22 発見
その矢は、確かにザイクのもの――というより、彼らの隊が使っているもので間違いないということだった。
リベルには馴染みのない文化だったが、この近辺の町の勇者隊の主力の飛び道具は未だに弩であり、飛んだ矢には再使用が出来るものもある。
ゆえに戦闘後に矢を拾い集めることもあるらしいが、他の勇者隊との揉め事――その矢はうちのだ、盗るんじゃねえ――を避けるため、矢に印をつける慣例があるらしかった。
ザイク本人が見つかったかのような盛り上がりようだったが、リベルとしては頭が痛い。
下手に希望を見つけてしまったのだ、約束の半日が経過して、まだザイクが見つかっていなくとも、戻りたくないと主張される未来が見える。
矢が落ちていた様子から、その持ち主がどちらの方向に進んで行ったのかを判別する。
(あっちか……)
その方向に目を向ける。
リベルがほっとしたことに、古い血痕が残っていることもない。
僅かに下方へ傾斜しながら続く岩場が、その先の隧道へと向かっている。
いてもたってもいられなくなった様子の五人の様子を見て、落ち着くまでは迂闊に連れ歩けないと判断する。
周囲に今のところは脅威となるものが接近していないことを確認してから、リベルは彼らに、「ここにいて」と釘を刺した。
リリシアとベリオがリベルに食って掛かろうとしたが、バールがそれを両手で制している。
彼も、筆頭だけあって、自分の今の精神状態――興奮が、迂闊に鉱路を歩いていいものではないことを自覚しているのだろう。
そして仲間を、それがゆえの危険に晒す気もないということだ。
ここはバールに任せて大丈夫だと確信して、リベルは彼に頷き掛けた。
「ちょっと見て来ます」
五人の勇者は、うち二人はやや不満そうだったものの、頷いた。
そこにはリベルがここまでの道中で示した貫禄への、信頼のようなものがあった。
が、僅か数分後に、彼らはリベルの身も世もない悲鳴を聞くことになる。
リベルは隧道を進む。
左手には、レイネから「これは必要だよね」と手渡されたランタン。
今のリベルが視界の確保のためにランタンを必要とすることはないが、このランタンは別の意味で有用だった――仮に、見つけたザイクの生き欠けが、ぱっと見で判断できなかった場合、明りクラゲで判別がつくからだ。
そして、これもリベルは失念していたが――他の勇者たちと離れると、みるみるうちに明りクラゲはその光を翳らせ、ややあって完全に暗闇に溶け込んだ。
リベルはぎょっとしたが、はたと思い出した――今のリベルは、心臓が彼のものではないせいで、明りクラゲから竜であると見做されないのだ。
今は、入った隧道が緩やかに屈折しているためにリベルの姿が彼らの視界から隠れているから良かったが、
(これ、ばれるとちょっと厄介だな……)
リベルは顔を顰めてそう考えた。
先刻までは、他の人間の生命に反応して明りクラゲが光っていたものの、今この場を見られると非常にまずい。
最悪の場合、リベルが鉱路生物であると判断されて、攻撃されかねない。
そう思いつつも、明りクラゲがその光を途絶えさせたということは、逆にいえば他の勇者とは完全に距離が開いたということだ。
リベルは懐から、〈陽輪〉の黄金の鱗を取り出した。
発狂寸前であろう彼――あるいは彼女――に、現状だけでも伝えておこうと思ったのである。
鱗に軽く唇を触れて、声を出す。
「――〈陽輪〉?」
『何をしている』
返った〈陽輪〉の声は相当に苛立っていた。
『早くしろ、時がないのだ』
「いやこっちも頑張ってるところだよ。それを報告しようとしたんだよ」
リベルはうんざりしながらそう言って、軽く息を吸った。
「おまえ、どこにいるの? 鉱路の中?」
『そうだ』
