19人日:詠動神の神様
詠光量筒を同じくルイスから譲り受けた腰の専用ホルスターにしまって歩いていると、革製のホルスターが尚也の腰にしっくりと馴染む感覚があった。この世界の職人の技術は確かなものだと改めて実感する。歩くたびにわずかに響く金属音が、なんとも言えない安心感を与えてくれる。
そんな時、朝に泣いていた女の子がグレイスの腰に抱き着いてきた。突然の出来事にグレイスは驚いたような表情を見せたが、すぐに優しい笑顔を浮かべて小さな頭を撫でてあげた。
「あたしはルナだよ。ありがとう、お姉ちゃん!」
澄んだ瞳と人懐っこい笑顔が印象的な、この世界らしい純真さを持った少女だった。グレイスはその温かな光景に心を和ませながら、ルナの小さな頭を優しく撫で続けていた。
次にルナは、尚也へと身体を向けた。彼女の視線を受けた瞬間、尚也は自分の表情筋が緩むのを自覚した。例え異世界でも、人懐っこい子どもの笑顔が与える安心感は変わらない。
「おじちゃんも、ありがとう!神様も泣かなくなったから、安心して眠れるよ!」
「お……おじちゃん……」
尚也はおじさんと言われてちょっとショックを受ける。彼の顔には困惑と少しの落胆が浮かんでいた。確かに異世界に来てから色々と苦労続きで、疲れが顔に出ているのかもしれないが、一応、十六歳なのに。グレイスは尚也の困った表情を見て、小さく微笑んでいた。
すると、山の谷間から、ウォォォォ……オォォォ……と声のようなものが響く。
それは確かに何かが歌っているような、あるいは喜びの声を上げているような不思議な響きだった。風が岩肌や木々の間を通り抜ける時、生まれる自然の音楽のようでもある。三人は足を止めて、その神秘的な音に耳を傾けた。
それをルナは目を輝かせながら、グレイスと尚也を交互に見上げ、弾む声で言った。
「あ!”詠動神の神様”がよろこんでいる!神様も嬉しいんだね!」
尚也は、それが谷間を吹き抜ける風による共鳴現象だと気付いた。地球でも、風が特定の地形を通ると音が反響し、まるで巨大な楽器のように響くことがある。大人は何でも科学で説明しようとするが、子供はそこに“魔法”や“神秘”を感じ取る。その発想力のすばらしさに、尚也は驚かされるのだった。
「そうかもしれませんね、ルナちゃん。神様も喜んでいるのでしょう」
グレイスがそう答えると、ルナは、尚也とグレイスの間に入って手をつなぐ。小さくて柔らかい手が、まるで橋渡しをするように二人を繋いだ。グレイスは少し驚いた様子だったが、すぐに優しい表情でルナの手を握り返した。
三人で手をつないで歩いている中、尚也は心の中でつぶやく。
「おれ、十六歳なんだけどなぁ……」
小さな声だったが、グレイスの耳は逃さない。彼女は口元を抑えながらくすくすと笑い、からかうような柔らかさで応じた。
「十六歳なら、ルナちゃんとそう変わりませんね」
さらにショックを尚也は受ける。精神年齢を暗に示されたかのようで、尚也は苦笑いとともに視線を落とす。それでもグレイスの声音には悪意どころか親しみが満ちており、彼は逆に心を緩ませた。
歩を進めるうち、尚也はふとグレイスの年齢が気になった。旅のパートナーとして信頼を寄せながらも、女性に年齢を尋ねるのは失礼かもしれないとずっと躊躇していたのだ。だがここまで来たら聞くしかない、と小さな決意の火を灯し、彼は訊ねる。
「グレイスは……いくつなの?」
風が木を揺らす音に溶け込むような小声だったが、グレイスはきちんと耳を傾けた。彼女はほんのわずかに頬を染め、恥じらうような笑みを浮かべて告げる。
「四十歳ですよ」
尚也はショックを受ける。四十歳!? 見た目は十代後半にしか見えないのに!彼の目は驚きで大きく見開かれ、口も少し開いていた。
尚也は地球での四十歳女性像を思い浮かべた。職場を支配する女帝のような上司、商店街で井戸端会議をしている主婦たち……。そんな光景が彼の頭の中を駆け巡る。でも目の前のグレイスは、そのどれとも全く違う。美しく、若々しく、凛としている。
その光景を横で見ているサエコはくすくす笑う。
『この世界の人にとって、四十歳なんてまだまだ若い方ですよ』
サエコの説明で、尚也は少し納得する。異世界だから、寿命も地球とは違うのだろう。それでも、四十歳という数字のインパクトは大きかった。
三人が手をつないで歩いている姿を横で見ていて、サエコは温かい眼差しで言う。
『本当に家族のようですね。お父さんと、お母さんと、娘さん……なんて』
尚也は少し照れながら、答える。
「ち、違うわ!俺はまだ若いはずだし……」
どちらかというと、あまりうれしくはないのかもしれない。そう思ったが、でも、悪くない気分だった。こんな風に誰かと歩くのは、地球にいた頃にはあまり経験したことがない。彼の心の中には、複雑だが温かな感情が芽生えていた。
グレイスはかなり照れている様子で、頬を薄く染めながら俯いている。
「家族……ですか。そんな風に見えるでしょうか……」
その声は小さくて、でもどこか嬉しそうだった。彼女の心にも、新しい感情が静かに広がっているようだった。
ルナは二人の会話を興味津々に聞いていたが、やがて尚也の袖をちょんちょんと引っ張り、瞳をきらりと光らせて無邪気に提案する。
「じゃあ、今日からお父さんとお母さんだね!」
「そ、そうじゃないよ!」
尚也とグレイスが同時に否定すると、ルナはさらに嬉しそうに笑った。その純真な笑い声が、石畳の路地に響いていく。
そう思いながらも、尚也はふと思った。ルナもそうだが、どの村人も詠動を"神"として扱っていた。まるでそれが神聖な奇跡そのものであるかのように。
そして、そこからもたらされる現象を"技術"とは呼ばず、"恵み"と呼んでいた。まるで、人の手によって再現するべき知識ではなく、ただ授かるべきものとして、受け入れているかのように。
尚也は、ルーチェのログ削除の時に、思考に現れた言葉を思い出す。
科学に傾けば自滅し――精神に傾けば停滞する――
ひょっとしたら、この世界は詠動を"神"として崇めた結果、技術が停滞してしまったのかもしれない。尚也の眉間に少しだけ皺が寄った。
では、地球はどうなるのだろう。科学に傾きすぎた結果、滅んでしまうのだろうか……
おれは、この世界に来た意味があったということか——詠動の管理者として来た?いや、そもそもこの世界の調和のために来た?
そんな思考が浮かんでは消え、また浮かぶ。答えのない問いに、尚也は自分でも知らぬうちに眉をしかめていた。
けれど——
(んーーー……考えるのやめておこう)
いつもの尚也のテンションが復活した。彼の表情も、先ほどまでの真剣さから一変して、いつものリラックスした様子に戻っていた。
それを思考で読み取っていたサエコはくすくす笑っていた。
(今はこの世界の神秘とやらを楽しんでおこうか……)
尚也はそう思いつつ、夕日が山々を橙色に照らしているのを眺めた。一行が石畳の道をゆっくりと歩いていく。グレイスは時折ルナの頭を撫で、ルナは楽しそうに二人の間を歩いている。
「これはこれで、悪くないかも……」
尚也のその呟きは、風に紛れて誰にも聞こえなかった。しかし、彼の穏やかな表情は、その言葉が心からのものであることを物語っていた。