開始します……。
デプロイ実行中…… 3%
接続時間……52秒
Kepler-442b connection is established……
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ホログラムにその文字が浮かび上がった瞬間、不意に重たい眠気が襲ってきた。沙耶のまぶたがゆっくりと落ちていく。抵抗する間もなく、視界は次第に暗くなり——完全に閉じた、その刹那。
白い光の線が、光速にも近い勢いで渦を巻き始めた。視界の奥、闇の中を無数の星々や星雲がすり抜けていくような感覚。まるで宇宙そのものを旅しているかのようだった。
その中心に、ひときわ強く輝く光点が現れ、沙耶のもとへまっすぐに迫ってくる。
——そして、次の瞬間。
彼女ははっと目を覚ました。
そこは、まるで全面が純白で構成された滅菌室のような空間だった。声を出せば反響しそうなほど無機質で静寂。だが、それは尚也が対処したドームにも似ている——ただし、こちらのほうが遥かに規模が大きい。
沙耶は、なめらかで美しい石畳の上に横たわっていた。まるで磨き上げられた大理石のベンチの上に寝かされていたかのような感覚だ。ゆっくりと身を起こすと、スマホやオレンジジュースなど、スキャンしていたものはすべてそのまま持っていることを確認した。
次に、自分自身へ視線を移す。赤いトップスに、腹部が大胆に露出した軽装。動きやすさを重視した衣装だ。そして——年齢もまた、見た目には十六歳ほど。薄紅色の髪をした少女の姿に若返っていた。
しかし沙耶にとって、この“変化”は気にするほどのことではなかった。慣れた様子でゆっくりと足を動かし、螺旋状に伸びる低い階段へと向かう。すると、足が触れた途端、階段は淡く発光しながら滑らかに動き出し、エスカレーターのように下方へと彼女を運んでいった。
その階下には、一人の女性が胡坐をかいて座っていた。彼女の周囲には、数十台はあろうかという詠動陣櫃が規則正しく配置されている。その中の二台は鍵が解除されており、女性はその正面に陣取っていた。彼女の姿は、タイト目なトップスに、短めのスカート。身体にぴったりとフィットしたその衣装は、ブロンドの髪と相まって、機能性と美しさを兼ね備えていた。
女性の前にはいくつものホログラムが展開されており、彼女はその一つの作業を終えると、軽く手を払う仕草で視界の外に流し去った。そしてすぐに、別のホログラムを引き寄せるようにして前方に展開させ、新たな操作を始める。
「おっはー!」
エスカレーターのように動く階段を降りきった沙耶は、明るい声で軽やかに挨拶を投げかけた。
「おっそいわー、もうこっちは昼なんだけどー?」
胡坐をかいたまま、詠動陣櫃の前に座っていたセフィア・リュースが、気だるげに返す。その口調には文句よりも、どこか待ちわびていたような色が混じっていた。
沙耶は軽く頭を下げて、手にしていた冷えたペットボトルのオレンジジュースを差し出した。コピー品ではあるが、材質も成分も正確にスキャンされており、温度もきっちり再現されている。冷蔵庫から直行のそれは、キンキンに冷えていた。
「お、さんきゅっ!」
ジュースを受け取ったリュースは片目をつむってウインクする。そしてすぐに、ふてくされたように頬を膨らませた。
「沙耶が“朝イチで来る”って言ってたのに、遅いからこっちでほとんど片付けちゃったよ?」
「ごめんごめん」
と沙耶は苦笑し、片手で拝むような仕草を見せた。すぐに話題を変えるように、彼女はリュースの前にそっと一冊の本を差し出す。
「でも、これでどう?」
それを見たリュースの表情が一変した。驚きと喜びが入り混じった目で沙耶の手元を見つめる。
「そ、そ、それって……!“薬局屋のひとりごと”の最新刊じゃん!!」
声を上ずらせながら、リュースは体を乗り出す。すでに理性より好奇心が勝っている。
「見たい! 見たい! あの二人どうなるの!? やっぱさ、あの虫好きの子、関係あるんでしょ!?」
沙耶はにやりと笑い、まるで獲物を前にした猫のような目でリュースを見つめた。彼女の手がリュースにコミック本を渡そうとする——が、直前でピタリと動きを止め、本をスッと引っ込める。
「ああ」
悪戯っぽく呟く沙耶。その一言に、リュースは肩を落とした。
「……ちょっと、本読む前に付き合ってよ」
沙耶の声には、少しだけ真剣な響きがあった。その変化に気づいたリュースは、手元のホログラムを一時停止し、眉をひそめながら尋ねる。
「もしかして……新任のメガネ君のとこ?」
「そう。彼、今レガリスに向かってるみたい。飛べばすぐだし……挨拶、行こうよ」
リュースの口元がわずかに引き締まり、軽くため息をついたその仕草には微かな戸惑いと、断ち切れないコミック本への未練のようなものが混ざっていた。
「……挨拶終わったら、即帰ってくるよ」
わずかに口角を上げて見せたリュースの表情は、諦めとも、優しさとも取れる曖昧なものだった。