「おまえが入れる入口、よく見つけたね」
『どうでもよかろう』
その語調に、リベルはふと、もしや彼――あるいは彼女――は、力づくで入口を拡張して鉱路に押し入ったのではないかと思った。
が、それを確かめる術はなく、もっといえば確かめる必要もない。
「俺がどこにいるか、わかる?」
『おまえたち二つ虫と違って、私たちは己の一部を見失わない』
「……ああ、そう」
リベルは眉間を押さえた。
黄金竜はすべからく傲慢なのか、それともこれは〈陽輪〉の性格なのか。
「じゃあいいや、俺がピンチになったら助けに来て」
『おまえではなく、愛し子の心臓を助けるのだ』
「なんとでも言え」
周囲に目を配る。
頭上で小型の鉱路生物が鳴いており、今のリベルにはその意味まで取れるが、無視する。
〔歌だ翅だ雫だ音だ。あっちにちょんちょんこっちにこつこつ〕
ともかくも、血痕めいたものはなく、欠け人が彷徨っていることもない。
(パニックになって奥まで逃げたか……)
溜息をつきたい気持ちを堪えてそう考える。
そのとき、視界の隅で何かが動いた。
はっとして、そちらを見遣る。
――が、視線を向けたときには何もいない。
とはいえ居心地の悪さは感じ、リベルは左手で片手剣の鞘の、鞘走留近くを握る。
足を速めて奥へ向かう。
(ケルンを作る機転はなかったか)
とはいえ、発見はあった。
矢が一本、落ちていたのだ。
拾ってみると、先刻見たものと同じ意匠の印がついており、間違いなくザイクのもの。
「こっちに来たことは間違いない」
リベルが、半ばは自分に言い聞かせるために呟いた、そのときだった。
そばの地面が、泡立つように動いた。
「――――!」
その瞬間にリベルが凍りついたのは、その光景に見覚えがあったからだ。
――頭の片隅では、この事態にも歓迎できる側面はあるとわかってはいるものの、それよりも腰が引けようとする本能の方が強い。
思わず後退るリベル、その彼の目の前で、ざばり、と、岩場を水面のように突き破って、まず最初に頭が覗いた。
玄武岩の色合いの、岩と綾羅の間を取ったかのような、曖昧な質感の髪。
しなやかに見えても硬質な印象も受け、目に見える質感どうしで硬軟の矛盾があるその髪の下の、形のよい小さな頭部――岩と綾羅の間を透かしたような、これも奇妙な質感の、紗の印象を受ける肌。
長く緻密な睫毛に匿われた、人のものより丸い、大きな瞳。
その双眸が岩の水面を割ったところで、ちょこん、と、岩から覗いて何かに捉まるときのように掛かる、灰白色の繊手。
ゆっくりと上げられる視線――その目が間違いなくリベルを見て、満面の笑みに細められる。
「…………」
リベルは息を吸い込んだ。
(マジか、マジか、どこにでもいるって本当だったのか!)
恐慌一歩手前の彼の目の前で、間違いなく岩魚の姫君、彼女に相違ないそれは、ざぱっ、と水から勢いよく上がるときのように、一糸纏わぬ上半身を持ち上げた。
リベルが既に遭遇し、危うく岩魚に変えられそうになった原因であった岩魚の姫君と、何もかもが同じだった。
顔も、姿も、表情も、仕草も。
ただし、年の頃だけが異なる。
リベルが遭遇していた姫君は十五歳ほどの見た目だったが、この姫君はそれよりもやや年下、まだ幼さも残る十二歳程度に見えた。
その彼女が、ゆっくりとあどけない仕草で両手を伸ばし、凍りつくリベルの脚に抱き着く。
脚になったのは言わずもがな、まだ上半身までしか岩の上に出ていないからだが――
――その姫君の周囲から、次々と湧き出してくる岩魚たち。
〔姫さまが他の巣の姫さまとして会った奴、こいつ?〕
〔そうみたい、そうみたい〕
〔姫さまがお喜びだ、良かった良かった〕
〔ちょうど振り子も安定期だしな〕
〔いやしかし振り子も進まないうちに会いに来るとは、こいつもなかなか〕
〔いやぁ、良かった良かった〕
姫君が顔を上げて、心底嬉しそうにリベルに笑い掛ける。
この姫君とは初対面のはずだが、全ての姫君が経験も命も共有しているというのは嘘ではないらしい――まるで、「また会えましたね」と言わんばかりの、したりとしたその笑み。
そして、当然のようにリベルの手を握ろうと、その指を伸ばして、
「――うわ……っ」
思わず声を漏らし、そしてそれが弾みとなって、とうとうリベルは悲鳴を上げた。
姫君はどこにでもいるとは聞かされていたものの、話に聞いているだけであるのと、実際に目にするのとでは余りにも違う。
そして純粋に、鉱路生物にここまで目をつけられている事態が恐怖だった。
身も世もないリベルの悲鳴に、岩魚の姫君が大きく目を見開く。
ついでに周囲の岩魚も、一斉に静まり返った。
ややあって岩魚がぼそりと言ったが、それは偶然にも、当たらずとも遠からず、リベルの性質を言い当てていた。
〔……あれかな、こいつ、照れ屋なのかな〕
とはいえリベルとしては、「違う、そうじゃない」と叫びたい場面ではあった。
*◇*◇*
バールたちとしては、最大の困惑と恐怖に襲われた一時だった。
鉱路の奥へと向かった、彼らよりも相当に手練れの勇者の、身も世もない悲鳴が響いてきたのである。
駆けつけようとする思いと、彼が追い詰められているのであれば、自分たちが向かったところで邪魔になるだけではないかという判断、二つの間で凍りついていることしばし。
体感では何時間もが経過し、実際には十数分が経過した頃、奥からよろよろとリベルが戻ってきた。
ランタンは持っておらず、手ぶらである。
途端にそちらに駆けていったのはリリシアとレイネ、二人の接近に、リベルが気を呑まれた様子で足を止める。
「大丈夫っ!?」
「ザイクがいたの!?」
叫ぶような問いも全く同時、リベルが両手で二人を制す。
「違う、ごめん。俺が叫んだの、聞こえちゃってたかな……」
そう言いつつ、ちらりとバールたちに視線を遣るリベル。
バールとティドが重々しく頷くと、気まずそうに後頭部を掻く。
「びっくりさせてすみません。えーっと……思わぬところに思わぬ鉱路生物がいて、つい……」
もごもごとそう言うリベルに、「びっくりさせないでくれよ」と言いつつも胸を撫で下ろすバール。
リリシアが、ぎゅっとリベルの腕を掴む。
関節が白くなるほど力を籠めて。
「ザイクは、ザイクは」
「落ち着いて」
リベルは言って、穏やかにリリシアの手を解かせた。
ぎゅっと握られて腕が痛んだだろうに、そんな素振りは見せない。
そして彼女の掌の上に、ぽんと、一本の――弩用の、短い――矢を載せた。
「これ、ザイクさんのですよね? 向こうに落ちてました」
リリシアが、ぎゅう、と矢を握り締める。
「ザイクは――」
「まだ見つかってませんけど、――あー」
言葉に迷った様子で頬を掻いてから、リベルは曖昧な仕草で、たった今彼がやって来た方を示した。
「有力な手掛かりは見つけたので、ついて来てください」
リベルとしては、げっそりしながらも掴んだ手掛かりだった。
まず、リベルが岩魚の姫君に遭遇した事実を呑み下すのに数十秒かかり、それから必死になって、岩魚たちに「捜している人間がいるので、捜索を手伝ってほしい」と伝えようとしたものの、意図を伝えるのに難儀した。
岩魚の姫君は、リベルが口を開く度に、ひどく感心したという表情を浮かべ、にこにこしながら頷いていたが、リベルが言っていることを理解していないのは明白で、岩魚たちに至っては、今にも〔じゃ、おまえ今から岩魚になる?〕と言わんばかりだった。
実際に、大挙してリベルを巣に案内しようとする彼らを止めるために、リベルは声も嗄れんばかりに制止の言葉を繰り返した。
リベルは苛立ちに叫びそうになりながら説明を繰り返し、ザイクの見た目を説明し、ついにはのほほんと微笑むばかりの岩魚の姫君に向かって、「こいつを見つけてくれたら、俺はものすごく嬉しいし、感謝する」と伝える羽目に陥った。
そして、それを聞くや真剣に耳を傾けてくれるようになった姫君に、危機感にも似た居心地の悪さと戦慄を覚えたが、ともかくも岩魚の協力は得た。
今度は、人間の見た目を観察することに慣れていない彼らにザイクの容姿を呑み込ませ、彼らの記憶をはっきりさせることに苦戦したが、それでも彼の足跡を割り出すことは出来た。
あとは向かうだけだ。
想定していたよりも上々の首尾に喜べばいいのか、鉱路で常に岩魚が寄ってくるようになってしまったことを嘆けばいいのか。
が、
(俺が俺の心臓を取り返せば、こいつらとも言葉が通じなくなって、縁は切れる……)
もはや縋るようにそう考える。
リベルは、ランタンを隧道内に置いて、他の五人のところに戻っていた。
――というのも、明りクラゲがリベルには反応せず、他の五人に反応して光る様を見られると非常に困るからである。
ゆえに、今度はリベルが他の五人と共にランタンに近付くにつれ、当然ながら明りクラゲが白く光るのを、誰もが違和感なく見つめた。
ただレイネだけが、きょとんとしたようにランタンを見ている。
「――どうしてわざわざ置いてきたの?」
尋ねられ、リベルはもはや上の空で、ランタンを拾い上げて彼女に手渡す。
「んー、目印」
そう言いながら、リベルは注意深く地面を見つめている。
ひょこ、と、他の五人には見えないだろう――明りクラゲの光が届かないところで、岩魚が数匹、頭を出した。
それを追って、リベルが足を進める。
彼が突然、確信を持って進み出したので、他の五人は面喰らったようだった。
レイネとティド、そして誰よりもバールには警戒が見える。
一方リリシアとベリオには、驚きと共にそれ以上の希望、熱狂、そういった感情が見えた。
ケルンだけは作っておくようにと指示して、これにはレイネが魔法で応じていた。
〔こっち〕
〔こっちこっち〕
〔あっ〕
岩魚の一匹が、他の一匹からの伝言を聞いた途端に黙り込み、気まずそうに呟いた。
〔――二本足の竜って、頭らしきところは無事じゃなくても、総じて無事でいられるんだっけ?〕
「――はっ?」
〔あー、知らないけど、なんかいけそう〕
〔確かに。あいつら、何しても動くよな〕
〔死なないっぽいの、羨ましいですよねー〕
「――んなわけっ」
リベルは思わず声を漏らし、怪訝そうな顔、あるいははっきりとした疑念の表情を浮かべる五人を振り返った。
「すみませんけど、走ります。急いで」
分岐した坑道を、岩魚の先導で走り抜ける。
岩魚曰く、ザイク――と彼らが認識している人間――は、この辺りで道に迷い、行きつ戻りつを繰り返していたようだ。
どうしてケルンを作らなかったんだ――とリベルは訝しんだが、理由は単純で、ザイクが明かりを持っていなかったからだ。
今のリベルの意識には昇りにくいことだったが、視界が全く利かない状況にあって、ケルンを作れという方が無茶で、かつ作ったところで無駄なのだ。
暗闇と混乱があって方向感覚が狂い、自分がどちらから来たものかわからなくなって、完全に道に迷ったものと見える。
そしてつい先刻、とうとう、鉱路生物の巣に踏み込んでしまったらしい――あるいは引きずり込まれたか。
その辺りの詳しい前後関係は、岩魚の不明瞭な説明ではわからない。
尋ね返している場合でもない。
今まで無事だったことを称えるべきか、今まで無事だったのだからあともう少し無事でいてくれても良かったのではないかと詰るべきか。
――坑道の分岐を、何の躊躇いもなく選択して駆け抜けるリベルに、疑念と困惑の視線が集中する。
とはいえもはや問い質せる雰囲気もなく、幾重にも足音を反響させながら坑道を突き進む。
(でも、無視してる坑道も調べるべきじゃ)
レイネは突発的にそう考えたものの、無視して駆け抜けた坑道の数を思って眩暈を覚えた。
(全部の坑道を調べるとなれば何年かかるかな)
それにしてもリベルの足は速い。
まさに飛ぶようだ。
これまでは断固としてレイネたちとの距離を開けずにいたものを、今や背後の五人は一顧だにしない。
みるみるうちに五人とリベルの距離が開いていく。
坑道の曲がり角にリベルの姿が消える度に、レイネは心臓がきゅっと縮まるような不安を覚える。
リベルが、岩の割れ目にしか見えない、大きな隙間に躍り込んでいく。
そのとき既にリベルは剣を抜いていた――鋼の閃きが、レイネが持つ明りクラゲの光が届いて煌めいている。
(明かりもないのに、どうやって)
掠めるような疑問は一瞬。
すぐさま怒声が轟く――リベルの声だ。
彼が腹の底から怒鳴る声を、レイネたちは初めて聞いたことになる。
「――起きろ!!」
リリシアが真っ先に、リベルに続いて岩の割れ目に滑り込んだ。
続いてベリオ、続いてレイネ――踏み込んでみると、岩の割れ目は想定よりも大きく、そしてその向こうに広がる洞穴は大きい。
足許がべとつく。
頬や額にもべたついた何かが触れて、鳥肌が立つ。
ランタンしか光源のない中では、レイネが正確に状況を把握することは不可能だった。
だが、それでも最低限必要となる状況を把握することは出来た。
――一に、ここは鉱路生物の巣だ。
足許に広がってべたつくもの、また顔や手に触れて彼女を総毛だたせているものは、その鉱路生物が巣を拵えるに当たって使った、その生物由来の何かだ。
二に、その鉱路生物は巨大な蜘蛛に似た姿をしている。
ランタンが振り撒く明かりが激しく揺れる――というのも、ランタンを持つレイネの手も、バールの手も、激しく揺れているからだ――中にあっても、見上げるばかりの大きさの、その姿の概要はわかる。
色合いまでは見て取れないものの、レイネの目には巨大な黒い影に見えていた。
レイネも数年に亘ってこの鉱路には潜り続けているが、この形状の鉱路生物には遭遇したことがなかった。
単にこの鉱路生物の巣が奥にあったためか、それともこの鉱路生物が、最近になって他の鉱路から渡ってきたのか。
そして同時に、ではこの足許に広がっているもの、顔や手に触れているものは蜘蛛の糸なんだ、と気づき、猛烈な生理的嫌悪に襲われる。
――そして三に、ザイクがいた。
巨大な蜘蛛に似た姿の鉱路生物――蜘蛛にしては、脚の数が多いような気もする――が、せっせと引き寄せようとしている餌、それこそがザイクだった。
ザイクのがっしりとした身体に向かって、幾つも幾つも筋が伸びている――いや、違う、糸だ。
蜘蛛の糸が絡みついているのだ。
見つけた、という安堵よりも歓喜よりも、凄まじい焦燥感と恐怖が先に立つ。
ザイクはぐったりしていて、動かない。
欠けていれば、欠け人特有の、あのどこかに行こうとする挙動を見せるはずで、それを思えばまだ生きているのかも知れないが――
「起きろ!」
再び、リベルが怒鳴った。
そして奇妙なことに、まるで鉱路生物に向かって言うかのように、叫んだ。
「駄目だ!」
蜘蛛に似た鉱路生物が身動ぎした。
かさかさと沢山の脚が動いて、鉱路生物がこちらに向きを変えた。
その紅い複眼が、明りクラゲのランタンの光を反射して、無機質に、硝子のように煌めいた。
がしゃっ、がしゃっ、と微かな音がして、それはその鉱路生物が、巨大な鋏角を、噛み締めるように動かす音だった。
レイネは本能的な恐怖に息を呑んだ。
歯の根が震える心地がしたが、一方で、よし、これでザイクからあいつは目を離した、ザイクは延命された、と、快哉を叫ぶ気持ちもあった。
リベルが腹立たしそうに呟く声が耳に入った。
「くそっ、〈氷王牢〉があれば一撃だったな」
レイネは〈氷王牢〉が何かを知らない。
尋ね返せる場合でもない。
リベルが、追い着いてきた五人をちらりと振り返る気配。
そして彼の小さな声――まるで、誰かに盗み聞きされることを恐れているかのような。
「――ザイクさんを助けにいきますけど、いいですか、このなまくらだと、あいつの糸に巻かれると切れ味なんて消し飛ぶんで。
取り敢えず俺が正面から行くから、あなたたちは頑張ってあいつの気を引いて」
「気を、引く」
ティドが喉に絡んだ声で呟く。
「けど、今は、影契約は使えない……」
言うまでもない、眼前のあの蜘蛛が大型の鉱路生物であるがゆえに。
「だろうな」
リベルは事も無げにそう言って、ティドを見遣る。
今までとは違う、人見知りの仮面が剥がれ落ちたような、品定めするかの如きその視線。
「ティド、きみ、熱精と契約してるって言ってたっけ?
――ちょっとここから離れて、火を熾してから戻って来て。荷物の中に、何か燃えるものくらいあるでしょ」
「あるけど、――火?」
ティドが訊き返す。
ちら、とバールを見て、ティドの整った顔が困惑に歪む。
「それくらいは出来るけど……でも……」
「きみがいてもいなくても、ここの状況は変わらないよ。あと、さっき言ったよね。俺の方が場数は踏んでる」
リベルが恬淡とそう言って、顎でティドを促した。
ティドはもう一度バールを振り仰ぎ、同じく戸惑った様子ながらも彼が頷くのを確認して、たっと元来た道を駆け出して行った。
「よし」
リベルが呟き、レイネは嫌な予感を覚える――彼が、この巨大蜘蛛には敵わないと見て取って、最年少のティドだけでも安全圏に逃がしたのではないかと、ふとそんな考えが過ったのだ。
だが敢えてそれを呑み下し、レイネは唾を飲んでから尋ねる。
「気を引くって、どうやって」
レイネはリリシアの、バールはベリオの腕をそれぞれ掴んで、二人が突進しようとするのを抑えている。
「別に難しくないよ。あいつからすれば、ご馳走の竜の眷属四匹だぜ。今だって大盛り上がりであなたたちに注目してる。うるさいくらい。だから、適当にちょっかいを掛けて」
リベルが無表情に淡々と言う。
「俺がザイクさんを確保したら、次の指示を出します。思うところがあっても、いい、絶対にそれに従って」
そしてリベルは、にやっと笑った。
人が変わったかのような、獰猛なその笑み。
「――で、本人が生きてるにせよ欠けてるにせよ、俺はあの人を見つけるっていう約束は果たしたわけだから、〈言聞き〉については俺に話すように、帰ったらあのおじいさんを説得してくれよ」
「ちょっと!」
リリシアが悲鳴を上げる。
ザイクを目の前にして、その彼の無事が定かではない現状に半狂乱になっているのだ。
彼女の肩を掴んで宥め、レイネはバールが、「もちろん」と返答するのを聞き、息を吸い込む。
これから、あの不気味な鉱路生物の注意を引き付けることにも、ザイクの無事が保証されているわけではないことにも、
「――覚悟は出来てるよ」
囁いた彼女に、リベルが目を向ける。
朱色の瞳。
無関心でさえある――ふとしたときに見せていた幼さや、人見知りめいた気恥ずかしさが一切削がれた、凛とした瞳。
その瞳が、閃くような笑みに煌めく。
「覚悟?」
リベルは平然と言った。
「そんなものは弱者の胸にあるものだ。――強者には常に自由がある」




